2・まさかの彼から…

 菜穂は、わずかに後ずさった。

 まさか向こうから声をかけてくるとは思ってもみなかった。いや、それ以前に、菜穂に気づいていたこと自体に驚いた、というべきか。


「あれ、俺のこと覚えていない? 緒形だけど。高校時代の」

「覚えて、ます」


 やっと出てきた声は、情けなくもかすれていた。

 緒形は「なんで敬語?」と軽く笑ったあと、つりあげていた唇を少しゆるめた。


「よかった、忘れられていなくて。いつからうちの制作に? 正社員──ではないよな?」

「派遣で。1年前から」

「へぇ、ディレクターとして? それともライター?」

「進行管理、かな」

「あーわかる気がする」


 どういう意味だろう、と眉をひそめると、緒形はいたずらっぽく目を細めた。


「だって三辺、昔からしっかり者だっただろ?」

「そんなこと、ないと思うけど……」

「あるって! 宿題とか提出物とか、絶対忘れなかったし。俺、何度か宿題を見せてもらったよな」


 懐かしそうに口にする緒形に、菜穂はなんとも言えない気持ちになる。

 まさか、そんなささやかな出来事を覚えていたなんて──そう驚く一方で、ならば「あの日のこと」も忘れていないのではないか、という不安がじわじわとこみあげてくる。


(それは、嫌だ)


 できれば、忘れていてほしい。なんなら、自分の存在ごと忘れてもらっても構わない。

 黙り込んだ菜穂を特に気にする様子もなく、緒形は「あっ」と声をあげた。


「もしかして三辺、うちの部署の担当だったりする?」

「まさか。私は営業3部担当」

「なんだ、残念。三辺が担当ならよかったのに」


 なめらかすぎる営業トークは、高校時代の彼からは想像できないものだ。


(もっと、ひねくれた物言いをする人だったよね)


 あるいは、あの頃よりも距離を置かれているのかもしれない。こんなふうに、当たり前のようにお世辞を言われるくらいには──


「あれ、菜穂……と、緒形さん?」


 ふいに声をかけられて、菜穂はハッと我に返った。

 振り返ると、派遣仲間の千鶴が、怪訝そうにこちらを見ている。


「どうも。制作の人?」


 にこやかに返した緒形に、千鶴は「あ、はい!」と背筋をのばした。


「進行管理の野里です」

「野里さんね。担当は?」

「営業3部です」

「そっか、三辺と同じなんだ」

「……『三辺』?」


 苗字とはいえ、菜穂を呼び捨てにしたことが気になったのだろう。


「ああ、ええと……」


 どう説明しようかと迷う菜穂の傍らで、緒形はソツのない笑顔で言いきった。


「俺たち、高校時代のクラスメイトなんだ」

「ええっ、そうなの!?」

「う、うん……まあ」

「なにそれ、すごい偶然! ていうか運命じゃん!」

「違うよ、そういうのじゃないから!」


 菜穂が慌てて否定したところで、営業フロアから緒形を呼ぶ声が聞こえてきた。


「じゃあ、俺はこれで」


 今後ともよろしく、と軽く手をあげて、緒形はあっさり戻っていった。その後ろ姿は、高校時代よりもしっかりしていて、嫌でもこの十年の歳月を感じさせる。


「すごいじゃん、めちゃくちゃすごいじゃん!」


 興奮した様子で、千鶴が左腕に抱きついてきた。


「なんで同級生だって教えてくれなかったの?」

「向こうは、私のこと忘れてると思ってたから……」

「でも、覚えてたじゃん! やっぱ運命だよ!」

「そんなことないってば」


 少なくとも、緒形はそんな目で自分を見ていない。だから、先ほどもあっさり「元クラスメイト」と言いきったのだ。


(そもそも、たったの3ヶ月だし……付き合ってたの)


 その程度の交際は、彼のなかではノーカウント扱いなのだろう。

 だとしても、そのことを嘆くつもりはない。

 むしろ、そのほうがずっと気が楽だ。なにせ、緒形との思い出はそれほど苦いものなのだから。

 そっと息をついたところで、スマートフォンにメッセージが表示された。

 送信者は──浜島直はまじまなおだ。

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