3・デートの誘い

 つい、ハッとしてしまったせいだろう。

 千鶴は「だれだれ?」とスマートフォンを覗き込んできた。


「もしかして緒形さん?」

「まさか。連絡先、知らないもん」

「じゃあ──浜島はまじまさん?」


 興味津々に訊ねられて、菜穂はうっすらと頬を染めた。それだけで、聡い千鶴はいろいろ察してくれたようだ。


「やっぱりそうか。この間の飲み会で意気投合してたもんね」

「そんなことないよ、ふつうだよ」

「でも、ふたりでずーっと話し込んでたじゃん」

「それは……たまたま映画の趣味が合ったからで」


 浜島は、制作部署に出入りしているフリーランスの校正者だ。普段は、別室でライターやディレクター、制作会社があげてきた原稿に赤入れをしている。

 もちろん、菜穂も仕事上の会話をかわしたことは何度もあった。ただ、それ以外の──たとえば趣味の話などをしたのは、先日の飲み会が初めてだったのだ。


「で、なに? やっぱりデートのお誘い?」

「デートってわけじゃ……映画に誘われただけだよ」

「それを世間一般では『デート』っていうんだって!」


 そうなのだろうか。──そう受け取ってもいいのだろうか。

 同意したい反面「うぬぼれでは?」との不安もある。けれど、千鶴がここまで言い切ってくれるのなら、そう思ってもいいのかもしれない。


「で、いつ行くの?」

「いちおう……明日の夜」

「早っ」

「だって、来週からはまた忙しくなるし」


 納期が近づいてくれば、菜穂も浜島も残業をしなければいけなくなる。定時あがりで映画を見に行けるのは、直近だと今週末までだ。


「となると、明日ついに──か」

「なにが?」

「決まってるじゃん」


 千鶴は意味ありげに笑うと、菜穂の耳元に唇を寄せてきた。


「初・体・験。いよいよじゃん?」


 わざと区切るように囁かれて、菜穂はグッと息をのんだ。


「そんなの、どうなるかわからないよ」

「だとしても、あり得なくはないでしょ。夜のデートなんだし」

「でも、平日だよ?」

「いいじゃん、一緒に出社すればいいじゃん」


 だから、と千鶴はやわらかな身体を寄せてきた。


「やっちゃいなよ」

「なに言って……」

「大事なのは勢いだよ。それと『ノリ』。それだけだって」


 いともたやすく言いきる同僚に、菜穂はなかなか同意できない。そんな彼女の逡巡に気づいたのか、千鶴は形のいい眉をわずかにひそめた。


「もしかして、浜島さんじゃ不満?」

「まさか! そんなことないよ」

「じゃあ、なにかこだわりがあるとか? 『結婚が決まった相手としかやりたくない』とか『婚前交渉はNG』とか」


 それも違う。ごく人並みの、誰かと夜をともに過ごすことへの憧れは、菜穂のなかにも間違いなく存在している。

 だったらいいじゃん、と千鶴は目を輝かせた。


「大丈夫、ハードルが高いのは最初だけだって! 飛び越えちゃえば、あとはどうってことないから」

「……そうかな」

「そうだよ! だから、難しく考えないでさっさとやっちゃいな!」


 励ますように肩をぶつけてくる同僚に、菜穂は曖昧な笑みを返した。

 まさか、言えるはずがなかった。その最初のハードルで派手に転んだせいで、未だ再スタートを切れずにいるだなんて。


(でも、浜島さんとなら、もしかしたら……)


 実際、飲み会での彼の印象はかなり良かった。決して上手とはいえない菜穂のトークにも終始笑顔で耳を傾けてくれて「お付き合いするなら、こういう人がいいのかも」とひそかに思ったのも事実だ。


(それに……浜島さんなら言わないよね)


 10年前、緒形が菜穂にぶつけてきたような言葉を、彼なら口にしないような気がする。


「ま、うまくいったら報告してよ」

「……っ、しないよ、そんなこと!」

「『しない』ってどっちを? 報告? それとも……」


 初体験、と千鶴が口にする前に、菜穂は足早にその場をあとにした。まだそうなると決まったわけでもないのに、頬が火照って仕方がなかった。

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