鹿肉

行儀よくテーブルに着いた私と妻の芳江の目の前には、程よい厚みのステーキが付け合わせと一緒に皿に盛られ、うまそうな湯気を立てていた。

正面に座る加藤夫妻は、10年前に私たちがこの街に引っ越して隣近所のあいさつ回りをして以来の知り合いだ。そう、知り合い。家は同じような形の建売住宅でお隣さん、毎朝ゴミ出しに会う時のぱりっとしたスーツ姿を見ればおそらく同じような営業関連の会社に勤めているであろうことは予測できる。

たまたま駅からの帰り道出くわした時に聞く限りでは年もだいたい同じ五十台。他にも子供がいないという共通点がありながら知り合い以上にならなかったのは自分以外には関心を持たないいわゆる私、というより都会人としての性(さが)、だろうか。

そんなある日、突然その加藤氏がドアベルを鳴らしたのだ。ドアを開けると、中肉中背、私と同じような地味な灰色のセーターにこれまた特徴のないクリーム色のスラックス姿で加藤氏がぎこちなく微笑んでいた。

「実はいいお肉が沢山手に入ったので、是非お裾分けをと思いまして」

はあ、と要領を得ない返事をする私に、加藤氏は言葉を続ける。

「今日の夕食、一緒にいかがです?もし気に入っていただけたなら、是非お裾分けしたいと思いまして…」


そして今、行儀よくテーブルに着いた私と妻の芳江の目の前には、程よい厚みのステーキが付け合わせと一緒に皿に盛られ、うまそうな湯気を立てていた。

「お隣同志なのに一度もこういう場がなかったでしょう?」と加藤氏の細君がスープ皿をテーブルに置きながら言う。

「ごめんなさいね、この人本当になんというか、ご近所づきあいとか苦手で。私の田舎ではよく隣の家に晩御飯御呼ばれしたりが当たり前だったのに」

田舎はどちらですかと聞くと福島は郡山だという。私もなんですよ、とそこから一気に話に花が咲き、加藤氏の田舎は札幌で、うちの女房は沖縄だのと盛り上がった。気が付けば地元から送ってきたという焼酎を酌み交わしていた。ほどほど酔いが回ったところで女房がずっと気になっていたんですけど、と話題を切り出した。

「さっきのお肉、やわらかくてとてもおいしかったのだけれど、何の肉だったんでしょ?」

女房のその質問が、加藤夫妻の空気を固い緊張へ変えたことを私は感じた。

「ねえ、あなたはなんだと思う?」

やや鈍感な女房は酔って上気した屈託のない笑顔で言葉を続ける。私はなんだろうね、牛かな、と言葉を濁した。

「私の田舎ね。まあ地図にも載っていないような山奥の村だったんですけど」

焼酎が残る有田焼のグラスが四つ乗るテーブルに肘をつけて喋りだした加藤氏の声と、その細君が台所で食器を洗う音だけが現代風の照明に照らされた食卓に響く。

「江戸時代の頃いわゆる口減らしで、それぞれの家から子供を土地神様への捧げものとして差し出したそうです。次の日祭壇に行くと子供たちの姿はなくなっていて、村人は土神様がお召しになったと喜んだそうです」

女房もさすがに何かに気づいたのだろう。先ほどから押し黙って加藤氏の言葉の続きを待っている。彼はそんな私たちの表情をじろりと見てから、やや張り詰めた表情でグラスを傾け、そしてため息を一つついた。

「翌日、村では土地神様への祭りが開かれ、その席では肉が振舞われたそうです。その肉を食べて、村人たちは飢饉を乗り切ったと。村人は土地神様がおすそ分けしてくれた、と言っていたそうです。そして昭和の初め、警察が偶然、祭壇の裏で大量の骨を発見したそうです。きれいに刃物で肉をそぎ取られた、子供の骨を。…あなたはこう思っているでしょう、先ほどの肉と今の話、どんな関係があるのか、って。…さっきの肉はね、その私の田舎から毎年祭りの時期に送って来てくれるものなんですけど、今年はずいぶんと多く捕れたらしくて」


私ののどがぐびり、となる。


「そうそう、ご存じですか。この日本で去年の行方不明者は約八万人、子供の行方不明者は千人もいるのだとか」

そういうと加藤氏は私をいつの間にか手にしたフォーク…先ほどまで柔らかい「何か」の肉を差し、口に運んでいたそのフォークを私に向けながら、歯を見せて笑顔を浮かべた。

「どうです、まだ若い肉だから、やわらかくてうまかったでしょう」


明らかに牛の肉ではない。私の今まで食べたどの肉とも違う。まさか、いや、しかし…頭の中でぐるぐるといくつもの動物の名前が浮かんでは消え、消えては浮かんだ。そしてその中に、時折ちらちらと現れる、恐ろしいキーワードにぶるぶると頭を振った。そんなわけない、そんなはずがない…

突然、ぱんぱんと手を叩く音がした。張り詰めた空気をやぶったのは台所から戻ってきた細君のその音だった。

「あなた、いい加減にしなさい。ごめんなさいね、この人、人を担ぐのが好きなのよ。小説なんて書いてるもんだから色々妄想しちゃって。それにしたって今回の話は悪趣味すぎよ」

その音にはじかれたように、加藤氏のかたい表情ががみるみるほころび、やがて押し殺したように笑い出した。彼女は呆れたようにその様子を見ながらテーブルに剥かれたリンゴの乗った皿を置く。

「本当にごめんなさいね、びっくりなさったでしょ?さっきのは、鹿のお肉ですよ。この人、お友達が猟師やってるんですって。鉄砲でズドン、ってやつ。珍しいでしょ。で、たまにこの時期になるとお肉を送って来てくれるのよ」

「すごい塊でね」と加藤氏がさっきとは打って変わって打ち解けた表情で話を続けた。

「いやね、今年は鹿の足一本まるまる来たんですよ。でそれを捌いているうちになんだか色々アイデア浮かんできちゃって…。先ほどうちのがお話ししたように、私サラリーマンやりながら、とある雑誌で小説を連載していましてね。ついつい…すみませんね」

「あの、土地神様に子供をささげた話というのは」

「それもすべて私の作り話ですよ。うちの田舎にそんな恐ろしい祭りはありません。じじばばが平和に暮らす農村です」

まるで少年のようなあどけない笑顔を浮かべる加藤氏は、なあんだ、と安堵の溜息を私たち夫婦が同時に着くのを見て、自分の悪趣味がこちらの機嫌を壊さなかった事に安心したのだろう、ぐっとグラスをあおった。

それから数刻。私たちが大量に真空パックにされた鹿肉を持って自宅の玄関で靴を脱ぐころには、もうすっかり夜も更け、ふと目をやった腕時計はちょうど日が変わることを告げていた。

「ご近所づきあいもしてみるもんだな」

「そうね、こんなに鹿のお肉もいただいちゃったし。私、初めて食べたわ。鹿ってあんなお味なのね」

「そうだな、私は初めてではないが…やっぱり鮮度が違うんだろうな、何の肉かはわからなかったよ」

その言葉を聞いて女房がいたずらっぽく笑う。

「人間の肉かもって思った?」

まさか、と私は笑った。もしかしてと思ったが、人間の肉じゃないことだけは確かだ。

あれはもっと甘味があって、えも言えぬ匂いと歯ごたえがあって…何度食べても食べ飽きない、牛とも羊とも馬とも違う、唯一の味わいなのだ。

「ね、もしかしたらお隣さん、趣味が合うかも。鹿肉のお礼にうちのお肉で、晩御飯に誘ってみましょうよ」

私もそう思っていたところだ。小説家は好奇心が旺盛と聞く。もしかしたら私たち夫婦の、誰にも言えない食生活を理解して、同志になってくれるかもしれない。もしならなかったとしても…年間八万人の行方不明者に二人加わるだけだ。台所では女房は鹿肉を次々に冷凍庫に詰め込み始めた。

「冷凍庫がパンパン。お隣さん、早くお声がけしましょうね。冷凍しても鮮度は落ちますから。せっかくですもの、新鮮なお肉でお迎えしなきゃ」

女房のその言葉に私はそうだね、と呟いた。


おしまい

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牧本露伴の怖い話 牧本露伴 @makiro9999

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