第3話 川屋くんは汚水をかける

 川屋は倉庫に忍び込み、ノコギリなどの工具と、大量のゴミ袋を見つけてきた。

 解体作業は国府田が担当した。便器の上で、石井を殺したナイフで腹を捌き、内容物を流す。固形のものは可能な限り取り出し、ゴミ袋に詰める。手首・足首からも血を抜き、2人で腕と足を掴んで揺すっても血液が雫程度しか出なくなったのを確認してから、ノコギリを使い、腰の上付近で石井の死体を両断した。

「これ、もう少し小さくして、全部ゴミ袋に詰めた方が、持ち運びやすくありません?」

「おー、確かにそうだね。よし、やろう」

 万が一、誰かが通りかかってしまった時に備えて、トイレの入り口が開かないようにデッキブラシを差し込んでおいたが、運良く誰も通りかかることはなかった。午後5時になろうかという頃には、石井だったものは6つのゴミ袋になって、美術室の戸棚の中に格納された。戸棚の中に入っていた石膏像には、一時的に外に出てもらうことになった。

 2人血まみれのトイレの大掃除にとりかかった。あまりに広い範囲に汚れが広がっているため、国府田は辟易したが、川屋は大いに楽しんでいた。

「国府田くん、見て! すっかり落ちたよ!」

「国府田くん、ここ元より綺麗じゃない!?」

「国府田くん、届かない! 助けて!」

 川屋に振り回されている間に、気がつけばトイレはかなり綺麗になっていた。パッと見ただけでは、殺人現場には見えない。下校時間も迫っているため、今やれるのはここまでだろう。

 しかし不安は尽きなかった。調べられてしまえばいくらでも、ここで石井が解体された証拠は見つかってしまうだろう。トイレや排水溝に流してしまったものはもう回収のしようもない。見つからないことを祈るだけだ。

「すっきりした……」

 沈鬱な表情をしている国府田の隣で、川屋は満足感に浸っている。国府田は悩んでいるのがバカらしい気がした。

「なんとか終わりましたね」

「まだ仕上げが残ってるよ」

「何です?」

 川屋は鏡を指さした。

「僕ら自身がまだ汚れたままだ」

 鏡には血塗れのままの2人が映っていた。確かに自分たちの処理を忘れていた。

しばらく頭から水を被ってみたが、髪の奥に染み込んだ血液がどうしてもにじみ出る。服の汚れは黒い学ランがある程度隠してくれるとしても、血が滲んだ靴などはどうしようもない。

 国府田も川屋も帰宅先は校舎に隣接している学生寮だ。遠方からの学生のために寮が用意されており、クラスの1/4ほどが寮生活をしている。寮の自室まで人目につかずに辿り着ければ、その先は何とでもなるだろう。しかし、土曜の放課後で人が少ないとはいえ、帰路で人目につくことは避けられそうにない。

「これはもう、幸運に期待するしかないでしょうか?」

 国府田の危機感は麻痺し始めていた。強引に帰宅してみたら何とかなるのでは?という気がしてきている。

「仕方ない、最後の手段を使おう」

 川屋は苦笑した。嫌な予感を感じさせる笑顔だった。

「靴借りるよ」

 川屋は国府田の靴を拾い、向かいの美術室へ入っていく。国府田が慌てて後を追うと、川屋は国府田の靴を、筆を洗うためのバケツに突っ込んでいた。血で赤く染まってしまっていた靴に緑色の液体が染み込み、形容し難い色に変わっていく。

「いい感じじゃない? 絵の具こぼしちゃったことにしてさ」

「派手な汚れ方ですね」

「まぁ、盛大にひっくり返しちゃったってことで」

 仕上げに川屋は国府田の靴を水道水ですすいだ。元はグレーだった靴はすっかり変色してしまったが、少なくとも赤くは見えない。

「あとは髪とシャツかな」

「そうです」

 国府田が返事をしかけたところで、川屋は国府田の頭上から緑色の汚水をかけた。

 国府田はしばらく目を閉じた。川屋に悪意はないのだ。行動に躊躇がないだけだ。

 国府田が目を開けると、川屋自身も既に汚水を被っていた。髪をかきあげながら、美術室のベランダの扉を開け放ち、外に出る。

「ひゃー、雨強い!」

 楽しげな声をあげながら川屋は手すりから身を乗り出した。

「国府田くんもおいでよ、気持ちいいよ!」

 川屋は国府田に満面の笑顔を向けた。国府田は観念してベランダに出る。強く叩きつけられる雨粒が、今は確かに心地よく感じた。

 感覚が鋭敏になっていた。脳の回路が全て広がっているような感覚だった。雨の音、肌を打つ衝撃、濡れた秋の匂いを全身で感じていた。

 国府田は川屋を見た。目を閉じて天を向き、空からの雫を一身に受け止めている。きっと、味わっている感覚は同じだ。不思議と、国府田にはそう思えた。

 川屋が目を開けてこちらを見た。国府田は反射的に視線を反らす。

「いいね、すごくぐちゃぐちゃ。何があったのか誰にもわからないよ」

「ですかね……?」

「まぁ僕たちは水入れを盛大にひっくり返して、外で洗ってただけだけどね」

「そうですね」

 国府田は自分の頬が緩むのを感じた。川屋の発言には突拍子がないが、不思議な納得感がある。

「まだ先は長いけど、とりあえず」

 川屋が優しい笑みを浮かべ、拳を突き出した。

「お疲れ様」

「あ、はい……」

 国府田は遠慮がちに拳を合わせた。


 国府田と川屋は連絡先を交換することにした。川屋がメッセージアプリを何も入れていなかったため、アプリをインストールして使い方を説明するところからだった。「友達いないんだよ。悪かったね」と川屋は拗ねていたが、不愉快な呼び出しを受ける専用になるよりマシだ、と国府田は思った。

 2人は寮の入り口で分かれ、別々に入館した。

国府田が自室へ向かう途中、見回り担当の教師も含めて何人かとすれ違ったが、とがめられることはなかった。雨に濡れて帰ってくる生徒など珍しくないのだろう。

 共同浴場では緊張で胃が飛び出そうになったが、誰にも声を掛けられることなく全身を洗い終えた。よくよく考えたら、誰も国府田の入浴に興味はない。全て取り越し苦労だった。

 良い流れだ。国府田は希望を感じ始めた。

今夜、美術室の棚に隠されたアレが誰にも見つからなければ、明日にはアレは遠方に消え去る。今夜を乗り切れば、最大の危機は去るはずだった。石井は遠くF市にある実家から通学していたため、帰宅しなかったとしても、学校から自宅までのどこで失踪したのかが特定できず、即座に学校の捜索が行われる訳ではない……そんな期待が浮かんでくる。そう考えると食欲が湧いてきて、夕食はすっかり完食してしまった。

 1時間後、期待は打ち砕かれた。見回りの教師が、寮に残っている生徒の部屋を一つ一つ回りはじめた。かすれた声で石井のことを話しているのが聞こえる。先ほど胃に入れた夕食が逆流しはじめた。

 やがて、見回りにきた教師の吉村が、国府田の部屋の戸を叩いた。

「石井が帰宅しとらんらしい。何か知らんか」

 国府田は吉村の目を見ることができなかった。

「すみません、知りません」

「そうか。携帯にも何も来とらんか」

 心臓が止まる気がした。そういえば石井のスマートフォンはどうした? 国府田は石井からメッセージアプリで呼び出されていた。もし石井のスマートフォンが発見され、自分へのメッセージが見られたら致命的だ。

「ん? 何か来とったのか?」

 国府田が返事をしないため、吉村は不審に思ったようだった。国府田は懸命に正気を保った。

「いえ、そういえばスマホどこに置いたっけと思いまして」

「はは、お前はよく落とすけんなぁ」

 吉村はそう笑うと、次の部屋へと向かっていった。吉村は国府田と石井のクラス担任でもあるが、なぜ国府田のスマートフォンが頻繁に落ちているのかは理解していないようだった。

 まぁ、もう元を断ったからいいか……そう納得し、国府田は自分のスマートフォンを取り出した。川屋からメッセージが入っていた。

『今日は運動したからご飯が美味しい』

 緊張感のない顔が思い浮かび、国府田は少しだけ落ち着きを取り戻した。

『吉村先生が聞き込みをしているようです。校舎も探されているんでしょうか』

 返事はすぐに来た。

『僕の部屋にも来たよ。校舎も探してるだろうね』

 吐き気の塊がぐっと上昇したのが分かった。

『今からでも、もっと見つかりづらいところに動かした方がいいでしょうか』

『大丈夫だよ。普通、戸棚を探そうとは思わないから』

『そうでしょうか?』

 悪い想像が膨らむ。トイレの腐臭か何かに気付いた教師が、向かいの美術室を捜索する可能性は高い気がした。

『前提が違うんだよ。石井くんが解体されたことを知ってるのは、この世に2人しかいない。隠された死体を探してる人なら戸棚は見るかもしれないけど、普通は家出か、雨が凄いから事故かも、とか思うんじゃない? 今の情報量で学校の戸棚が怪しいと考える人がいたら名探偵すぎるでしょ。それに先生たちは、石井くんを探してる訳じゃないよ』

『じゃあ何を探してるんです?』

『「石井くんが学校に居ない」という根拠を探してる』

 川屋に断言されると、不思議な説得力がある。確かに担任の吉村は真剣に探しているようには見えなかった。とりあえず一通り聞いて回ろう、ぐらいの感覚なのだろう。

 しばらく間が空いて、メッセージ画面に熊のキャラクターがフラダンスを踊っているスタンプが送られてきた。

『この熊かわいい』

 国府田は頬が緩むのを感じた。今さら心配してもどうしようもないことは置いておき、現実的な問題に対処する気力が湧いてきた。

『彼のスマホ持ってますか?』

『持ってるよ!』

 熊が万歳をしているスタンプを送ってきた。すっかり使いこなしている。

『メッセージを運営元にチェックされたりしないのでしょうか』

 国府田も、ウサギのキャラクターが泣いているスタンプを送ってみた。絶望的な状況が、少しマシに思えた。

『大丈夫だよ』

 文字の向こうに、笑顔で人差し指を立てる川屋の顔が見えた。

『調べてみたけど、メッセージは暗号化されていて、外部からチェックはできないらしいよ』

 川屋は石井のスマートフォンを忘れず回収していた上、必要な調査を既に終えていたようだった。国府田は舌を巻いた。

『本体は破壊しましょう』

『いや、これはまだ使い道がある。それより明日、寝坊しないでね!』

 寝る、という字を見た瞬間、国府田は激しい疲労感を感じた。今日一日の心身の負担を、体が思い出したようだった。

『今日はもう寝ます。明日を無事迎えられることを祈ります』

 熊がOKサインをしているスタンプが送られてきた。

『見つかっちゃっても大丈夫だよ。調べてみたんだけど、少年法のおかげで無期懲役でも20年以内に出られるらしい。36歳なら人生はやり直せるよ!』

 国府田の精神は再びぐちゃぐちゃになった。ベッドに倒れ込み、そのまま気を失った。

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