牧本露伴の怖い話

牧本露伴

きさらぎ駅

「きさらぎ駅」


怪談、都市伝説というものはその時代によって形を変え、名前を変えて人の心の薄暗いところにひっそりと息づく。これは、きさらぎ駅、と呼ばれる、そんな都市伝説の一つ。


その夜、利夫はひどく酔っていた。都内のごく普通のサラリーマンで、歳は三十。同じ職場でひそかに思いを寄せていた女性が突然寿退社をするとのことで催された送別会。その席で彼は大人げなく酒をあおりにあおった。そして誰彼構わず自分の思いを汲んでくれなかった彼女や会社に対する愚痴で同僚がすっかり寄り付かなくなりながらも、帰宅した後のひとり身の淋しさに迷惑がられながら無理やり二次会の流れについていき店に到着したところまでは覚えている。


そこから先、何をどう乗ったものか、いつもの通勤で使う地下鉄、電車の中で利夫は目を覚ました。時間帯のせいだろうか。見慣れた風景の車両の中だが、乗客は自分以外誰もいない。足の下から響く無機質な振動を感じながらよくもまああんなに酔っぱらっていて終電に乗れたものだ、とサラリーマンの悲しい性(さが)に、自嘲を含んだ浅いため息がふっと出た。と同時に彼の頭に今、ここはどのあたりなんだろう、というごく自然な疑問が浮かんだ。


窓の外から見える風景はいつもどおり地下鉄のトンネルの壁。その壁に等間隔で備え付けられた蛍光灯が残像を残しながら通り過ぎている。その光をぼうっと眺めながら、先ほど浮かんだ疑問の答えを求めて懐からスマートフォンを取り出す。そこに表示された時刻を見て、利夫はぎょっとした。午前二時半。利夫はいまだ酔いのさめない頭の隅から、二次会の店を出たのは確か23時を少し回ったところだったはずだ、改札を通る時にスマートフォンを取り出して時間を見たからだ。

 利夫は今自分がどのあたりにいるのか調べようとスマートフォンの時刻表アプリを起動させようとしたとき、利夫はその手を止めた。列車がスピードを落とし始めたのを体にかかる慣性で感じだからだ。ここの駅がどこであれ、とりあえず降りるしかない。駅を出てタクシーで帰るのは想定外の出費だが、もし駅前に漫画喫茶でもあれば始発まで時間をつぶすという手もあり、距離によってはそちらの方が安上りかもしれない。

 そんなことを考えているうちに程なくして電車は金属音をきしませながら止まり、利夫は開いたドアから駅のホームに降りる。その背後で音もなくドアが閉まり、利夫を降ろして誰もいなくなった電車は静かにトンネルの闇に消えていった。

 降り立った地下鉄の駅は駅員を含め誰もおらず、ところどころ天井の蛍光灯が切れて薄暗い。その中を、「きさらぎ駅」と書かれた看板だけが煌々と光っていた。路線沿いに住んで十年近くになるが、そんな駅は聞いたことがなかった。とはいえ家と会社の往復にしか使っていなければそんなものだろう、と対して気にもせず自動改札を通る。4つ並んだ自動改札は3つが両開きのパドルがしまっており、1つしか機能していないようだ。すなわち、出られるが入れない。やはり今乗ってきたのが終電だったのだろう、あぶなかった、と利夫は改札から地上に出るための通路を通り、地上に出るための階段を探して道なりに歩く。


 ふと利夫は、そこかしこにある看板が「てなやおり」や「あたがにや」など、すべて意味のないひらがなの羅列であることに気が付いた。そしていつも利用している駅とは違い、壁が不自然なぐらいぴかぴかで新しく、タイルのひび割れ一つない。利夫は心の底にまるで墨汁がじわり、と和紙に広がるような不安を覚えたが、きっとまだ作りかけの駅なのだろう、と半ば無理やり自分を納得させて足を速めた。乾いた音が通路に広がり、その音はさらに不安を掻き立てる。叫びだしてしまうのではと思った所で、ようやく階段に出くわした。息せき切って階段を上がり地上に出ると、利夫は街灯に青白く照らされた大通りに出た。

どうやら商店街などがある出口ではなく、街道沿いによくある小さな出口だったようだ。道沿いには一軒家が行儀よく並び、よくある郊外の住宅街の風景が広がっている。道は二車線の一直線で、かなり先まで見渡せるがコンビニや交番の明かりは見えない。奇妙な事に夜空には星一つなかったが、曇っているのだろうと決めつけ、利夫は歩き出した。

こんな時間だがしばらく進めばいずれタクシーの一台でも通るだろう。とりあえず地上に出られたことにほっとすると同時に、この年になってやおら不安になり終電後の構内を走った自分に笑ってしまった。明日の朝出勤したら、同僚に話すネタができた、と利夫はそんなことを考えながら、道路沿いを進んだ。そして懐からスマートフォンを取り出す。

幸い会社を出るまで充電していたので、バッテリーが切れる心配はない。普段よく使っている地図のアプリを起動する。起動してくるまでに数秒。表示されたのはビルや道路がごちゃごちゃと表示された見慣れたものではなく、青一色の画面だった。青い画面の真ん中にぽつんと、自分の今の位置を示す矢印型のアイコンが存在している。フリーズしてしまったのかと思い親指と人差し指でつまむと画面が縮小した。そのまま続けたが、どんなに縮小しても現在位置の周りは一面青で、それ以外は何も表示されない。バグだろう、そうだ友人に連絡しようと利夫はこれまたよく使っているLINEのアイコンをダブルタップした。

 だが、いつもの緑の起動画面の後に表示されたのは、白い丸、その真ん中にやや茶色がかった丸、さらにその中に黒い丸。…それは、目だった。目玉が一つ、スマートフォンの画面に映っているのだ。

利夫は反射的に悲鳴を上げスマートフォンを取り落とした。それは画面を下に向けてアスファルトの道路に落ちる。いたずらか?だれの?何のために?いつの間にか口はからからに乾いていた。気のせいだ、見間違いだと利夫は自分に言い聞かせ、恐る恐る屈み、画面を見ないように震える手でスマートフォンを拾い上げる。その時利夫は、まるで凍った鉄の棒を背筋に垂直に差し込まれたような衝撃を感じた。歩きながら感じていた違和感。車が全く通らないこの道路にそれを感じていたんじゃない。街道沿いに並ぶ家は一件も…ただの一件も道路側に玄関が、入り口がないのだ。つくりは普通のいわゆる建売のどれも似たような形の家だが、人の出入りができる所が見えたらないのだ。玄関らしきものがあるはずの場所はただの壁。

そしてかかっている表札がどれも駅で見た看板のように、意味のないひらがなの文字列だった事に気が付いた利夫は、今度こそ言いようのない恐怖に襲われて悲鳴を上げて走り出した。走らずにはいられなかった。かばんも投げ捨て、ただひたすら誰もいない街道沿いを走り続けた。息が切れ、心臓が爆発しそうになったその時、利夫は道路の真ん中にぽつんと人影を見つけ走り寄る。

それは、駅員のような姿をした色白の男性だった。男性は膝に手をつき、肩で息をする利夫をみてこう言った。「ここはね、終点なんです。だからどこにもいけないし、朝も来ないんですよ」そんなばかな、と喉の奥の痛みを抑えながら絞り出すように利夫は叫んだ。これじゃまるで、あの有名な都市伝説の…

「あなたは、きさらぎ駅から来たんですか。それともこれからきさらぎ駅に行くんですか」

駅員は無表情でそう呟くように利夫に尋ねた。

ここはどこなんだ…おれは、帰りたいんだ…家に帰りたいんだ…息も絶え絶えで必死の形相で駅員に詰め寄る利夫に、駅員は能面のような表情で抑揚なく同じ言葉をつづける。

「きさらぎ駅から来たんですか、それともこれからきさらぎ駅に行くんですか」

きさらぎ駅なんかしらない、行きたくもない、俺は帰るんだ!と利夫がつかみかかると、駅員はほんの少し眉をひそめて、こう言った。「きさらぎ駅に行くのでなければ、このまままっすぐ歩きなさい。右に入れる小道が見つかるから、そこを通って十字路を右、また左。しばらく進んでまた右、右と曲がって突き当りを左。そうすれば帰れます。くれぐれも、間違えないように」

利夫は弾かれたように再び走り出した。ネクタイもかばんも当の昔にどこかに行ってしまっていた。靴も片方脱げ、肺の痛みをこらえながら走り続けると果たして永遠に続くかと思われた街道に、初めて右折できる小道が現れた。

そこからはもう無我夢中だった。右に、左、次は左だったか。迷路のような小道を駆け抜けた。恐怖で足がもつれ残っていた方の靴も脱げたしまったが、気にしている余裕はなかった。とにかくここから逃げ出したい、帰りたい、ただその一心だった。気が付くと利夫は、自分が住んでいるアパートのすぐ正面、よく通っているコンビニエンスストアのわき道にいることに気が付いた。あたりを見回す。間違いない、目の前にあるのは自分のアパートだ。最後の力を振り絞りアパートの階段を駆け上がった。震える手で上着のポケットから鍵を取り出し、扉を開ける。そこには、いつもの自分の雑然とした部屋が広がっていた。安堵と疲れで利夫は汗だくのままベッドに倒れ伏す。

俺は、帰ってこられたんだ。ずっと首筋の後ろに感じていた寒気は今や全身を覆い、体の震えは止まらなかった。それでも必死で両腕を抱き、膝を抱え、いつものやや据えたにおいの枕に顔をうずめ目をつぶると、利夫はいつの間にか、静かに寝息を立て始めた。


 数時間後、上着に入れたスマートフォンのアラームで利夫は目を覚ました。時間を見ると朝の七時を少し過ぎたところだった。意識がはっきりしてくるにつれ、昨日のあの出来事はなんだったんだろう、と二日酔いでがんがんと痛む頭を撫ぜながら利夫は考えた。おそらく酒に酔って前後不覚になった状態で見知らぬ駅に降り立ち、恐怖心が混乱に追い打ちを書けたのだろう。久しぶりに全力疾走したためか軋む体をベッドから起こしながら利夫はなるほどな、とひとり呟いた。

 どこにも存在しない駅に降り立ってしまう都市伝説。帰りたくても帰れないその正体は、こういう事なのか。歯磨き粉をひねり出し、歯ブラシにつけ咥える。幸い今日は遅番で、家を出るまでまだ少し余裕があった。利夫は歯磨きをしながら朝日を浴びようと部屋のカーテンを明けたが、その足元にぽたり、と泡の付いた歯ブラシが落ちた。

 朝の七時半を回ろうかというのにカーテンの向こうには星一つない夜空が広がり、そしていつも窓から見えているビルの看板には、大きな文字のひらがなが意味なく羅列していたからだ。


おしまい


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