第27話 川屋くんは妊娠した

 川屋が幼い頃に母は出ていき、川屋は父親と2人暮らしだった。とにかく監視が厳しい父だった。友人と遊ぶ時も、常に近くで見張っていた。川屋は友人を失い、1人でやれる読書と絵を描くことしかできなくなった。

 川屋が中学に入ると、父親は寝ている川屋の布団に潜り込むようになり、間もなく性的な行為を要求するようになった。初めは小さな行為だった。これだけでいいからとしつこく迫られ、それに応じると、また次、これで満足するからと言って行為はエスカレートしていく。川屋が拒否すると父は暴れ、彼女を殴り、家具を壊した。親戚や教師、警察に助けを求めたが、誰も話を聞いてくれなかった。逃げ出しても連れ戻された。結局父は最後まで目的を達成した。さんざんやりきった後、泣いて謝っていたが、行為は重なっていき、どんどん無遠慮になっていった。

 薬物を使い始めたタイミングは知らない。気が付いた時には重度の中毒者になっていた。行為が気持ちよくなるからと、何度も薬を打たれ、飲まされた。

 そして14歳になった時、川屋は父親の子を妊娠した。


「誰も……助けてくれなかったんですか」

「うん。学校の先生にも相談したし、110番通報もしたんだけど、全部、僕が嘘をついて親を困らせようとしてるだけだって言われた。僕の父親はね、教師だったんだよ」

 川屋は軽い声で笑う。

「近所の人とか親戚とかは、気付いてたみたいだけどね。あいつはすぐキレて暴れるから、何も言えなかったみたい」

 国府田は川屋の横顔を見つめ続けていた。川屋の目線は、かすかに光る水面へと固定されている。

「妊娠した時、遠くの産婦人科に連れていかれて、そこの先生が言ったんだよ。警察に連絡しますかって。そうしたらあいつは、警察へは僕が連絡します。娘を傷付けた奴を絶対に許しません、って泣いてた。それを見たらもう全部どうでも良くなっちゃって、家に帰ってすぐに刺してやった」

 川屋は飄々と刺す動作を演じてみせた。

「僕は自分で警察に通報した。父親を殺しましたって。でも罪にならなかった」

「周囲の人が、川屋さんの被害を証言してくれたからですか?」

 川屋は声を出して笑う。

「違うんだよ。僕が110番したら、警察の偉い人と親戚の人たちが来てね。教師が娘に手を出して刺されたなんて世に知れたら、町の恥だって言うんだ。だから僕の父親は、酔って川に落ちたことになった。この川にね」

 国府田は川屋が指差す川を見た。既に辺りは暗くなっており、奥に無限の闇が続いている。

「辛かったことは忘れて前向きに生きなさいって言われたよ。全員殺してやろうと思った」

 川屋は自分の手をゆっくりと見つめた。瞳は焦点が定まらず、死人のようだった。

「でも、ずっと手があいつの血でベタベタしててさ。気持ち悪くて、とりあえず先に手を洗ったんだ。そしたら凄く綺麗になってさ。何事も無かったって思えるくらい、元通りに綺麗になった。それを見たら分かった気がしたんだよ。僕に起こったことは全部、小さなことだったんだって」

 川屋の一言一言が、国府田の胸の深い場所に突き刺さる。体の芯から痛みを感じた。

「全部、凄く小さなことだったんだよ。人を殺したのも、レイプされたのも、水に流してしまえば一瞬でなかったことになるんだ。消してしまえるんだよ」

 川屋は再び笑みを浮かべた。言いようのない寂しさを感じさせる笑顔だった。

「それからは、色々なことがあんまり辛くなくなった。同時に、楽しいとか嬉しいとかも、あまり感じなくなった。全てが平坦になって、いつ死んでもいいやって思うようになった」

「川屋さんは」

 国府田の声は震えていた。

「私から見た川屋さんは、いつも楽しそうに笑っていました」

「そうかもしれないね」

 川屋は口の端を上げ、いたずらっぽく笑う。国府田はこの笑顔が心の底から好きだった。

「トイレで血だらけになってる君を見た時、僕は凄く嬉しかった。仲間を見つけたと思ったんだ。そうしたらもう、じっとしていられなくて」

 国府田の脳裏に、あの日現れた川屋の姿が鮮明に思い起こされた。川屋の異様な勢いに、何度も何度も救われていた。

「それからは毎日が楽しかったよ。笑ったり、泣いたり……感情を取り戻していってるのが自分でも分かった」

 大きな事件が起こる度、国府田は川屋の存在を支えに乗り越えてきた。毎日が感動の連続だった。

「最初は僕と君は似てると思ったけど、そんなことはなかった。君は何も諦めてない。どんなに辛いところに追い込まれても、最後は踏ん張って前を向こうとするんだ。だから君は石井くんを殺したんだよ」

 今、生きていられるのは、川屋が生きていたからだ。そう伝えたい。

「君は本当に強い人だと思う」

 何でもいい、何かを川屋に伝えたかったが、言葉が出てこなかった。

 水の音に混じって、すすり泣きが聞こえてきた。

「悔しいよ。もう少しで僕たちは自由になれたのに」

 川屋が激しく肩を震わせる。国府田は川屋の背中を抱きかかえた。

 国府田は今さら、これで終わりなのだということを理解した。絶望的な状況に慣れてしまい、なんとなく、明日も普通の明日が来ると思い込んでいた。明日は来ない。これで終わりなのだ。国府田も涙を抑えきれなかった。

 流水の音がひたすら続く中、2人でずっと抱き合っていた。


 2人は寄り添って帰路を歩いた。

「国府田くん、最後の作戦だ」

 落ち着きを取り戻した川屋は、すっかりいつもの軽い口調を取り戻していた。国府田に満面の笑みを見せる。泣き笑いだった。

「なんでもやりますよ」

 国府田も笑ってみせた。

「もうここまできたら、やれることは無いからね。ひたすら否定しつづける。それだけ」

「分かりやすいですね」

 川屋の家の前に、パトカーが2台停まっていた。2人は迷いのない足取りで進んでいった。

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