古都奈良 妖よろず相談所

@erino-mitsuki

第1話 襲われた里

 この生き物はなんだ。

 崖を背にして逃げ場をなくし、少年は目の前にいるそれに注目した。

 注目するしかなかった。それがいまにも飛びかかろうと、姿勢を低くしているから。


 うんと小さい頃から野山を遊び場にしてきて、初めて見た生き物だった。

 満月に照らされた全身は金色の長い毛で覆われ、細長い尻尾の先だけが赤い。

 しかも5本に分かれていて、それらがゆらゆらと、好き勝手な方向に揺れている。

 顔や耳は狐のようにも見える。でも狐にしては、全体のサイズが大きすぎる。


 今年の正月に数えで8歳になった少年10人分ぐらいをひとかたまりにしたぐらい大きい。

 牙と爪は、狐が持っているものより、長くて鋭く尖っている。

 ぎらぎらと恐ろしく光らせながら見下ろしてくる目は、獲物を捉えようとしている獣のそれ。

 一口で頭を食いちぎられそうな巨大な顎からは、すでに赤い血を滴らせている。


 それが誰のものなのか、少年は知っている。

 眼下にある里で行われていた惨劇を、見ていたから。


 心臓が激しく波打つ。浅い呼吸を繰り返す。背中に流れる汗は、夏の気温のせいだけではない。


「く、来るな! あっち行け!」

 威嚇するつもりで放った声は、しかし震えて裏返った。


 それは人の言葉がわかるのか、「ふんっ」と器用に右の口角を上げて、あざ笑った。

「ガキ。俺さまの姿にビビッて、小便漏らしてんじゃねえのか」

 低くて禍々しい声が、大きな口から出てくる。


「な、なんだ‥‥‥おまえ、なんなんだよ」

 恐ろしい。恐ろしいが、飲まれまいと必至で声を上げた。


「俺さまか? これからおまえを喰うんだよ」

 獣が一歩、足を踏み出した。


「ひっ、来んな! こっち来んな!」

 少年が後退る。山の土が少し崩れたのが、裸足の足裏で感じ取れた。

 喰われるか、飛び降りるか。選択を迫られていた。

 その時、


「やめて! 弟から離れて!」

 それの背後から現れた白い浴衣の人物が、獣の注意をそらした。


 姉の百合恵だった。

「姉さま!」

 良かった。生きていた。姉が助けに来てくれた。ほっとした。


「なんだ。まだ行き残りがいたのか」

 振り返った獣が楽しそうな声を上げた。


「こっちにいらっしゃい。早く!」

「う‥‥‥うん」


 姉の呼びかけに応じて、獣の動きを見ながら、ゆっくり足を踏み出した。

 じりじりと樹々の合間を縫う。

 獣は舌なめずりをしながら、じっと見ている。狩りを楽しむ圧倒的な強者の姿だった。


 姉の元にたどり着くのに、かなりの時間を要した気がした。

「姉さま! あ! 血が」

 背に庇われて気がついた。姉の背中は鋭い刃物で切られたような傷が三本あり、血が流れていた。


「あなたは逃げなさい」

「姉さまは? 一緒に行こうよ」

 姉の手をそっと握る。


「わたしはあとで追いつくから」

 握ったその手は、ゆっくりと外された。


「絶対だよ。絶対来てよ」

「早く行きなさい。お地蔵様越えていいからね」

「え?」

「早く」


 お地蔵さまを越えちゃいけないと、毎日言われるのに、越えていいなんて。

 戸惑っていると、姉に体の向きを変えられた。背中をぽんと押される。


 十歳年上の姉の手は、大きくて、柔らかくて、温かい。

 いつも優しくて見守ってくれる姉。


 少年は走りながら何度も振り返る。

 背中を真っ赤に染めながらも、姉は凛と佇んで、恐ろしい獣に向き合っている。


 大好きな姉を置き去りにして、ひとりで逃げてしまっていいのだろうか。

 でもあの獣は怖い。


 迷いながらも、姉の言葉を信じて足を動かした。

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