第17話:たったの一歩
目を開けると、先日と同じ校舎の中。患者、カイルさんのハートリウムだ。自身にとって居心地のいい世界を作り出す以上、学校が最もストレスのかからない場所だったことはわかる。
あの親だ。自分本位で、まともなコミュニケーションも取れていなかったのかもしれない。遡ればきっと子供の頃、物心がついた頃からあの様子だっただろう。
校舎の二階のようだが、様子はあまり変わっていない。依存度が高まっているようにも思えない。あまりにも変化がなさ過ぎる。患者にとって風景はあくまで風景なのだと思う。
むしろあのシャドーが本体とも言えるかもしれない。あれさえどうにかできれば、対話も可能になるはずだ。
「まずはシャドーを見つけないと。ティオ、どうやって見つけよう?」
「そうさな。ハルシエ病と考えれば、こちらから見つけるのは難しいだろう。向こうから仕掛けてくるのを待つのがいいか」
ティオの言葉に頷く。
ハートリウムはあたしたちを完全に敵として見なしているだろう。ここに来たことも気付いているはず。
となれば、すぐにでも動きがあると見ていい。幻覚、妄想が主な症状だ、目に見えるものが必ずしも真実とは限らない。慎重に周囲を観察し、校舎を探索する。
「お前は誰だ」
「え?」
「あ? どうした」
「あたしはミライだよ」
「は? わかっとるわ」
「ん? いま『お前は誰だ』って言わなかった?」
「んなわかりきったことを言わ……なるほどな」
なにかに勘づいた様子のティオ。あの声がティオのものでないのなら、あたしにも見当がつく。
ハルシエ病の幻覚症状として最も多いのは幻聴だ。実際に言われていない声が鮮明に聞こえてくる。つまりいまのはあたしを惑わすためにハートリウムが仕掛けた妨害、防衛本能である。素直に聞き入れては思うつぼ。構わずに探索を続けるが、声は止まない。
「返せ」
「どのツラ下げてカウンセラーをやってる」
「お前は誰でもない」
「泥棒が」
「……っ、なに……?」
つい足を止める。
返せ、泥棒、誰でもない。それはあたしに向けられたもの? 返せって、なにを? なにを盗んだ? 誰でもないって、どういう意味だ?
あたしはあたしだ、ミライだ。他の誰でもない、誰かであるはずがない。
ぐらりと体が揺れる。胸の奥がざわつく。どうしてこんなにも落ち着かない?
これはハルシエ病の症状だ、ありもしないことを言っているだけ。あたしに向けられたものなのは間違いがないが、根拠がない言葉のはずだ。
息が乱れる。どうしてこんなにも動揺している? あたし、なにを――
「ミライ」
いつの間にか肩に乗っていたティオが呼びかける。その声で我に返り、彼の顔を見る。真っ直ぐにあたしを見詰めるその目は、いつもよりも鋭く見えた。
「聞かなくていい。お前はお前だ、いいな」
「う、うん……わかった。幻聴って、こんなに怖いものなんだね……」
「これが常に襲ってくることを考えると、患者の苦しさがわかるだろう。早く救ってやらなきゃいけねぇ」
「うん……そうだ、あたしが揺らいでどうする」
深く考えるのはよそう。無根拠な罵声に耳を貸す必要はない。
改めて進む。妨害が直接的になっている辺り、ハートリウムも相当警戒を強めていると取れる。下手なことはできない。歩きながら、今後のことを考える。
「ハルシエ病の症状として考えられるのは幻覚、妄想以外だと……」
「会話や行動にまとまりがないこと、同じ動作を何度も繰り返す、自殺念慮もあり得るな」
自殺念慮。希死念慮よりも積極的な症状として、実際に準備や計画することが挙げられる。
ハートリウム内でこれが顕在化するとしたら、シャドーの行動に現れる。心を癒す庭でそんなことを考え、行動に移せばどうなるか。ハートリウムは全力を使ってその行動を鎮めるだろう。強過ぎる衝動を中和するほどの快楽、癒しをその心で受ければ依存度の上がり方は桁違いだ。
そうなれば手遅れになりかねない。自殺念慮が現れる前に決着をつけるべきだ。そのためにシャドーを見つけなければいけないというのに。
「一旦、患者本人の場所を特定した方がいいか」
「上の階……しかも、すぐ上?」
「位置で言うなら放送室の辺りか? なるほど。ほとんどの生徒は出入りしないだろうし、教室を中心に探していたから気付かなかったな」
放送室に思い入れがあるのだろうか? 友人がいた、あるいは頼れる教師がいた? 放送室に入り浸る理由はあまり思い当たらない。
とはいえ居場所が特定できたのは大きい。階段を駆け上がる。シャドーの気配が感じられない以上、すれ違う生徒の中に身を隠している可能性もある。警戒だけは怠らずに。
そうして放送室のドアを目前にする。
「……施錠されてる」
「まあ当然だろう。勝手に入れるとは思っちゃいねぇさ。鍵がどこかにあるんだろうが、職員室辺りに戻ってみるか?」
「うん、それもそう――ティオッ!」
反射でティオを蹴飛ばす。急にドアが吹き飛んだ。衝撃を和らげることもできず、あたしの体は廊下の窓を突き破ってグラウンド方面へ。
しかもここは四階だ。あたしの体は宙を舞う。着地に失敗すればシャドーとの戦いに影響が出る。破れた廊下からはシャドーの顔が見えた。咆哮の後、鋭く変質した尾があたしに肉薄する。
貫かれてしまう。その不安は相棒が消してくれる。鮮やか光があたしの目の前を遮った。
「
光の一閃は尾を真反対に弾き返し、校舎に突き刺さる。あのまま貫かれていたらカウンセリングは中断せざるを得ない。毎度、一人では半人前であることをわからされる。
「俺を抱けミライ!」
指示に従い、ティオを両腕で抱え込む。彼は光る前足を勢いよく合わせた。
「
彼の声が引き金になり、優しい光を纏った猫の手があたしたちを包み込む。そのまま着地するが、衝撃は猫の手がほとんど相殺してくれていた。ティオが前足を離すと巨大な猫の手も消えていく。
「相棒を蹴飛ばすとは随分な了見だな、ええ?」
「と、咄嗟だったから……! それより、見て!」
シャドーが四階から飛び降り、グラウンドに着地する。大きな揺れが襲い掛かるが、今更怯んでもいられない。真っ直ぐに対峙する。
『グぅうウぅううう! あそブんだァ! 邪マすルナッ! ボクのおもチャを奪ウゥなァああ!』
怒りは二次感情と言われる。楽しみを奪われることの恐怖は怒りに転換される。シャドーの四肢は更に質量を増していき、毒々しい爪や棘まで生えてくる。尾の数も増え、それぞれが独立して動いているように見えた。
あたしは目を逸らさず、患者の衝動から逃げずに伝える。
「悪いけど、ここで遊ぶより現実で遊ぶ方がもっと楽しいって教えるよ。相手はあたし、何時間でも何日でも付き合うから」
『ガァあああッ! ギァああアぁあぁッ!』
シャドーは近くの鉄棒を力任せに引き抜き、投げ飛ばした。精彩を欠いた投擲など当たるはずもない。あたしとティオは左右に分かれ、一気にシャドーへ迫る。
狙いはあくまであたしのようで、三本の尾があたしを仕留めんと強襲する。一つ一つが見えていればどうということはない。それぞれをガントレットでいなし、あるいは身を捻って躱しながら本体へ接近する。
「おいおいこっちも構ってくれよ、拗ねちゃうぜ」
いつの間にか腕を伝って本体の頭上に飛び上がっていたティオ。深い橙色の輝きを纏った前足を振り上げる。
「
全体重を乗せて振り下ろされた前足はシャドーの脳天を叩く。グラウンドが揺れるほどの衝撃にシャドーも動きを一瞬止める。
一瞬あれば充分!
あたしは本体に向かって急接近。風のようにグラウンドを駆け抜け、跳躍。シャドーの顔目掛けて、渾身の一撃を見舞う。
「
放たれた掌底はシャドーの顔にめり込み、その全身に力を解き放つ。
シャドーは患者の最も強い感情が形になったもの。感情が生まれれば生まれるほどその脅威は増していく。
ガントレットが輝く。体力勝負で負けるものか、止められるものなら止めてみろ!
「
乱打。あたしの手のひらから絶えず注がれる鎮静効果の波動にシャドーは抵抗する力を削がれていく。
咆哮も弱い、振り乱した尾もティオが全て払い除けている。次第にシャドーの姿は小さくなり――最後の一発を受けたと同時に、形を保てず砕け散った。
「……っ、はああ……!」
荒れた呼吸を整える。抵抗させないように全力を尽くしたこともある、緊張感から解き放たれ安堵する。
最も強かった怒りの感情を鎮静化できたのであれば、会話も成立するだろう。患者の心を見つけに行かなければ。
「よくやった、ミライ。患者のところへ行くぞ」
「うん。よし、場所は変わってないね」
どうやら放送室から動いていないようだった。改めて階段を校内に入り、階段を上っていく。
助けてあげなきゃ。ここから出してあげなきゃ。
カウンセラーとして当たり前の想いさえ盗んだものだったとしても大切に扱ってやる。
それがあたしの――盗人の果たすべき義務だ。
放送室の扉は壊れたままであり、中は暗かった。
照明をつけると、一人。ぽつんと椅子に座る男の子がいた。あたしたちを見ても逃げる様子はない。虚ろな眼差しを向けるばかり。
「初めまして、カイルさん」
「あなたたちは誰です?」
「カウンセラーだよ、迎えに来たの」
「……また、僕を苦しめに来たんですか」
うんざりだ、とでも言いたげな声。目に光もなく、ハートリウムの力でさえ彼を癒やし切れていないようだった。あれだけ興奮していたシャドーを見ると、そのギャップに驚く。彼の心を占める大部分は、遊びたいという欲求だったことがわかる。
「帰ってください。僕は帰らない」
「……ここは居心地がいいから?」
「はい。ここには母がいませんから」
淡々と呟くカイルさん。やはり原因はあの親にあったか。少し話を聞いた方がいいだろう。残酷なことだとは思うが。
「詳しく教えてほしいな。まだお母さんのことわからなくて」
「……思い出したくもないですが、とにかく虚栄心の塊でした。親睦会という名のマウント合戦に自ら乗り込んで、僕と他の子を比べるんです」
見立て通りではある。他所の家がどのような家庭かまでは知る由はない。ただ、あれだけ苛烈な性格をしているのだ。他所の子のことを知れば、息子に同程度かそれ以上のものを求めるのも必然かもしれない。
カイルさんは続ける。声音にはもう色がなかった。
「家に帰れば監禁同然です。夜が明けるまで机に拘束されて、テストの結果が悪ければ怒り狂って八つ当たり。父が帰るタイミングだけ上機嫌に見せてますけど、僕が母の思い通りにならない限りあの苦痛が続くんです」
これ以上心を痛めたくない。という気持ちが伝わってくる。無感情を装っているように見えるが、過剰な防衛本能がかろうじて言葉を紡いでいるのだと思う。
いまは動けない。決定的な言葉が出てくるまでは待つだけだ。カイルさんの言葉はまだ止まらない。
「満たされなくたっていい。母のいる現実に帰りたくない。彼女の顔を見るだけで呼吸も浅くなるし、心臓がうるさくなる。うんざりなんですよ、もう。ここに閉じこもっている方が有意義で、幸せです」
これもハルシエ病の症状だ、感情の動きが少なくなる。失くしたわけではない。感情が必要以上に掻き乱されないように、凪のように穏やかでいることが自分を守るために必要なのだ。
なにを言う。下手なことを言えばカイルさんの心を傷つけかねない。冷静に頭を回せ。なにを――
「カイル、キミの年齢は幾つだね」
――そうだ。あたしたちはふたりでひとり。あたし一人で戦うわけじゃない。
ティオの問いかけにカイルさんは面食らったようだった。少しして、答える。
「……十五歳、ですけど」
「ああなるほど、よくわかったよ。世界とは視野の広さであり、キミの世界が極めて小さく狭いものであることがね」
「僕の世界が狭い……?」
ぴくりと、微かに表情が動いた。この変化が吉と出るか凶と出るか。ティオに任せるのがいいだろう。彼は続ける。
「満たされることのないこの世界がキミにとって本当に幸せかどうか。判断するにはまだまだ早いはずだ。にも関わらずここが理想郷だと確信を持てるのは、キミが世界を知らな過ぎるからだ」
ティオの言葉は決して優しくない。触れられたくないことや、目を逸らしていたことに徹底的に向き合わせる。患者にとっては耳が痛い話だろう。
それでもカウンセリングには必要なことだ。見ない振りをした自分は、必ず後で足を引っ張る。どれだけ順調に足を勧めても、絶対にその歩みを止めてしまう。私には言えない、ティオじゃなきゃ言えない重みと愛のある言葉だ。
「学校、塾、家。キミにとって世界と言えるものなどこの程度じゃあないかね。それだけで世界を決めつけるのは、些か視野狭窄のように思える」
「……僕を詰るのがカウンセラーの仕事ですか?」
「詰られていると感じるのなら謝ろう。だがね、老いぼれは口を出さずにはいられんのだよ。若さと可能性を投げ捨てるような真似は見過ごすことができない」
カイルさんの表情は依然として暗いまま。余計なお節介であることを前置きした上でティオは続ける。
「いいかい。子供の世界は親の庇護下だけではないんだ。学校だってキミの世界だ。親にだって侵せない、キミにとっての大切な世界だ。だからここは校舎の形をしているんだろう? 親の存在を考えなくていい、ちょっとしたオアシスのはずだ」
沈黙するカイルさん。図星を突かれた、ということだろうか。それとも理解を示してくれたことによる困惑か。
どちらにせよ傾聴のターンが訪れているように見える。それはティオもわかったようで、優しい声音で諭す。
「キミには権利がある。親子と言っても所詮は他人。キミの権利はキミだけものもだ。親元を離れて仕事をする権利、親の庇護下で人形のように生きる権利……こんなもの、上げればきりがない」
苦笑いを見せる。きりがないということは雑多であることと同時に、選択肢が無数に広がっている状態でもある。選べるものが多いと考えれば、思考はより拓けていくだろう。カイルさんの表情が僅かに戻ったように見えた。
「親にはキミの人生の舵を取る権利もなければ、キミもまた親に舵を取らせる義務もない。選ぶのはカイル、キミだ。どこにだって行ける、キミの航路はキミが決めていいんだよ」
「……もし、もっと世界を知って、それでもここに勝る世界がなかったら?」
「好きなだけここに閉じ籠もっていればいい。それを選ぶのもキミだ」
「とてもカウンセラーの発言とは思えませんね」
カイルさんは呆れたように息を漏らす。当然だと思う。ハートリウムから心を解放するのがカウンセラーの仕事。なのに、最終的にはここに戻ってもいいだなんて。とてもではないがまともな発言には思えないだろう。
だが、あたしには真意がわかる。そう言い切ってもいい根拠をあたしは知っている。
「ううん。すごくカウンセラーらしい言葉だよ」
あたしの声にカイルさんの目が少しだけ動いた。なにを言っているんだ、とでも言いたげに。ティオの真意を汲み取った上で、あたしは告げる。
「だって、ここに帰りたいって思わなくなるから。約束したっていい。世界のどこかに、カイルさんが“ここにいたい”って思える場所がある。見つけられるよ、必ず」
「……生まれ故郷でさえ息苦しいのに、そんな場所、ありませんよ」
「ある。見つかる。だってカイルさんは勉強してきたから。たくさん、あたしじゃ考えられないくらいたくさん勉強してきたから」
「こんな……点も取れない知識がなんだって言うんです?」
「勉強とは選択肢を広げるためのものだ、学校のテストで好成績を残すためのものじゃない。キミの人生をより豊かにするための知識を蓄えることだよ。これまでの努力は必ずキミの人生を豊かにさせるだろう」
ティオが補足してくれる。カイルさんの努力を肯定し、それが彼自身の助けになることを伝えている。
納得がいっていない様子のカイルさん。それも想定の内だと言いたげにティオは笑う。
「キミの努力が実るのか、腐るのか。それもまたキミ次第。勇気は水であり肥料でもある。もしそれを与えられれば、努力はとびっきり甘い果実になってキミに幸せを教えるはずだ」
あくまで本人次第。決意は他人からもらうものではない。自身の内側で確かなものにするのだ。それはカウンセラーにはできないこと。患者本人にしかできないこと。ティオが伝えたいのはそれだ。
自らの意志で歩くこと、変わることを選ぶ。誰かに言われたからではなく、自分でそう決めることが最初の一歩になる。どれだけ重くても、どれだけ怖くても、その一歩は価値のあるもので称賛に値する。
最後に、と一言添えてティオは告げた。
「キミだけが行ける世界に、キミだけが味わえる果実がある。私はその味を知ってほしい。なにせカイル、キミは若い。自分の足で、体で、心で世界を知りなさい。根を下ろすのはそれからだって遅くはないんだ」
カイルさんはティオを真っ直ぐに見つめる。その瞳に、儚い光が宿ったように見えた。彼は目を伏せ、震える声で呟く。
「……僕にも、見つけられますか?」
「一歩。たったの一歩、踏み出すことができればね」
「その一歩のお手伝いをするのがカウンセラーだよ。カイルさん、帰ろう」
手を差し伸べる。カイルさんはゆっくりと立ち上がり、頼りない足取りでこちらへ歩み寄ってくる。恐怖心に打ち克とうと抗う手で、あたしの手を取ってくれる。
彼の体は光の珠となり、天井を突き抜けて上空へと舞い上がっていった。もう大丈夫だ、ハートリウムから出られただけでも大きな一歩なのだ。
「ありがとう、ティオ」
「礼を言われるようなこたぁない。悲しいかな、ふたりでひとりのカウンセラーだからな」
やれやれと肩を竦めるティオ。その背中をいたわるように撫でてやる。
助けられてよかった。
この心が盗んだものだったとしても、差し伸べた手はあたしの手だ。借りものだなんて言わせはしない。
カウンセラーという仕事への誇りを胸に、あたしたちはハートリウムを後にした。
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