第16話 回想
自然光がさんさんと入る食堂に案内された。
窓際で日光浴を楽しむ老婆。囲碁を打ちあっている老爺。華やかな笑い声を立てる四人組の老婆。
ゆったりした時が流れているように見える中、車椅子の老婆が少し離れたところにいた。
「お母さん。お客さまよ」
夏樹たちを案内した女性、中園久美子が老婆に話しかける。
久美子が手を夏樹たちに向けると、老婆がこちらを向いて、愛想笑いを浮かべた。
「初めまして。清水啓一郎といいます。今日は弘子さんにお渡ししたいものがあります。この簪、見覚えがありますか」
所長が胸ポケットから取り出したハンカチを広げる。
簪に目を落とした弘子は、記憶を辿っているのか視線をさまよわせた。しばらくして、焦点が定まると、目に力がみなぎってくる。
「これは‥‥‥お母さんの‥‥‥」
しわがれた声で呟き、顔を上げた。
一筋の涙が、つうーっと頬を伝った。
*
織物工場で働いとった母が、代々、簪を作る職人の家に生まれた父、清とお見合い結婚をしたんは、昭和8年の10月。
両家ともに東大阪に住んでいました。母は23歳、父は27歳。
昔は、今と違って、家で祝言を挙げとったんです。
ご近所さんを大勢招くから、家財道具を一時ご近所に預けて広くして、お披露目するんです。
夕方、分金高島田に黒留袖の花嫁さんが婚家に来て、お姑さんと向こう三軒両隣に挨拶をしてから、婚家に入るんです。
近所にお嫁さんが来る言うたら、女の子は大騒ぎや。あたしらにとって、花嫁さんは憧れやったさかいな。
きれいな化粧して、きれいな黒留袖着てる、未来の自分の姿を想像してたもんです。
両親の写真はなかったけど、母によくせがんで、両親の祝言の様子を聞かせてもらってました。
この簪は、父から母への贈り物やったんです。
父はまだ修行中の身で、稼ぎはほとんどない。でも、いつか立派な職人になって、名前で仕事が来るようになる。そしたら、この簪は清の初期の作品として価値が出る。代々受け継いでいってもらいたい。言うて、母に贈ったそうです。
母は感激して、寝る時以外ずっと髪に差していました。寝る間に毎日柔らかい布で拭いて、それはそれは、大切に扱ってました。
幸せそうな母が羨ましいてねえ、この簪があれば、あたしも幸せになれるんやって思ってました。あたしも欲しい言うて、困らせてましたねえ。
父が見かねて、子ども用のびらびら簪を作ってくれたんですけどね、違うって駄々こねてしもて。そしたら母が、あたしが結婚する時にくれるって言うてくれたんです。
嬉しいて、いつか結婚するその日を夢見てたんです。
真珠湾の奇襲が成功したって大人たちが喜んでたのが、6歳の頃です。でも、子どもでしたからね、戦争なんてわかってませんでしたよ。
でも徐々に食べる物が少なくなっていって、つねにお腹をすかせて。
着る物も制限されていましたから、つぎはぎだらけで。
簪をつけて着飾るなんてできなくなりましたからねえ、母は簪を大切に箪笥にしまっていました。一日一回取り出して、使わないのに手入れをして。戦争が終わったら、またつけられると思っていたんでしょうねえ。
でも戦争は激化する一方。たびたび空襲があったり、機銃掃射があったり。
父に赤紙が来たのは、昭和19年の秋でした。
バンザイ言うて送り出したけど、あたしも母も泣いてました。
戦地から手紙が来ましたけど、お国のためにがんばろうって。
当たり障りのないことしか書けんかったんでしょうねえ。
あたしはわからんくて、不満に思ってたら母から叱られました。母はあまり叱る人やなくてね、優しい諭してくれる人やったけど、その時だけは怖かった。外で言うたら、大変なことになると、母は守るために叱ってくれたんです。叱ったあとに懇願されました。不満は口に出したらあかん。戦争が終わったら、前みたいにみんなで暮らせるから、信じて待とうって。
父は戻ってこんかった。戦死を知ったんは、戦後少ししてからです。
昭和20年に入ってからは、空襲が多くて、母は床下に穴を掘って、大事なものと一緒に簪も埋めてしまいました。いつ焼け出されるかわからへんほど戦況は悪化してました。
6月の大阪大空襲は、恐ろしかった。空が煙で真っ黒になってねえ。
広島に原爆が落とされた日の夜に小阪が空襲におうてねえ。家を失ってしまいました。なんとか家を探して土を掘り返して、簪は無事でした。
玉音放送は、身を寄せていた父方の親戚宅で聞きました。
それから母は仕事を探していましたが、なかなか見つからへんくてね。
親戚の紹介で、
戦後一年ほどして、母に再婚話がきました。母が働かせてもらってたレンコン農家の長男です。
母は簪をずっと大切に持ってましたから、父への想いは抱えてたはずです。でも女が一人で子どもを育てるのは大変やし、いつまでも親戚宅を間借りしてるわけにもいきませんし。
母は再婚を決意して、婚家に向かう前日の夜に、母と話しました。
簪を手放そうと思っている。前の旦那からもらったものを持って、嫁ぐことはできないからと。
あたしは隠し持っておけばいいのに言うたけど、母に覚悟とけじめだからと言われ、謝られました。あたしが結婚する時に、くれるという約束を
その夜は簪を枕元に置いて寝ました。
嫁ぐ朝、母は親戚に簪を託しました。大切に扱ってくださる方を見つけて譲ってくださいと。
あたしと母は、婚家に向かいました。父が夢枕に立って引き留めてくれへんかなあって思いましたけど、なかったですね。
祝言はせんかった。着の身着のまま行って、挨拶をして、結婚生活が始まりました。
継父は
足が片方悪うて、びっこ引きながら歩いてました。足のせいで結婚は諦めてはって、足のお陰で兵隊に取られへんですんだ人です。
継父も祖父母も優しい人でした。諦めていたお嫁さんが来てくれたと、喜んで迎えてくれました。
3年後には長男が生まれました。14歳年下の弟です。可愛かった。あたしは一人っ子やったから、弟ができたのが嬉しいてねえ。
長男が生まれても、祖父母も継父も変わらず優しかった。血が繋がってへんのに、かわいがってくれてね。
お見合いで結婚が決まった時には、花嫁道具も揃えてくれて、結婚式も挙げさせてくれて。あたしは人に恵まれましたねえ。
幸せでしたよ。簪がなくても幸せになれるんやと実感しましたけど、やっぱり母の簪を受け継ぎたかったですねえ。
まさか、戻ってきてくれるなんてねえ。もう二度と見ることはないやろうと思ってました。ありがたいことです。
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