第18話:拓けた世界のその先で
「――ん」
目を開けると、入院患者用の部屋。あたしの傍らでティオも目を開いた。
「よくやった、と労ってやろう」
「ティオもね。お疲れ様」
枕元のハートリウムに目をやる。穏やかな青をしていた。もうすぐ夜が明ける、その報せの色。もう大丈夫だ、ここからまた歩いていける。胸を撫で下ろすと同時、ハートリウムの主が声を漏らす。
「う、んん……」
ゆっくりと体を起こす患者――カイルさん。目が覚めたものの、まだ混乱しているようだった。深く、永い眠りに就いた後だ。すぐには現実を受け入れられないだろう。
おまけにここは自宅ではない、見慣れない景色もまた彼の混乱を加速させているかもしれない。まずは緊張をほぐしてあげたほうがいいか。笑顔を向ける。
「初めまして、カイルさん。カウンセラーのミライだよ、こっちは相棒のティオ」
「やあ、不躾なことを言ってすまかったね」
「あ、いえ……その、はい。えっと、カイルです。まずは、その、ありがとうございました」
実際に話すとどこか気弱そうに見える。ハートリウムでは理路整然としていたことから、心には一本芯が通っているのだと思う。ただ、人と話すとなると勝手が違うのかもしれない。
ひとまず状況整理を手伝ってあげた方が良さそうだ。まずはここがどこかから教えてあげよう。
「ここはカウンセラー本部だよ。入院患者用の部屋なんだ」
「キミの体とハートリウムはこちらで保護させてもらった。母親から遠ざけているから、安心するといい」
母親が取り調べを受けていることに関しては触れないでいた方がいいだろう。あれだけの感情を持っていても親は親だ、彼の心に影響がないとも限らない。
カイルさんは安心したのか、ほんの少しだけ表情を緩めた。直後、目から一筋、雫が滴る。
「……よかった。ここに母はいないんですね」
ぼろぼろと涙を流すカイルさん。相当のストレスだったのだろう。この涙は悲しみではない、極度の緊張感からの解放の証だ。たくさん頑張ってきたからこその涙である。
「少し休んで、ゆっくりこれからのことを考えていこう。お母さんには絶対に面会を許可しないから、安心してね」
「必要な手続きがあれば全てこちらで代行できる。キミはキミのことだけを真剣に考えてあげるんだ、いいね」
「はい……ありがとう、ございます」
必死に涙を拭うカイルさんの姿を見て胸が痛んだ。親があれだけ苛烈な人だ、実の息子にだってどこまでのことをしていたか。想像するだけで身の毛がよだつ。
ふと、アステルの話を思い出す。彼もまた親が家に帰らず、母親一人で育児をしていた。その結果、心が擦り切れてハートリウムが生まれてしまった。だが、彼は母親を大切にしていた。
二人の違いは、親としての在り方だろう。アステルの母親が彼を守ろうとしていたのに対して、カイルさんの母親は自分のプライドを守ることが最優先だった。
親にとって子供とはどういう存在なのか。それは子供のあたしにはわからないし、ティオやマリア、実の両親に聞いてみなければわからない。
――ううん、違う。聞いたってわかりっこない。
口ではなんとでも言える。耳に優しい言葉で騙せるほど子供は単純ではない。確かなものを与えてほしい、安心させてほしいのだ。愛情という形のないものだったとしても、それがほしいとねだるのは自然なこと。
その点で言えば、アステルの母親はそれを与えていたのだと思う。行動で、生き様で彼を愛していたことを証明し続けたとわかる。
そう考えたとき、両親はあたしのことを愛してくれていたのかがわからなくなった。胸に穴が空いたような虚しさを覚える。
そのときドアが開かれ、アステルが顔を出した。泣き止まないカイルさんを見て息を漏らす。
「よかった、無事に終わったんだな」
「うん、おかげさまで」
ピースサインを見せると、アステルも安堵したように胸を撫で下ろした。昨日から表情が豊かになっているようにも思える。なにかきっかけがあったのかもしれない。
それはそれとして、カイルさんだ。改めて向き直ると、どこか遠くを見詰めていた。まだ実感が湧かないのだろう。状況を理解するにはもう少し時間がかかりそうだ。
ならばまずはお喋りから。今度は大丈夫、仕事のことだから幾らでも話せる。
「カイルさんはやりたいこと、ある?」
「やりたいこと……?」
「そう。なんでもいいと思うんだ。ドッジボールがしたい、ゲームがしたい、台所に立ってみたい、絵を描きたい。どんな小さなことでもいいから、教えてほしいな。あたしたちは絶対笑わないから」
カイルさんの目を真っ直ぐに見詰めて問いかける。彼はぽかんと口を開いたまま硬直してしまった。
しばらく考えた末、目を伏せるカイルさん。
「……考えたこともなかったです。母から逃げることしか、考えられませんでした」
「ならば、それはひとまず達成だ。なにせここはカウンセラーの本部、セキュリティは万全だ。ここにいる間はキミの安全は保証される」
ティオの言う通り。日中は警備員が巡回している。また、夜間は
カイルさんとしてはまだ不安が拭い切れないだろう。ティオが続ける。
「母親から逃げて、その先だ。なにがしたいか、空想したことはなかったかい?」
「……なかった、と、思います」
「本当に? 本当になにもない? なんでもいいんだよ?」
少し押しつけがましいとは思うが、彼自身の口から言わせたいと思った。患者のしたいことをカウンセラーは否定しない。自分のしたいことができる状態は間違いなく彼の心を癒していける。
カイルさんは口を噤む。本当になにもないのか、それとも言うのを躊躇っているのか。目を逸らさずに言葉を待っていると、彼は申し訳なさそうに呟いた。
「……漫画が、読みたいです」
「漫画かぁ、いいね。ちょっと待ってて」
ベッドから離れ、窓際の棚を漁る。探しているのは、患者の部屋には必ず置いてあるものだ。
「あった、これこれ。はい、本部の施設マップ。これ見て」
カイルさんの手元で施設マップを広げる。
入院患者用の棟に備わっている設備がある。ちょうどこの三階にあった。指で示したのは、リハビリ室だった。
「リハビリ室……? が、どうしたんですか?」
「ここね、映画とか漫画とか無料で見れるんだ。運動もできちゃうし、結構ここで暇潰しできるかも」
「リハビリ室なのに?」
「普通の病院じゃないからね、ここ。ハートリウムから帰ってきたけど、すぐに社会復帰できない人たちが集まるところだから。漫画も棚いっぱい置いてあるから、行ってみるといいよ」
「は、はあ……その、いいんですか?」
「いいって、なにが?」
どこか後ろめたい様子のカイルさん。いったいなにを気にすることがある?
カイルさんは言っていいものかと迷ったように口を動かしている。なにか言いたげなのは伝わるのだが、まだ読み解けない。
「もしや、ここに甘えて社会復帰できなくなるのではないかを危惧しているのかね?」
ティオが問いかけると、カイルさんは無言で頷いた。その疑問があるうちはそんなことになりっこない。あたしはあっけらかんと笑った。
「真面目だなぁ。しっかり社会復帰させるから安心して。現実逃避なんてもうさせないんだから」
「ミライ、語弊がある言い方はよくないぞ」
アステルがため息混じりに言う。現実逃避くらは許してあげてもいいのか。言い回しはいつも難しい。カイルさんの疑問にはアステルが答えるようだった。
「入院患者棟にずっとはいられないんです。これからはカウンセラーではなく専門の職員が担当します。あなたが必ず社会に戻れるように尽力します」
「そうだったんですね。よかったです」
勉強にうんざりしていたようだったが、やはり根が真面目なのだろう。社会に戻る意欲も失せていないようだし、これから心配することはあまりない。彼がまた一歩踏み出すまで、お手伝いするだけだ。
「アステル、ティオ。ここは任せていい? あたし、ハートリウムをマリアに持っていくから」
「わかったよ。ふたりともお疲れ様」
「行ってこい。猫の癒しパワーでどうにでもしてやる」
適当なことを言うものだ。つい笑ってしまう。ハートリウムをポーチに入れ、部屋を出る。
――期待には応えられたかな?
マリアはどんな顔をするだろう。喜んでくれるか、申し訳なさそうにするのか。あたしに対してどんな気持ちを抱えているかはわからないが、悪い感情を持ってはいないと思いたい。
どちらにせよ、胸を張って仕事をしたのだ。その誇りだけ胸に秘め、足早にマリアの元へと向かった。
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