第32話 国府田くんはもう一人✕す

 国府田は会議室の中に足を踏み入れた。佐々木が会議室の扉を締める。

 石井の父は、国府田が室内に入るとすぐに、パイプ椅子で国府田を殴った。倒れた国府田に、更に何度もパイプ椅子を振り下ろし、打ちのめし続ける。国府田は丸くなって耐えることしかできなかった。

 動かなくなった国府田を見下ろし、石井の父は満足したようだった。引きつった笑いを浮かべている。

「ガキを躾けるには体罰が一番だ。最初からこうしておけばよかった」

 佐々木が国府田の傍に座り込む。

「国府田くん、動けるか?」

 国府田はうずくまったまま、なんとか言葉を押し出す。

「はい、なんとか……」

「佐々木! 早く書かせろ!」

 石井の父の叫び声が響く。

「はい、すんません」

 佐々木は国府田の体を引き起こすと椅子に座らせ、目の前に机を運んできた。その上にボールペンと書類が置かれる。書類には『供述調書』と書かれていた。

「国府田くん、この調書にサインしてほしかとや」

 国府田は佐々木を睨んだ。

「なぜですか。こんなことをしなくても、私は警察署に行くつもりです」

「違うんや」

 佐々木は坊主頭を掻く。

「調書の内容が、これやなかとでけんとや」

 国府田は目の前の調書を読んでみた。衝撃的な冒頭から始まっていた。

『私は石井博志くんに日常的に暴力を振るっていました』

『私は石井博志くんをトイレに呼び出しました』

 国府田は目の奥が急激に熱くなるのを感じた。

「これでは逆です」

「君の気持ちは分かる。分かるけどやな」

「佐々木、もういい」

 石井の父は佐々木刑事を押しのけ、国府田の前に立ちはだかった。

「お前たちの嘘のせいで、博志の名誉はボロボロだ。私は父として、必ず博志の名誉を回復してやる」

 石井の父は鞄の中からナイフを取り出した。国府田が犯行に使ったものと同じものだ。そのナイフを国府田の喉元に突きつける。

「本当は今すぐお前を殺してやりたい」

 国府田は恐怖で身を固めた。石井の父はその姿を見て、満足そうに笑った。

「しかし、私は教育者だ。お前が反省して真実を語るというなら、罪を償うチャンスは与えてやってもいい」

 石井の父がナイフを引いた。国府田の全身から汗が吹き出した。

 国府田は状況を理解した。つまり、石井の父が書いた調書にサインするか、死ぬかのどちらかを選べということだ。

 国府田の映像が出回った時は、石井のいじめの件は内輪に留まっている話だった。しかし今、川屋の供述のせいで石井が加害者だったことが事実として全国的に知れ渡ってしまったため、その情報を『訂正』することが急務なのだろう。それに協力すれば殺すのは勘弁してやる、そう言っているのだ。結局、石井の父が最もこだわっているのは、自分は立派な教育者だという設定が維持されることだった。

 国府田は目の前の書類を見つめた。

 私は石井博志くんに日常的に暴力を振るっていました。私は石井博志くんをトイレに呼び出しました。

 国府田は心の中で、内容を唱えてみた。脳裏に石井の薄笑いが思い起こされた。国府田が惨めな思いをすればするほど、石井は興奮していた。国府田の人生を養分に自己愛を満たしていた石井に、回復すべき名誉など存在しない。今なお石井のために自分を犠牲することは受け入れ難かった。

 ならば死を選んでしまおうか。殺すなら殺せ、そう叫んでしまった方が楽かもしれない。彼は手段を選ばずに国府田を犯人にしてくれるだろう。そうすれば国府田の目的は果たせる。

 自分が死んだら川屋はどうするだろうか。ならば仕方がない、と供述内容を変えてくれるだろうか。

 国府田の脳裏に浮かんだのは、最後の日に見た川屋の泣き笑いの顔だった。川屋はこの後すぐに殺人犯になるつもりだったのに、それでも国府田に否認させるため、勇気づけるために、無理に笑っていた。

 国府田は今さら、自分の選択が誤りだったことに気が付いた。川屋は自分が開放されることを望んでいない。川屋がやったことは逆だった。川屋が望んでいたのは、国府田が開放されることだ。国府田が開放され、自由になるように全力を尽くし、やり切ってくれた。その意志に反して、国府田は罪悪感に耐えきれず、川屋の意志を無駄にしようとしてしまっていた。

 死んではいけない。川屋が守ってくれたから生きていられるのだ。川屋の思いに応えたかった。

「早くしろよ!」

 石井の父が叫ぶ。声が裏返っていた。かなり焦れているようだった。

 国府田はボールペンを手に取った。サイン欄にペン先を当てたところで動きを止め、ペンを取り落とす。

 石井の父が立ち上がった。

「何をしてる。変な真似はやめろ。死にたいのか」

 国府田は顔をしかめる。

「すみません、手に力が入らなくて。折れているかもしれません」

 国府田は右手を上げてみせた。

 石井の父は早足に、国府田の方へ歩み寄ってきた。手にはナイフを持ったままだ。

「甘えるな。たった数文字、手が折れたって書ける」

「でも」

 国府田は佐々木の位置を横目で確認した。出入り口付近に立っているままだ。数歩分の距離がある。

「見せてみろ!」

 石井の父が国府田の右手を掴む。その瞬間、国府田は石井の父に飛びつき、押し倒した。馬乗りの状態で、目にボールペンを突き刺す。

 石井の父は国府田の追撃を防ごうと、両手で顔を覆った。ナイフが国府田の目の前に無防備に晒される。国府田はそれを奪い取り、石井の父の首に押し付けて、叫んだ。

「動けば殺す!」

 国府田の後ろで佐々木の足音が止まった。既に国府田の真後ろまで来ていたようだった。

「国府田くん、やめなさい。誰も得をせんぞ」

 佐々木の声は震えていた。国府田は一度深呼吸をしてから、後ろに向かって言葉を投げた。

「佐々木さん、取引をしませんか。石井さんを逮捕してくれるなら、佐々木さんは助けてくれたと証言します」

 しばらくの間があり、溜め息が聞こえた。

「できるわけなか。彼を逮捕したっちゃ、何の罪にも問われんで出てくる。そういうもんなんや」

「なら、もう一つ案があります。石井さんを殺しますから、私の正当防衛を証言してください」

「やめろ」

 石井の父の体がビクッと痙攣した。

「やめなさい。そんなことをすれば、君は必ず殺される。俺も消されることになるかもしれん」

 佐々木の口調は強かった。

「国府田くん、分かるやろ。警察なんてサラリーマンに過ぎん。俺たちにできることは限られとる。君が殺されんように、俺も一生懸命頼んじゃるけん、頼むけん石井さんを放してくれ」

 国府田の心は冷めていった。元より、石井の父を生かしておくつもりはなかった。

「だったら、第3の選択肢です」

 国府田は石井の父の首を切った。血が噴水のように吹き出し、国府田は全身が真っ赤になるまで返り血を浴びた。石井の父は激しい痙攣を繰り返した後、動かなくなった。

 敵がゴミに変わった。後は掃除をするだけだ。

国府田は立ち上がり、佐々木の方に向き直った。佐々木も大量に血を浴びている。

 呆然とする佐々木に、国府田は微笑みかけた。

「死体の処理を手伝ってください」

「は……?」

 佐々木は呆けた返事をした。

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