第2話 姫
そろそろ食べ終わるかという頃合いでピクリと耳が動く。人に化けていようとも聴覚、嗅覚は人間のそれ以上のものが備わっている。
少し離れたスペースに、大型のバイクが一台止まるのが気配で分かった。そして、そのライダーは手でバイクを押しながら、どうやら隣の空き地に駐輪にさせた様だった。
一応は耳慣れた気配だったので、それの主も容易く分かった。この部屋を尋ねてきたのであろうが、この暑い中、わざわざ遠くでバイクを降りて近づいてきたのに予めそれを知らせて、水を差すようなことはしない。というよりも黙っていた方が海潮の反応が面白そうなので、頼まれても言うつもりはなかった。
やがて階段を登る足音が部屋の前で止まると、例によってドアを五回ノックする音が聞こえた。
このやり方で部屋を尋ねるのは小生くらいのものだ。けれども、たった一人だけ、小生がそれを教えた人物がいる。勿論そんな事は知らない海潮は目を丸くさせてこちらを見てきた。
ここでも知らぬ存ぜぬを決め込んで、首をかしげてやった。
まさか小生が応じる訳にも行かないので、海潮は訝しげながらも立ち上がる。
小生は小生で、面白おかしい反応を見るために座ったまま体を傾けた。
開いたドアの外には海潮の同級生たる一人の女子大生、風梨里佳かざりりかが立っていた。背はそれほど低くはないけれども、彼女が乗り回しているバイクにはそぐわない程、華奢な体つきである。
「こんにちは」
「か、
慌てふためく―――今の夏月海潮の様子―――と、辞書を引けば、斯様に出るような狼狽ぶりだった。
「ちょっと用事あって近くに来てさ。ついでに本を返しに寄ってみたんだけど、いてくれて良かった」
玄関のドアが開いたせいで部屋の空気が外へと逃げる。軽くウェーブの掛かったセミロングがそれに従った。
「あの、その、上がってく?」
「いいの? じゃあちょっとだけ。 誰か来てたの?」
うろたえて上がり
「よう、姫」
姫、というのは所謂あだ名である。
実のところ、姫こと
数か月前、ひょんな事からこの部屋でばったり出くわした際も初対面を装った。あまつさえ、海潮に対して「弟さん?」などと尋ね、今のように動転した海潮が「そうだよ」と答えたが為に、この面子が揃った時、小生は海潮のかわいい実弟・夏月萩太郎へと変わらねばならなくなった。
「萩ちゃんだったんだ。こんにちは」
ニカリ、と笑って返事とした。
「えと、こんなのしかないけど良かったら」
「これ、冬至南瓜? 夏なのに」
「あ、うん。いつ食べても美味しいからね」
まるで恥ずかしい物を出したかのように、海潮の返事は尻つぼみになった。
小生があまりに美味しそうに食べるから油断したな、海潮よ。時期もそうだが、男子大学生が出すメニューとして、冬至南瓜は異質としか言えないのだよ。
「そうだよね、いつ食べても南瓜は美味しいもんね」
姫は苦笑いで答えていた。
海潮が麦茶を持ってきて、二人と一匹で落ち着いたところで、小生は徐に切り出した。
「で、姫はなんでここにいんのさ?」
「用事があって近くまで来たから、ちょっと海潮っちのところまで来ちゃった」
姫は、どこかくすぐったそうに答えた。小生の事を相手にしてはいるが、目に入っていないのはあからさまだった。
しかし、海潮の落ち着きのなさの方が気になってしまう。何を気にしているのかは知らないが、視線が泳ぐ程度の可愛い話ではない。その上、浴衣姿の上に座布団に座っているせいで、初高座に出てきて、あまつさえ喋る事を忘れてしまった前座の噺家のようになっている。
「ふうん。入れ違いにならなくて良かったね」
「入れ違い? あ、ひょっとして出掛けるところだったの?」
「いやいや、大した用事じゃなかったから気にしないで」
片や心底申し訳なさそうに。片や何も分からずにしどろもどろに。
大して関心がこちらに向かなくても一向に構わない程、二人の様子は見ていて面白かった。
「どこに行くつもりだったの?」
「えと、大学の図書館に行って、それから階縁堂に行って、本屋に寄ろうかと」
「本のあるところばっかりだな」
「ホントだ。ね、また何冊か借りてっていい?」
「もちろん」
「海潮っちの持ってる本は面白いのばっかりだからさ」
「そ、そうかな」
「うん、面白いよ。趣味が合うのかな」
「まあ、似たり寄ったりのだとは思うよ。二人して変なクラブに入ってるし」
「伝統芸能研究会だ。変呼ばわりするな」
合いの手を入れたつもりだったが叱責が飛んできた。姫は相変わらず微笑み交じりにふんわりしているが、こいつはコロコロと態度が定まらない。
「けど、変なクラブではあるよね」
「そうだよね。普通の人は中々興味持たないもんね」
ひょっとしたら人に化けたカメレオンか何かではないかと勘繰るほど、姫と小生とで声音が違う。ああ、オモシロい。
「ちょっとお手洗いに」
とうとう、場に耐えられなくなったのか、海潮は席を外した。
不意に姫と取り残されたので何とも言えない間があった。ベランダに取り付けられた風鈴の音が初めて耳に届いた。一階には風情な住人が住んでいるのだろう。
そして、姫は唐突に切り出す。
「私の事は黙っててくれてるんだね」
「そりゃあそうでしょう。言うなと言われたことを言ったりはしませんて」
返事はしたものの一瞬、何のことか分からなかった。
姫がそう言うのは『狐狸貂猫に通じている人間』という事情のことと、もう一つある。
それは、単に姫が海潮を好いているという恋の事情だ。
そして、小生は海潮からも同じく姫を好いている事を黙っていてくれと頼まれているのだから
正直、黙っているのは吝かではないのだが両名とも本当に隠す気があるのか疑問だ。ひょっとして、二人に巧妙に謀れているのではないかと、真剣に疑ったこともあった。しかしながら、当人たちは至って真面目に自分の恋慕の情に惑っている。
小生には恋心も、狐狸貂猫に関わっていることも黙っている理由が分からない。だから、
「ありがとう」などど感謝されてもくすぐったいだけだった。
「別にお礼を言われるような事はないでしょ」
海潮が戻ってくると、そろそろ出かけようかという次第になった。
「ねえ海潮っち。一緒に行きたいって言ったら迷惑かな?」
「め、迷惑だなんて思わないよ。あ、良かったらお昼でもどう? 奢るよ」
「ホントに? ありがとう」
えらく気前の良い事を抜かしやがったので、有難く乗っかることにした。
「ホントに? ありがとう」
「うぐ…分かったよ。お前にもご馳走するさ」
姫と同じ笑顔を向けたお蔭か、まんまともう一食にありつくことが出来た。
「ふふふ。ホントに弟思いのお兄さんだね」
「ああ、うん。まあね」
海潮は、そう言えばそういう設定だったのを思い出したように、まごついていた。
「ありがとう。お兄ちゃん」
「うるせ」
「じゃあ、早速出かける?」
「そうだね。じゃあ着替えを…」
そう言って海潮は、姫が目の前にいるのもお構いなしに浴衣を脱ぎだした。帯が解け、下着姿を丸出しにしたところで過ちに気が付いたようだ。
「……あ、ごめん。自分の家だったから、つい」
「ううん…大丈夫」
姫は顔を赤くし、それでも括目して海潮の着替えを見ていた。
海潮が慌てて台所へ逃げた後、嬉し恥ずかしそうに小生にすがるような目を向けてくるが、何もできることなどない。
いそいそと台所で着替えてきた海潮が戻って来る。姫は心なしか残念そうに見えた。
「浴衣似合ってるのになぁ」
「いやあ、浮くかなと思って。じゃあ行こうか」
冬至南瓜を食べたばかりだったが、昼食も奢って貰えるというのなら話は別だ。海潮は別の理由で浮足だっているが、財布の紐もその面と同じくらいに緩んでくれることに期待する。
元々かさ張る買い物と言う事で、海潮はバスで移動するつもりだったらしい。姫もこの後は予定がないという事で、バイクを置いてバスで買い物に繰り出すことになった。
小生が来たのと同じ道を辿ってバス停まで向かう。部屋であれだけ話していたのに、外に出た途端、二人とも終始無言になってしまった。
竜雲院の門を通り過ぎ、こじんまりとした文房具屋の前で姫の携帯が鳴った。画面に表示されているであろう名前を見た瞬間、姫の顔が一気に曇るのが見て取れた。
「もしもし……」
海潮は時間を持て余して、電話している姫を見ている。小生はどこ吹く風で文房具屋のショーウィンドウを眺めていた。
しばらくして電話が終わったが、姫の顔を見ればあまり良くない内容だったことはすぐに分かった。
「海潮っち、ごめん。家から頼みたい用事が出来たから、戻ってきてほしいって」
「そ、そうか。気にしないでよ。元々一人で行くつもりだったんだからさ」
「ホントにごめんね」
お互いに見ていて痛々しい程、シュンと萎れてしまっている。
「大丈夫だって」
こちらも痛々しさが伝わるくらい残念そうに笑っている。
「うん。今度絶対に埋め合わせするからさ。誘ってもいい?」
「もも、勿論。待ってる」
「うん」
姫はそう言うと海潮のアパートへと引き換えしていった。竜雲院の角を曲がり姫が見えなくなるのと、小生たちがバス停へと角を曲がったのはほとんど同じだった。
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