フェティシズム
ユウ
フェティシズム
――最初はね。脚だったのですよ。
目の前の男はそう言って笑った。
正確に言えば「ニヤけた」ように見えた。
まるで遠い昔の初恋の相手との淡い出来事を思い浮かべるかのように、数秒天井に向けた視線をこちらに戻し、ニヤけて言葉を吐いた。
――女性の脚のね、ラインをね。見ているだけで興奮するのですよ。特に
お互いの間にある机に身を乗り出し、こちらを覗き込むようにして言った男は、身を引いて椅子に深く座り直し、どこともない場所に視線を遣ると「分からないかなあ、分からないのだろうなあ」と、ぶつぶつ繰り返す。
その言い方が、分からない事の方がおかしいと言っているようで、少し不愉快な気分になった。
――まあ、分からない人もいるでしょうね。僕のこれはね。何て言うのだったかなあ。ああ、フェチ。フェチですよ。脚フェチ。世間一般ではね、僕みたいな人間の事をそう呼ぶのでしょう? 僕自身はフェチだとは思わないのですけどね。僕にとっては普通の事なんで。まあ、フェチの定義をちゃんと知らないのですけどね。だからフェチの談義はしませんが。はっきり言ってね、女性の顔なんていうのは僕にとってはどうでもいい。胸の大きさも性格もどうでもいい。もっと言うとね、スタイルもどうでもいいのです。ラインですよ、ライン。あの脹脛のカーブ。太ってたっていいんです。足が太くてもね、綺麗なカーブであれば興奮する。ただ、余りに筋肉質なのは
人は何かを語る時、その内容を頭の中に
目の前のこの男も例外ではない。
まず間違いなく女性の脚を――好みだという箇所を――頭の中に描いている。
思い出していると言うべきかもしれない。
だから先程よりも早口になっているのだろう。
興奮している証拠だ。
――さっきは見ているだけで興奮すると言いましたけどね。それはそう、最初のうちだけですよ。そのうちね、触りたくなってくる。まあ、ここだけの話だから言うのですけど。今更ね、隠す意味もないでしょう? 正直に言うとね。触りたいってよりも舐め回したくなってきたのですよ。あっ、だからって痴漢なんて真似はただの一度もした事はありませんよ。嫌がる女性の脚に無理矢理触るような非道徳な事はしませんよ。言うまでもなく舐め回す事もですよ。それにねえ、緊張すると筋肉が強張るでしょう。そうすると脹脛も本来の柔らかさじゃなくなる。それじゃあ駄目なんですよ。そんなもの触りたくもなければ舐めたくもない。だからね、痴漢なんて行為で無理矢理どうこうするっていうのはね、相手を緊張させるものだから僕にとってはマイナスでしかない。
息継ぎをしていないのではないかと感じるほど矢継ぎ早に語る男に、嫌悪感が芽生えてきた。
否、そうじゃない。
嫌悪感は初めからあった。
これは嫌悪感ではなく、憎悪に似た感情だ。
侮蔑にも似ている。
それらいくつかの感情が入り混じっているという事か。
――そうこうしているうちにね。不思議なもので、興奮する部分が変わってきたのですよ。ううん、違うなあ、そうじゃないなあ。更に興奮する部分を見つけたって感じですね。実際、脹脛のラインを嫌いになった訳じゃない。そこでもちゃんと興奮する。でもそれ以上にね。その下。ハイヒールを履いた足ですよ。そこに興奮し始めたのですね。ハイヒールを脱がしてね。指の一本一本をしゃぶりたい。ハイヒールじゃないと駄目なのですよ。それ以外の、例えばスニーカーなんかじゃね、興奮しない。理由は分からないんですけどね。とにかくハイヒールがいい。
気分が悪い。
――あなたも興奮するはずですから想像してみてくださいよ。脹脛のラインを、上から下に向かって舐めていく。
吐き気がする。
――そのまま足首まで舌を這わせて、
吐いてしまうかもしれない。
――ハイヒールを脱がせると現れる足の指を――。
限界を感じ、ガタリと椅子の音を立てて立ち上がった。
目の前の男は言葉を発しようとしていたのを強制的に止められたカタチになり、中途半端に口を開いてこちらを見上げている。
何とも間抜けな表情だ。
男が言葉を発する前に、私は「トイレに行きたいので少し休憩しましょう」と言った。
そして了承を得もせず、隣に座っている後輩の肩を軽く叩き、「行こう」と合図して席を離れた。
追ってくる男の視線を背中に感じる。
気持ちが悪い。
一刻も早くこの場から立ち去りたいと思う。
ここまでの気持ちになるのは久しぶりだ。
後輩がついてきているのを気配で感じながら部屋を出た。
途端に空気が澄んでいるように感じた。
正確には、ここの空気が澄んでいるのではなく、あの部屋の空気が澱んでいるのだろう。
「あれは――」
出てきた部屋のドアを閉めると同時に、後輩が口を開いた。
目を向けると蒼白い顔をしていた。
私と同じような気持ちなのだろう。
という事は、私も同じような顔色をしているのかもしれない。
「――フェチって言うんですかね?」
後輩は戸惑いの混じった声を出し、「うーん」と小さく唸る。
そうなる気持ちは分かる。
我々には「フェチ」という言葉では片付けられない、悔しさに似た思いがあるのだから。
本人はそう思ってるのだろうよ――と、後輩に聞こえたか分からないほどの小さな声を出し、私は俯き足許に視線を落とした。
そこには
もう何年この革靴を履いているだろう。
そんな事を考えた途端、頭の中に「ハイヒール」という言葉が過ぎった。
赤いハイヒール。
黒いハイヒール。
ラメの入ったハイヒール。
踵の部分が酷く細いピンヒ―ル。
バラバラのサイズ。
そして――。
「――まあ」
後輩の言葉にハッとして顔を上げた。
「アイツの言ってる事と鑑識の言ってる事は合ってますね」
苦々しく言葉を吐く後輩に目を遣ると、後輩の視線は今さっき出てきた部屋のドアにある「取調室」と書いてあるプレートに向けられていた。
「唾液が付いていた事も、古い方にはハイヒールが履かされてなかった事も」
それらの言葉に誘われる記憶。
あの男の部屋で見た――。
膝から下だけの――。
腐敗した――。
真新しい――。
素足の――。
ヒールを履かされた――。
いくつもの――。
「――脚」
絞り出すような声を出した私に、後輩の視線が移った。
「脚だけがあれだけあったんだ。何人殺したのか分かったものじゃない。鑑識の話じゃ、殺してから切断されている事は間違いないらしいからな。遺体をどこに、どうやって隠したのか。どうやって殺したのか。どうやって女性たちと出会ったのか。――聞く事はまだまだある」
そう言って、取調室のドアを見た私は、とても憂鬱な気持ちだった。
フェティシズム 完
フェティシズム ユウ @wildbeast_yuu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。