突然出会った変な人
第1話
銀杏の匂いが鼻につく。イチョウの葉や茶色に色づいた落ち葉を踏みながら毎日の通勤ルートを通る。
世間の噂が詰まったスマートフォンに釘付けの会社員、肩にゲートボール用のスティックを背負った朗らかそうなおじいさん、周りのことを遮断しようとヘッドホンで曲を聴く学生とみんなどこかへと向かっていた。
俺はというと、コンタクトレンズの調子が悪いのか目に違和感を感じ、何度も瞬きを繰り返していた。最近悪くなってしまった視力に自身がついていけず、かと言って眼鏡が似合う自信もなく、流れで進められたコンタクトレンズを必死に眼球に装着していた。
「……面倒やな、コンタクトって。今の時代で視力良くなる方法とかないんかな……」
――視力のように、今の俺は何もかもついていけていない。
そのはずなのに、ずっと過去で止まったままの自分を隠しながら今の俺は生存している。その辛さなんて、もう忘れてしまった。
ただ、平凡な日々が続けばいい。ただ、無事に起き、何も問題のなく夜を眠れるような一日を過ごせればそれでいい。
「……ドサッ」
そんな俺の目の前で。さっきまでは視界にも入っていなかった女性が、目の前で膝から崩れ落ちて倒れた。
「え、ちょ、大丈夫ですか!??」
俺は急いで彼女の元へと駆け寄り、倒れたままの体を起こして声をかけた。少し口は開いていて、対照に目は頑なに閉じられている。でも、不思議と顔色は悪そうではない。
「あの、すみません、! 意識ありますか!!」
何度も震わせて声をかければ、長いまつ毛から現れた瞳孔が見えた。少しの希望が見えた俺はもう一度声を掛け直した。
「すみません、大丈夫ですか!!?」
「……ん……、水……」
「水ですか、ちょ、ちょっと待っててください!」
一緒に心配して立ち止まった通行人に水を頼んで、俺は新調した薄めのコートをベンチの上に敷き、その上に彼女を寝かせた。その後にスマートフォンを取り出して、救急車を呼ぼうとすると手を掴まれた。
「え、どこか痛みますか、」
「救急車……呼ばないでください……」
「……へ、どういう事ですか?」
「私、倒れただけなんで……大丈夫です」
正直、意味がよくわからなかった。倒れたからこそ救急車を呼ぶものではないのか。
「水、来ましたよ。飲めますか」
キャップを開いて唇に触れさせれば、着々と喉へと流れ込まれていく。彼女が手を振ったのを合図に流れを止めた。
「ありがとうございます……。もう、平気です」
「本当ですか……? 病院が嫌なら、家まで送りましょうか?」
「家は……いいです」
「じゃあ、どこに、」
「そういう意味じゃ、ないです」
俺の解釈の仕方に間違いがあったのか、彼女はふっと頬を緩ませて笑った。笑う余裕が生まれてきたのか、すくっと身体を起こした。
「あなたの名前は」
「お、俺の名前ですか、?」
「今度、お礼させてください。スーツ着てるってことは、今から出社なんですよね」
視線の向きは首元から伸びるネクタイだった。
「いや、別にお礼とかいいですよ。見返りとか求めてないですから」
「私が気が済まないんです。立ち止めてまで介抱してもらったのに、何もできないのはむずむずするので」
「わかり、ました……。では、これ。渡しておきます」
茶革のケースから出した名刺を彼女に渡す。透明の背景に淡い色が散りばめられた今時の名刺をまじまじと見つめれば、
「お洒落な名刺ですね、すごい近未来」
「俺もそう思います。普通名刺って紙ですもんね」
「……今って凄いな。こんなに進んでるんだ」
そう呟いた後、よほど珍しかったのか。気に入ったようにショルダーバックへと仕舞い込んだ。
「じゃ、じゃあ俺はこれで」
時計を見れば出勤時間の十分前だった。急いでその場を立ち、心拍数を上げながら秋の始まりを吸い込んだ。そんな変わった朝だった。
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