猫とあたしでカウンセラー
@Yuki_S_mnhr
第1話:追憶の始まり
誰かが泣いている気がした。ずっと一緒にいたような、初めて話すような、誰かが泣いているような気がした。
月も星もない真っ暗闇。夜というにはあまりにも深い、黒一色の世界。なににも染まらず、染められない色。波もなければ風もなく、重力も感じられない。立っているのか、横たわっているのか、浮いているのかさえわからない。あたしはただそこに在るだけ。不思議な世界だ。
ここはどこなんだろう。動こうにも、自分がどういう姿勢で、どんな形をしているかもわからない。体が動いているのかさえわからない。
世界から切り取られたかのような異質な空間。どことも接点を持てず、あるいは断たれたような孤独な世界。あたしそのものを映した世界のように思えた。
それでも、誰かの声がする。どこから聞こえてくるのかはわからない。問いかけようにも声が出ない。手を伸ばそうにも動けない。
どうして泣いているの?
胸の奥に蓄積された想いが涙になって溢れることは誰でもある。それが喜びなのか、悲しみなのかはわからない。声の主はどんな感情で泣いているのだろう。
声は近づいてくる。暗闇は音を不規則に跳ね返し、あるかもわからない頭蓋骨の奥で反響する。耳を塞ごうにも、鼓膜を介して聞こえる声ではないことはわかる。
泣かないで。
そう訴えても届かない。そもそも声の主が誰なのかもわからないのだ、泣き止む条件は思い当たらない。勿論、泣いている理由も。
――“ ”!
なんて言ったのかは聞こえない。なにを叫んだかを認識できない。
ただ、不思議と満たされる感覚を覚えた。途端、世界の様子が一変する。暗闇が徐々に晴れ、少しずつ色を帯びていく。
巨大なドーム状の施設、その庭にあたしは寝転んでいた。噴水の飛沫が頬に当たって心地良い。風が運ぶ花壇の匂いは優しくて落ち着く。頭上には包み込むような空。日中の涼し気な空とは違う、グラデーションのかかった美しい青。もうすぐ夜が明けることを教えてくれている。
その空から、なにかが降りてくる。こちらに手を伸ばす少女。見覚えがあるけれど、少し違う。記憶よりも柔和で、儚い。目には涙を浮かべ、あたしに向かって手を差し出していた。
誰だっけ。あの子も、あたしも。
思い出せない。あの子があたしの手を取ろうとする理由も、あたしが手を伸ばさない理由も。
胸の奥が大きく跳ねる。痛いとさえ思う。だけど優しい熱を持った感情が湧き上がる。知ったはずなのに、初めて貰う感情。目の奥がじんわりと熱を帯びる。どうしてこんなに嬉しいと感じるんだろう。
思い出せ。ここがどこで、あの子は誰で、あたしが何者なのか。そうすればきっと――
* * *
「――イ、おい、ミライ」
「んぇ?」
その声は低く、重みのある男性の声。粗野な印象を抱かせるその声もいまとなっては優しく聞こえる。姿は見えない。
ミライ、そうだ。あたしの名前。意識がどこかへ置き去りになっていたようだ。
低い声はわざとらしく、肩を竦めたような深いため息を吐く。
「仕事の準備は済んだのか?」
「うん、大丈夫。ティオは?」
「俺の準備はお前の準備を見守ることだ。お前が良けりゃあいいんだよ」
「それもそっか。大丈夫、準備はばっちり」
「ならいい。さあ、行くぞ」
「はーい」
干していた白衣に袖を通す。襟にはハートのバッジ。自身の身分を証明するためのものであり、人の心に触れることを許された証でもある。
姿見と向き合い、身嗜みのチェック。桃色の短髪は意志の強さを表すような癖っ毛。瞳には朝焼けの空を思わせる赤みを帯びた輝きが埋まっていた。いまでは白衣もさまになってきたことが誇らしい。
扉を開けると同時、あたしの肩に猫が飛び乗ってくる。ずんぐりとしていて、毛むくじゃら。おまけに目つきが鋭い。ふてぶてしさを体現したかのような風体。猫はニィ、と口の端を吊り上げて笑う。悪事を生業とする輩のような顔だと思う。
「今日はドジを踏まないといいな」
「そろそろ安心してよ。っていうかあたしだけの責任にはならないんだよ? あたしとティオでカウンセラーなんだから」
「へいへい、不本意だがねぇ。俺の顔が泥塗れにならねぇように気張るとしよう」
くっく、と喉の奥を鳴らして笑う猫はティオ。あたしの保護者で、パートナー。
あたしたちは前代未聞の存在。一人と一匹で一人前、ふたりでひとりのカウンセラーだった。
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