第1話
1・とある日の休憩室
けれど、それではあまりにも昔すぎるし、当時のあれやこれやは
よって、さかのぼるのは3ヶ月ほど前にしておこう。
舞台は菜穂の派遣先である広告会社、その休憩室での一幕だ。
「聞いた? 営業の山田さん、北海道に転勤だって」
派遣仲間の
「それって栄転?」
「じゃないの? 向こうでマネージャーになるみたいだし」
「山田さん、営業成績いつも上位だったもんね」
彼女たちの会話を、菜穂は「そうなんだ」と半ば感心しながら聞いている。
同じ派遣社員であるはずなのに、皆ずいぶん社内事情に詳しい。制作部署の人たちのことならまだしも、他部署の社員となると菜穂はからきしだ。
「それで? 山田さんの代わりは?」
「大阪から来るらしいよ。あくまで噂だけど」
「ってことは関西人?」
「男? 女?」
「女の人じゃない? 下の名前、たしか『ユキノ』だったはず」
一瞬、マイボトルにのばしかけた手が止まった。
菜穂の脳裏をよぎったのは、高校時代の「とある人物」だ。
少し着崩した制服。メガネの奥の、どこか一癖ありそうな眼差し。窓際の席で、華やかな女の子たちに囲まれていた「ユキノ」は、女子ではなく男子だったけれど──
「女性の営業かぁ。それならやりとりしやすいかな」
「どうだろう、人によるんじゃない?」
「たまにいるもんね、女でもヒステリックな人」
「女性でそっち系だと、ほんとヤバいよねぇ」
そんな派遣社員同士のさえずりが、たまたま耳に届いたのか。近くの席にいた若い男性社員が「違いますよ」とこちらに顔を向けてきた。
「今度来る営業さん、女性じゃないです」
「えっ、そうなの?」
「でも『ユキノ』って名前なんでしょ?」
「
菜穂の心臓が、派手な音をたてた。
(緒形……緒形雪野?)
いや、まだあの「緒形雪野」だと決まったわけではない。もしかしたら、ただの同姓同名かもしれない。
だって、どれだけの確率だろう? 高校時代のクラスメイト──しかも「元カレ」と、同じ勤務先になるだなんて。
菜穂は、テーブルの下で祈るように手を組んだ。
どうか「彼」ではありませんように。まったく別の「緒形雪野」でありますように──
だが、菜穂のささやかな願いは叶えられなかった。
月が変わった最初の出勤日、大阪から異動してきた営業マンは、マネージャーにつれられて制作部署に顔を出した。
「今日から営業1部でお世話になります緒形です。関西には3年いましたが、面白いことはまったく言えないのでお手柔らかにお願いします」
人当たりの良さそうな笑みと、くだけた挨拶。
周囲に、好意的な笑いが広がった。「イケメンじゃん」と呟いたのは、すぐ隣にいた派遣仲間の千鶴だ。
一方、菜穂は今すぐにでも逃げ出したいような衝動にかられていた。
異動してきたのは、やはりあの緒形だ。メガネはかけていないものの、あの顔は記憶の「彼」と間違いなく一致する。
(大丈夫……気づかれるはずがない)
制作部署には、菜穂たち派遣社員の他に、正社員・契約社員・フリーランス契約の人たちが大勢いる。
しかも、菜穂が所属する制作チームは、営業1部の担当ではない。
(だから大丈夫、きっと大丈夫……)
その後、緒形は担当チームと挨拶をかわして営業フロアに戻っていった。
よかった、と胸をなで下ろす菜穂の隣で、千鶴が「やばい、当たりじゃん!」とはしゃいだ声をあげている。
「いいなぁ、私も営業1部担当したーい」
「でも、1部ってかなりクレームが多いって聞くよ。担当の大木さん、納期前になるたびに顔色悪くなってるし」
「それ! 大手クライアントはそこがねぇ」
他愛のない会話をかわしながら、クライアントから戻ってきた原稿の修正指示を確認する。まだ納期まで十分余裕があるなかで、こうして早めにチェックバックをもらえるのは、進行管理担当としては非常にありがたい。
「ねえ、この表記、大丈夫だっけ?」
「あーそれ、ダメかも。ガイドラインに書いてなかったっけ?」
「
「ありがとうございます」
あれだけ胸をざわつかせた緒形のことも、いざ業務に集中しはじめると、思い返すことはほとんどない。「幸いにも」というべきか、10年以上も前の思い出にいつまでも浸っていられるほど、時間に余裕のある職場ではないのだ。
結局、菜穂がひと息ついたのは午後3時をまわってからだ。
マイボトルの紅茶が、いつのまにか空になっている。新しく淹れなおそうと、菜穂は引き出しからティーパックを取り出した。
制作フロアと営業フロアの境目にはウォーターサーバーが設置されている。レバーを押すだけでお湯も出てくるので、菜穂はいつもこのウォーターサーバーを利用していた。
(今日は定時であがれるかな。来週から忙しくなるし、早く帰れるうちに帰っておかないと……)
そんなことを考えていたせいだろうか。背後から人が近づいてきていることに、菜穂はまったく気づいていなかった。
「
ウォーターサーバーの赤いレバーを押そうとしたところで、聞き覚えのある声が耳元で弾ける。
菜穂は、半ば反射的に振り返り、すぐに後悔した。
背後に立っていた元カレは、数時間前のソツのない笑顔ではなく、記憶どおりの癖のある笑みを浮かべていた。
「やっぱりそうだ。久しぶり、三辺」
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