第1話

1・とある日の休憩室

 がたとの出会いを語れ、と言われたら今から10年ほど前までさかのぼらなければいけなくなる。

 けれど、それではあまりにも昔すぎるし、当時のあれやこれやは菜穂なほにとってあまり良い思い出ではない。

 よって、さかのぼるのは3ヶ月ほど前にしておこう。

 舞台は菜穂の派遣先である広告会社、その休憩室での一幕だ。


「聞いた? 営業の山田さん、北海道に転勤だって」


 派遣仲間のづるの一言に、その場にいた皆が「へぇ」と声をあげた。


「それって栄転?」

「じゃないの? 向こうでマネージャーになるみたいだし」

「山田さん、営業成績いつも上位だったもんね」


 彼女たちの会話を、菜穂は「そうなんだ」と半ば感心しながら聞いている。

 同じ派遣社員であるはずなのに、皆ずいぶん社内事情に詳しい。制作部署の人たちのことならまだしも、他部署の社員となると菜穂はからきしだ。


「それで? 山田さんの代わりは?」

「大阪から来るらしいよ。あくまで噂だけど」

「ってことは関西人?」

「男? 女?」

「女の人じゃない? 下の名前、たしか『ユキノ』だったはず」


 一瞬、マイボトルにのばしかけた手が止まった。

 菜穂の脳裏をよぎったのは、高校時代の「とある人物」だ。

 少し着崩した制服。メガネの奥の、どこか一癖ありそうな眼差し。窓際の席で、華やかな女の子たちに囲まれていた「ユキノ」は、女子ではなく男子だったけれど──


「女性の営業かぁ。それならやりとりしやすいかな」

「どうだろう、人によるんじゃない?」

「たまにいるもんね、女でもヒステリックな人」

「女性でそっち系だと、ほんとヤバいよねぇ」


 そんな派遣社員同士のさえずりが、たまたま耳に届いたのか。近くの席にいた若い男性社員が「違いますよ」とこちらに顔を向けてきた。


「今度来る営業さん、女性じゃないです」

「えっ、そうなの?」

「でも『ユキノ』って名前なんでしょ?」

形雪がたゆきさんのことですよね? だったら間違いなく、男ですね」


 菜穂の心臓が、派手な音をたてた。


(緒形……緒形雪野?)


 いや、まだあの「緒形雪野」だと決まったわけではない。もしかしたら、ただの同姓同名かもしれない。

 だって、どれだけの確率だろう? 高校時代のクラスメイト──しかも「元カレ」と、同じ勤務先になるだなんて。

 菜穂は、テーブルの下で祈るように手を組んだ。

 どうか「彼」ではありませんように。まったく別の「緒形雪野」でありますように──



 だが、菜穂のささやかな願いは叶えられなかった。

 月が変わった最初の出勤日、大阪から異動してきた営業マンは、マネージャーにつれられて制作部署に顔を出した。


「今日から営業1部でお世話になります緒形です。関西には3年いましたが、面白いことはまったく言えないのでお手柔らかにお願いします」


 人当たりの良さそうな笑みと、くだけた挨拶。

 周囲に、好意的な笑いが広がった。「イケメンじゃん」と呟いたのは、すぐ隣にいた派遣仲間の千鶴だ。

 一方、菜穂は今すぐにでも逃げ出したいような衝動にかられていた。

 異動してきたのは、やはりあの緒形だ。メガネはかけていないものの、あの顔は記憶の「彼」と間違いなく一致する。


(大丈夫……気づかれるはずがない)


 制作部署には、菜穂たち派遣社員の他に、正社員・契約社員・フリーランス契約の人たちが大勢いる。

 しかも、菜穂が所属する制作チームは、営業1部の担当ではない。


(だから大丈夫、きっと大丈夫……)


 その後、緒形は担当チームと挨拶をかわして営業フロアに戻っていった。

 よかった、と胸をなで下ろす菜穂の隣で、千鶴が「やばい、当たりじゃん!」とはしゃいだ声をあげている。


「いいなぁ、私も営業1部担当したーい」

「でも、1部ってかなりクレームが多いって聞くよ。担当の大木さん、納期前になるたびに顔色悪くなってるし」

「それ! 大手クライアントはそこがねぇ」


 他愛のない会話をかわしながら、クライアントから戻ってきた原稿の修正指示を確認する。まだ納期まで十分余裕があるなかで、こうして早めにチェックバックをもらえるのは、進行管理担当としては非常にありがたい。


「ねえ、この表記、大丈夫だっけ?」

「あーそれ、ダメかも。ガイドラインに書いてなかったっけ?」

なべさーん、あすゆき社の佐藤さんから電話。2番ね」

「ありがとうございます」


 あれだけ胸をざわつかせた緒形のことも、いざ業務に集中しはじめると、思い返すことはほとんどない。「幸いにも」というべきか、10年以上も前の思い出にいつまでも浸っていられるほど、時間に余裕のある職場ではないのだ。

 結局、菜穂がひと息ついたのは午後3時をまわってからだ。

 マイボトルの紅茶が、いつのまにか空になっている。新しく淹れなおそうと、菜穂は引き出しからティーパックを取り出した。

 制作フロアと営業フロアの境目にはウォーターサーバーが設置されている。レバーを押すだけでお湯も出てくるので、菜穂はいつもこのウォーターサーバーを利用していた。


(今日は定時であがれるかな。来週から忙しくなるし、早く帰れるうちに帰っておかないと……)


 そんなことを考えていたせいだろうか。背後から人が近づいてきていることに、菜穂はまったく気づいていなかった。


なべ……だよな?」


 ウォーターサーバーの赤いレバーを押そうとしたところで、聞き覚えのある声が耳元で弾ける。

 菜穂は、半ば反射的に振り返り、すぐに後悔した。

 背後に立っていた元カレは、数時間前のソツのない笑顔ではなく、記憶どおりの癖のある笑みを浮かべていた。


「やっぱりそうだ。久しぶり、三辺」

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