突然出会った変な人

第1話

 銀杏の匂いが鼻につく。イチョウの葉や茶色に色づいた落ち葉を踏みながら毎日の通学ルートを通る。


 辺りを見回せば世間の噂が詰まったスマートフォンに釘付けの会社員、肩にゲートボール用のスティックを背負った朗らかそうなおじいさん、周りのことを遮断しようとヘッドホンで曲を聴く学生とみんなどこかへと向かっていた。


 俺はというと、コンタクトレンズの調子が悪いのか目に違和感を感じ、何度も瞬きを繰り返していた。最近悪くなってしまった視力に自身がついていけず、かと言って眼鏡が似合う自信もなく、流れで進められたコンタクトレンズを必死に眼球に装着していた。


「……面倒やな、コンタクトって。今の時代で簡単に視力良くなる方法とかないんかな……」



  ――視力のように、今の俺は何もかもついていけていない。



 そのはずなのに、ずっとの自分を隠しながら今の俺は生存している。その辛さなんて、もう忘れてしまった。


 ……と思い込み続けているだけで、この癖の強い香りが通り抜けると頭の中に冴綺さきの最後の言葉が響く。



「まだ……自分を忘れたくないなぁ……」



 うっすらと口角を上げて、涙がこめかみの形をなぞった次の日には頑なに瞼を閉じた冴綺が白いベッドに横たわっていた。いつも付けていた管やらマスクから放たれて解放された様子で。


 なのに全然嬉しそうではなかった。あれだけ痛がっていたから少しくらい喜んでもいいはずなのに、口はあの時と違ってつぐまれ不機嫌そうだった。


 ただ眠っているだけなのに。いつも通り目を閉じているだけなのに。

 俺と冴綺はすごくすごく遠い存在に感じてしまった。



 

 柴犬の鳴き声が響いた。


 どこかで飼い主を呼んでいるのだろうか。それとも、ただの鳴き癖か。そんなことをぼんやり考えながら、俺は歩みを止めることなく大学へと向かっていた。


 けれど、その声に引き戻されたのは意識だけではなかった。目の前に広がる世界は、たった今まで俺の頭の中に渦巻いていた過去とはまるで違うものだった。


 ――だめだ。


 過去に浸りすぎると、日常が崩れてしまう。思い出したくない記憶ばかりが膨らんで、自分の嫌いな自分が顔を出してしまう。だから、考えない。


 ただ、平凡な日々が続けばいい。ただ、無事に起き、何も問題なく夜を迎えられるような一日を過ごせれば、それでいい。


 そう思っていた、そのとき。


「……ドサッ」


 何かが崩れるような音がした。


 振り向くと、目の前の歩道で一人の女性が倒れていた。


「え、ちょ、大丈夫ですか!!」


 反射的に駆け寄る。膝から崩れ落ちたようで、その場にぐったりと座り込んでいた。薄手のカーディガンを羽織った華奢な身体。足元に落ちたショルダーバッグ。


 彼女の顔色は、意外にも悪くなかった。いや、むしろ血の気はちゃんとあって、普通に寝ているようにも見えた。呼吸は安定しており、眠ったように落ち着いた様子で。


「すみません! 大丈夫ですか!?」


 震える声で呼びかける。長いまつ毛が揺れて、ゆっくりと瞳が開いた。


「……ん……、水……」


 か細い声。


「水ですか、ちょ、ちょっと待っててください!」


 近くにいた通行人に水を頼みながら、俺は急いで買ったばかりのダウンジャケットを広げ、彼女の背中を支えながらベンチの上へと寝かせた。


 ポケットからスマホを取り出し、救急車を呼ぼうとした、そのとき。


「……呼ばないでください……」


 手首を掴まれた。


「え……? でも、どこか痛いとか……」

「倒れただけなんで、大丈夫です……」


 力なく笑う彼女の言葉に、正直、困惑する。倒れたからこそ救急車を呼ぶべきなのに。


「いや、でも……」

「水、買ってきました!」


 タイミングよく、頼んでいた水を持ってきてくれた男性が走ってきた。


「ありがとうございます! すみません、飲めますか?」


 キャップを開けて渡すと、彼女はゆっくりと唇を濡らしながら、水を喉へと流し込んでいった。少し経つと、深く息を吐き、ほっとしたような表情を浮かべる。


「ありがとうございます……。もう、平気です」

「本当に?」


「はい、っ、びっくりさせてすみません…… 」


 そう言って、彼女は上半身を起こした。


「病院が嫌なら、家まで送りましょうか?」

「家は……いいです」


「じゃあ、どこに?」

 

 そう問いかけると、彼女はふっと頬を緩ませた。


「そういう意味じゃ、ないです」

「あ。あぁ、すみません……!」


 俺が言葉の意図を読み違えたらしい。


「あなたの名前は?」

「お、俺の名前?」


 いきなりの質問に戸惑っていると、彼女は少し笑った。


「今度、お礼させてください。学校、もう始まる時間ですよね?」


 彼女の視線の先には、俺が肩に掛けていたトートバッグから覗く教科書たちがあった。


「いや、別にお礼とかいいですよ。見返りとか求めてませんから、」

「私が気が済まないんです。立ち止まってまで介抱してもらったのに、何もできないのはむずむずするので」


「わかり、ました……。じゃあ、これ」


 俺は慌ててポーチを開け、付箋を取り出した。大学生に名刺なんて持ち合わせていない。急いで電話番号を書き込み、それを彼女に手渡す。


「電話番号、交換すること滅多にないから、すぐに気づくと思います」

「え、電話番号交換しないの?」


「今はLINEとか、Instagramとか。全部SNSで済んじゃうので」


「……今ってすごいな。こんなに進んでるんだ」


 彼女は珍しそうに呟きながら、付箋を大切そうにショルダーバッグへと仕舞い込んだ。


「じゃ、じゃあ俺はこれで」


 時計を見ると、授業開始の十分前。俺は急いでその場を立ち、心拍数を上げながら秋の始まりの空気を吸い込んだ。


 でもなぜか彼女の笑った顔が頭に残っていた。


――そんな、変わった朝だった。


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