第2話:一仕事終えて

 すう、と目を開く。

 目に飛び込んでくるのは小さな本棚と勉強机。部屋の隅には子供の夢が山積みされた箱。あたしの傍らにはベッドがあり、そこには一人の少年が横たわっていた。静かな寝息を立てており、胸に手を添えれば安定した鼓動を感じられる。


 よかった、大丈夫だ。


 自然と安堵のため息が漏れる。あたしに続くように、足元から疲弊した息が聞こえてくる。


「終わったな」

「うん、ちゃんと帰ったみたい。ほら見て」


 あたしの指が示す先には、手の中にすっぽりと収まりそうなガラス玉。夜の終わりを表したような鮮やかな色の光が漂っている。


「また歩けるよ、大丈夫」

「ならご家族様に報告だ。安心させてやれ」


 ティオの言葉に頷く。少年の頭をそっと撫で、部屋を出る。扉の傍には一人の青年が立っていた。

 夜の空を流し込んだような綺麗な黒髪、癖もなく真っ直ぐに降りた繊細な髪質だが、その奥の瞳はどことなく鋭い。体の線は細く、身長もあまり高くはない。威圧的には見えないものの、ピンと張り詰めた空気から隙のなさを感じる。白い制服に身を包んでおり、腰には一振り、長い得物を拵えていた。


 彼はあたしに気付くなり、すっと姿勢を正す。


「終わったのか、思ったより早かったな」

「うん、アステルもお疲れ様。ガードも大変だよね」


 にっこりと笑顔で労うものの、青年――アステルは「別に」と小声で零す。表情からは照れているのか、呆れているのかも汲み取れない。


「カウンセラーが滞りなく仕事できるようにするのがガードの仕事だから」

「つれないなぁ。ご褒美いる?」

「いらないよ。仕事した分給料が出るんだから」


 アステルの声音は常に平坦だ。感情があるのかないのか、時折心配になる。仏頂面の彼を見て、ティオが笑った。


「ハッハッハ、こうも無欲だと将来が心配になるな」

「猫に心配されるなんてそう経験できることじゃないな。俺、ラッキーな男なのかもしれない」

「ああ、お前さんは幸運な男だ。俺に出会えたんだからな」

「そうだな。ありがとう、ティオ」


 微かに、本当に微かに口の端が動いた気がした。アステルにとってなにが嬉しいのか、いまだによくわからない。もう半年は一緒に仕事をしているのに。


「ご家族様に報告するんだろ? “ハートリウム”は俺が持っておくよ」

「うん、お願いね。ティオ、行くよ」

「へいへい」


 のっそりと動くティオ。もう少しだけ前向きに仕事をしてくれたらいいのに、といつも思う。こんなに気怠そうに仕事をしているところは見せたくないと思ってしまう。


 リビングでは母親が神妙な面持ちで手を組んでいた。神に願いを乞うように、なにかぶつぶつと呟いている。そんなに大層なものではないけれど、この想いには応えられたと感じる。

 あたしの姿を見るなり、母親は縋るような眼差しを向けてきた。安心させるように、柔らかい笑みを浮かべる。


「ご安心ください。ご子息様の心は体に連れ帰りましたよ」

「ああ……! ありがとうございます! よかった……! 戻って来なかったら、どうしようかと……!」


 堰を切ったように涙を流し、うずくまる母親。それだけ少年が愛されていた証だ。あたしは屈んで、そっと母親の手を取る。


「あたしにできることをしただけです。少し心が疲れてしまっていたようなので、学校は休ませましょう。ご家族様との時間を大切にしてあげてくださいね」

「はい……! 本当にありがとうございます!」

「では、あたしたちはこれで。ティオ、アステル。行こう」


 一人と一匹は頷いて、家を出る。帰宅の途につき安心したのか、ティオがぼやく。


「ったく、なんだって猫の俺が人様と一緒に仕事をしてお給金を得てるんだ。おかしかねぇか? 俺は猫だ、動物愛護の観点で許されるはずがねぇと思うんだがなぁ」

「盲導犬とか、人間と一緒に仕事をしてる動物だっているでしょ? いい加減、胸張ってカウンセラーをしようよ」

「人間扱いを受けてることが納得いかねぇんだよ、クソッ」

「人間の言葉を話せるから、実質人間扱いなんじゃないか? 猫みたいに鳴いてみてくれよ」

「ンナァー……」

「やめてよ、今更猫みたいに振る舞われるとあたしが困っちゃう」

「猫なんだよ俺ァ! 猫が猫らしく鳴いてなにが悪ィってんだ、ええ!?」


 全身の毛を逆立てて吠えるティオ。どうやら猫にも逆鱗はあるらしい。猫であることが彼にとって大事な要素なのだと、つい忘れてしまう。

 あたしの失言にはさすがのアステルもため息を漏らした。


「ミライ、猫にも人権……人権? 猫権はある。話せても猫は猫だ、猫らしく振る舞うことはなにもおかしくないぞ」

「そ、そんなに責めないでよ! 口が滑っただけだってば! ティオはパパみたいなものだから、ついね!」

「やれやれ……親不孝な娘だ、お前は」


 げっそりと、どこかやつれた顔のティオ。不貞腐れると長いのだ、この猫は。話を変えるべく、アステルを呼ぶ。


「ハートリウムは大丈夫?」

「大丈夫。ちゃんと回収してる」


 アステルの腰に巻かれた立方体のポーチには少年のハートリウムが収納されている。もう少し安全に運ぶ手段があればいいのだが、そうもいかないらしい。現実世界ではガードの方が頼りになるのだ、任せてしまうのが吉だろう。

 最寄りの駅に到着し、駅員室の戸を叩く。


「カウンセラーのミライです、これから本部に帰ります」

「お疲れ様です、かしこまりました」


 許可を貰い、改札を抜ける。一般客のホームとは逆方向の階段を下る。地下に進むと、薄暗がりの中に小型の車両が停まっていた。

 ここはカウンセラー専用の路線であり、首都の地下全域に張り巡らされている。首都在住の患者であれば、ハートリウムの安全は確保されていた。車両に乗り込み、席に着く。程なくしてゆっくりと走り出した。静かで一定のリズムな揺れは心地良い。うっかり眠りそうになる。

 意外と目敏いのがアステルだ。


「ミライ、眠いのか?」

「うん、少し」

「眠るといいよ。カウンセラーの安全を確保するのもガードの仕事だから」

「ん、じゃあお言葉に甘えて……」


 背もたれに身を預け、まぶたを閉じる。人の心に触れるというのは存外重労働だ。カウンセラーはそういう仕事だが、心身の疲労という点ではいつまで経っても慣れはしない。

 揺り籠のような心地良い揺れはあたしを微睡みに誘う。暗闇の中から誘われる手に抗うこともなく、意識は黒に溶けていった。

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