第4話 川屋くんはパトカーに手を振る
翌朝、国府田は早朝に目を覚ました。いつも通りの自室だった。
なんとなく、自分の手を見てみた。いつもと何も変わらない、何の変哲もない自分の掌だった。
今日は何曜日だっけ? 何をする日なんだっけ? そう考えながら体を起こそうとしたが、脳が思考を拒否しているように、何も考えられなかった。今日は日曜日のような気がする。このままもう一度寝てもいいんだっけ? 何か大事な用事があったような……
だんだん、焦りを感じてきた。胃の奥をかき回されるようなざわめき。そうだ、今日は普通の日ではない。いや、むしろこれからずっと、もう普通の日は来ないんじゃなかったか……?
自分の予感が間違っていることを祈りながら、布団に紛れ込んだスマートフォンを見つけて、画面を見てみる。
メッセージが届いていた。川屋からだ。今日の目的地や持ち物について書かれていた。
国府田は昨日の出来事を思い出した。血まみれの石井が便座にもたれかかっている。ペニスは切り取られ、刻まれて便器の中に沈んでいく。そして川屋は笑い、はしゃいでいた。
頭痛がした。しばらく、激しすぎる記憶に負け、何も考えられなかった。
ふと、昨日の夜、教師が校内を捜索していたことを思い出した。結局、石井の死体は発見されてしまったのだろうか。SNS、ネットニュースを見てみたが、それらしき言及はなかった。
だがまだ安心はできない。情報が内部に留まっているだけかもしれない。川屋にも確認してみるため、国府田はメッセージを送った。
『おはようございます』
『おはよう! ちゃんと起きれたんだね』
『昨晩は無事でしたか?』
『何もなかったみたいだよ。何かあったら騒ぎになってるだろうからね』
確かにそうだ。国府田はようやく、落ち着きを取り戻し始めた。こうして自分が自室にいられることが、昨晩は切り抜けられたという証拠に違いなかった。
『ただ、用心はしておく。お互いに、これまでの会話は全部、消そう。スタンプだけ残しておいて。その後、普通の会話をする』
『分かりました』
それから少しの間、他愛のないメッセージのやり取りをした。数学の宿題が終わらないとか、コンビニで流れている曲のタイトルが気になるとか、とりとめのないやりとりをしていると、点呼の時間になった。
毎朝、寮生は部屋の前に立って寮監督担当教師のチェックを受ける。目の前を教師が通った時は動悸が早まったが、特に声を掛けられることなく通り過ぎて行った。
昨日を乗り越えたのだ。国府田は涙腺が緩むのをぐっとこらえた。まだ何も終わっていない。今日が本番だ。今日の作戦を、しっかりやりきらねばならない。
寮の朝食を終え、国府田は美術室に向かった。別々に動いて荷物を詰め、学校から少し離れた場所に集合することになっている。
美術室の戸棚を開ける時には、かなりの勇気が必要だった。戸を開けた途端、腐臭が広がる。ゴミ袋の中身は黒く変色していた。消臭スプレーを振り、バスタオルで包んでバッグに詰める。袋を一つ詰める度に、血を吹き出しながら痙攣する石井の姿が脳裏に蘇った。少し立ち直りかけていた気持ちが、どんどん沈んでいった。なんとか集合場所にたどり着いた時には、国府田はもう力尽きる寸前になっていた。
少し間を置いて川屋が小走りでやってきた。満面の笑顔で手を振っている。
「いい天気! 登山日和だね!」
「……そうですね」
確かに川屋の言う通り、昨日の雨は見る影もなく、今日は晴天だ。それでも川屋の足取りの軽さは異常に感じる。お互い5キロか10キロはあろうかという人体の残骸が詰まったバッグを抱えての登山だということを理解しているのだろうか? 疑問を抱えたまま、国府田は重い足取りで後ろに続いた。
2人は大分へ向かう鉄道の駅へ向かった。県をまたいだ山中へ『ゴミ』を投棄する計画だった。
通りには多くの車・自転車が走り、まだ朝早いにもかかわらず歩行者もちらほらといる。車と、人とすれ違う度、国府田の心臓は縮んだ。荷物が多すぎて不審に思われないだろうか? 臭いが漏れていないか? そう考えると血の気が引く思いだった。
「国府田くん、そんなにバッグを気にしてたら、逆に怪しいよ」
「え、あ、はい……」
「あ、パトカーがこっちに来る」
川屋は国府田の背後を覗きながらつぶやいた。国府田が飛び上がって振り向くと、ガラーン、と乾いた音が響き、国府田は口の中から心臓が飛び出したのを感じた。
音がした方を見る。バス停が倒れていた。地面に埋め込まれておらず、土台がコンクリートの重りでできているタイプだった。振り向いた時にぶつかって倒してしまったようだ。
国府田が慌ててバス停を起こしている後ろを、パトカーが一台、ゆっくりと通り過ぎた。国府田が横目でパトカーの後ろ姿を確認し、息をついた直後、川屋がパトカーに手を振った。
「おーい、ここにバラバラ死体があるぞー」
「川屋さん!?」
国府田は内蔵を全て吐き出す寸前だった。
「ゴメンゴメン、ちょっと出来心で」
川屋は国府田の肩をポンポンと叩いた。川屋なりに緊張をほぐそうとしていたらしい、と国府田はポジティブに捉えることにした。
幸い大きなトラブルに見舞われず駅に着いた。800円程度の切符を買って無人駅の中に入る。バッグの底が抜けないよう慎重に階段を下る国府田を、川屋が飛び跳ねながら追い抜いて行った。
山中を走る電車の中でも、川屋は景色を見てはしゃいでいた。
「ほらほらモミジ! 紅葉バッチリだね」
国府田には景色を眺める余裕は無かった。バッグが座席から落ちて中身がこぼれるのでは、と思うと気が気ではなかった。なぜ川屋はここまで平気でいられるのだろう。何を考えているのだろうか?
「電車乗るの久しぶりなんだよね。たまには遠出もいいもんだねぇ」
国府田は曖昧に頷いた。先ほどの疑問が、国府田の心に引っかかり、やがて根本的な疑問へと成長していた。そもそも川屋はなぜ、自分の犯罪に手を貸してくれるのだろうか? 川屋に、国府田を助ける理由があるとは思えない。川屋と会話をしたこと自体、あの日が初めてだったくらいだ。
石井の死が世間に知れると困る事情が何かあるのかも、と考えてみたが、どんなに頭を捻っても、川屋と石井の間にそんな特別な関係は想像できなかった。2人が教室で会話しているところを一度も見た覚えがない。
「よし、じゃあ石井くんにもこの景色を見せてあげよう」
川屋はおもむろにバッグを開け始めた。
「あがっ……!!」
国府田は声にならない声を上げ、川屋の手を掴んだ。
「な、な、な、何を……!?」
「石井くんも旅を楽しんでくれたら2対1、多数決の力で国府田くんも少しは楽しくなるかなと思って」
川屋は澄ました顔をしている。国府田は今まで何を考えていたのか、全て忘れてしまった。
「……分かりました。私も……その、景色を楽しむことにします」
国府田は座席にもたれかかり、投げやりに外に視線を向けた。赤、黄色、緑が混ざった山は広大で、どこまでも続いていた。
川屋は満足げに笑い、景色の写真を撮り始めた。
目的の駅を出ると、眼前のコンビニエンスストアと数件の民家の奥に、山と空が無限に広がっていた。
「いいじゃん、いい景色!」
川屋は飛び跳ねるように駆け出し、風景の写真を撮った。
「よし、まずは記念撮影しよう」
国府田はついていけず、肩を落とした。
「私たちは遊びに来たワケじゃありませんよ」
「遊びに来たんだよ」
川屋はスマートフォンを手にしたまま国府田の隣へ引き返してきた。
「僕たちは悪いことをしにきたんじゃない、遊びに来ただけだっていう証拠を撮っておこうよ」
一理ある、と国府田は思った。この先、追及を受けることもあるだろう。その準備をしておくことは確かに重要だ。
「ほら、笑って笑って。いえーい」
国府田は指示に従い、笑顔を浮かべた。
「国府田くん、笑ってってば」
「え、笑ってますけど」
「駄目だよ、連行される宇宙人って感じの顔になってるよ! ほら、いえーい」
「えぇ、そういうのはちょっと」
「いえーい」
川屋は国府田の肩に手を回し、頬にピースサインを突き付けた。どうやら逃げ場はないようだった。
「……い、ぃぇーい」
国府田がぎこちなく笑顔とピースを作ると、カメラのシャッター音が鳴った。
2人は登山を開始した。地図によれば、舗装道路を5キロほど歩けば、バッグの中身を捨てるのに向いたポイントがあるはずだった。
「本当に綺麗な山だね。こんなにバッチリ紅葉してるのに人がいないなんて、世間の人は見る目がないな」
川屋は呑気に景色を眺めながら歩いている。恐怖と罪悪感で足が重い国府田とは対照的だった。川屋がずんずん先に進むため、国府田はついていくしかなかった。
やはり川屋の真意は分からない。度々の奇行に振り回されてもいるが、少なくとも昨日を越えられたのが川屋の行動の結果なのは間違いない。一番分からないのは、その理由だ。川屋に何のメリットが、またはどのような動機があるのだろうか。
国府田はある可能性に思い至った。突拍子もない思いつきだったが、川屋の色々な行動に、不思議とぴったり当てはまる理由のような気がした。
単なる殺人好きの異常者なのでは?
罪悪感というものが欠落しているとしか思えない行動の数々も説明がつくし、事件発覚の恐怖を感じていないのも、ひょっとして慣れているからなのか……?
すると、人の死に関わるのは今回が初めてではない……?
胸の奥がざわつき始めた。この人の言うことに従ったのは正しい選択だったのだろうか? 石井よりも危険な人物に弱みを握られてしまったのでは……? そういえば既に何度か、悪質なからかわれ方を……
突然、川屋が振り返った。国府田は声が出そうになるのを必死にこらえた。
「無理、ちょっと休憩」
川屋は道端にバッグを投げ出し、その上に腰かけた。
「ちょっと、何に座ってるんですか!?」
「もう限界だよ! 体力ないんだ、僕は」
「……まぁ、体力があっても辛いでしょう」
川屋のバッグは国府田より軽くなっていたはずだが、それでも普通の人にとって、5キロを超える荷物を担いで山を上ることは困難な仕事のはずだった。ましてやペースを考えずに飛び跳ねていれば、歩けなくなるのも当然だろう。川屋に人間らしい常識が通じることに、国府田は若干の安心感を覚えた。
「国府田くんは体力あるね。なんかやってたの?」
「中学校までは柔道をやってました」
「へー! だから重くても平気なのか。凄いね」
ふと、背後で車が止まった。振り向いた国府田の血の気が引いていく。
止まったのはパトカーだった。窓が開き、警察官が身を乗り出す。
「こげんかとこで何しとると?」
何もない山奥で留まっている自分たちを不審に思ったようだった。
国府田は固まった。頭の中が真っ白になる。しかし、すぐに適切な回答をしなければ怪しまれる……それ以上に、川屋が何か、とんでもないことを言い出すかもしれない。そっちの方が怖かった。しかし、言葉が出ない。
「僕たち」
国府田の後頭部を貫いて、川屋の声が警官に届く。間に合わなかった。国府田は心臓が暴れ出そうとしているのを感じた。
「山の写真を撮りに来たんです」
「山ち、この山?」
「そうです。今はいい時期なので」
「カメラは?」
「これです」
川屋はスマートフォンを掲げて見せた。警官たちはパトカーの中で何かを話し始め、再び川屋に顔を向けた。
「高校生ね?」
「はい」
「どこね」
「U高校です」
国府田と川屋が通うK高校とは異なる名前を川屋は口にした。
警官たちは顔を見合わせて頷きあうと、身を引いた。
「この辺は飛ばす車が多かけん、気ぃ付けとってね」
「分かりましたー」
警官は手を振りながら去っていった。川屋も手を振ったので、国府田もつられて手を上げた。しばらく、パトカーが去った方を眺めて呆然としていたが、ふと我に返り、その場にしゃがみ込む。息が切れてしまった。どうやら息を止めていたらしい。
「大丈夫だよ、僕たちはぱっと見、ちょっと登山が好きなだけの高校生」
「でも、見られました。記録が残るのでは?」
「『U高校の生徒2名と会話』って書かれるだけだよ」
川屋は全く動揺していない。国府田は苛立った。
「高校のこと、深く追及されたらどうするつもりだったんですか……!? クラスとか、担任とか」
「あぁ、それも大丈夫だよ」
川屋は目を細めた。いつも微笑を浮かべている表情が、冷たくなったように見えた。
「僕の地元はこの辺りなんだ。U高校のことは良く知ってる。職質くらい問題ない」
少し表情が失われるだけで、大きく印象が変わる。国府田は気圧されてしまった。
「それは……失礼しました……」
「え、ちょっと、しょんぼりしないでよ! つまり大丈夫ってことじゃん、元気出して!」
川屋はいつもの笑顔に戻り、国府田の腰をバンバン叩いた。
「国府田くんはホント心配性だよね。やる時はやる男のくせにさぁ」
「ははは……」
「まぁ、僕も元気出さなきゃだよねぇ。よっ! こい! しょ!」
川屋は過剰にコミカルな掛け声をあげながら立ち上がり、バッグを抱えなおした。
「お待たせ。行こう!」
川屋は再び、前を軽快に進み始めた。もう、行けるところまでついていくしかないのだろう。国府田は覚悟を決めることにした。
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川屋くんはなんでも水に流す ナム @hyohyotei
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