第37話 白い壁の謎

 瓜生さんの家から急いでセンターに戻った後は、走ると心臓に負荷が掛かる理人をたすきに任せて、陸だけが一足先に大部屋に駆け込んだ。


 そして、その直後に師長が見回りにやってきた。陸は汗だくのまま布団を被って寝たふりを決め込んだところ、師長は布団を頭側から少しめくって陸がいることを確認すると、何も言わず静かに大部屋を出ていった。


 陸は患者衣ではなく襷に借りた私服姿だった。あれ以上捲られていたら見つかっていたはずで、正直ぎりぎりセーフというか、かなり危ないところだった。


 こうして陸は、祭りの夜の外出を誰にも見つからないまま無事に終えたのだった。




 翌日。

  

「ちょっとチクッとしますよ」


 小さな採血室で、桜井さんが陸の腕に注射針を指した。

 

「もう手を開いていいですよ。……はい、お疲れ様でした」

 

 針が抜かれ、陸の左腕の内側に止血シールが貼られた。


「細胞提供って、ほんとにこれだけなんですね」

 

 桜井さんが陸の血液を試験管のような容器に移し、手際よく栓を押し込む。

 

「そうなんですよ。今日が1回目の採取で、この細胞の検査を数日かけて行います。予備として、念のため2回目の採取を27日に行って同じように検査し、問題なければ31日に元の時代に戻っていただけますよ」

 

 陸はカレンダーを見た。今日は8月22日だ。今日を含めてあと10日で、元の時代に帰る。


 来た時はあんなに帰りたかったのに、今はまだここに居たいような、複雑な気持ちだ。元いた時代の生活がなんだか遠く感じる。

 

「記憶削除も、31日ですか?」

 

 注射器などの片付けをしていた桜井さんが、手を止めた。

 

「そうです。……寂しいですよね」

 

 桜井さんの声は寄り添うような、こちらを気遣う優しいものだった。なるべく普通の声色で聞いたつもりだったが、そんなに寂しそうな様子だっただろうか。




 細胞採取が終わっても、陸は大部屋に戻らなかった。


 瓜生さんから聞いた「戦争」という言葉。

 昨夜、大部屋に襷や理人が戻って来るのを待ち、事情を聞こうと声を掛けたものの2人とも黙って首を振っただけだった。


 陸の負担にならないように、未来の事情を話さないよう配慮してくれているであろうことは理解できたが、陸は複雑な気持ちを消化しきれず、以降はなんとなく2人と話すことを避けている。

 ようやくしゅうの出自を突き止めたというのに、大部屋は気軽に話せる雰囲気ではなくなってしまっていた。


 少し外の空気を吸いたくなって、陸は1人でフローライドに乗り、広場に向かった。


 

 

 真夏の日差しは、圧力を感じるほどの熱をもって地面を焼く。むわっと蒸し暑い空気の中、陸は木陰のベンチに逃げ込むように腰掛けた。

 そして、池を行き交うカラフルなフロートをぼんやりと眺めながら思案する。

 

(白い壁、上野の謎、戦争……)

 

 どれも分からないことだらけだ。ため息をつき、患者衣の袖で汗を拭う。

 

(戦争で、上野が攻撃を受けた、とかかな。でも、だとしたら白い壁は何だろう)

 

 陸は振り返り、遠く林の向こうにある巨大な白い壁を見つめる。相変わらず、白い壁は異様な存在感を放ちながらそこにそびえている。

 

(壁の外で戦争をしている、とか……?)

 

 しかし、いくら壁が高いからといっても、上空ががら空きでは戦争の攻撃は防げないのではないだろうか。

 フローライドのような便利な乗り物があるくらいだから、戦闘機だってきっと進化しているだろう。これくらいの壁を越えられないとは思えない。

 それに壁の外で戦争をしていたら、さすがに何か音が聞こえそうな気もする。

 

 だとしたら、戦争はもう終わった後なのだろうか。毎日いい天気だし、大部屋の窓から見下ろすこの街は平和そのものに見えた。

 

「……だめだ、分かんないな。少し見に行ってみるか」

 

 陸は膝に手を置いて立ち上がり、フローライドに乗り込んだ。

 



「うーん……別になんもない壁だよなあ……」

 

 陸は白い壁に手を触れて見上げた。壁は日光に温められていて触ると熱いが、手触りは滑らかだ。その壁がどこまでも高く続き、雲がゆったりと壁の向こうへ流れて消えていく。

 

 陸は白い壁のゲートのすぐそばまで来ていた。そのゲートはやはり壁そのものに埋まり込んでいて、両開きの白いドア部分だけが壁から露出している。このゲートを出られれば壁の外の様子が分かると思うが、陸は当然出ることができない。

 

(そういえば……)

 

 陸はふと、以前ここに来た時に壁面を少量の水が伝っていたことを思い出した。壁に沿って歩いていく。

 

「確かこのあたり……あ。あった」

 

 今日は無いかもと思ったが、今日もごくわずかな水が壁を伝っていた。

 

「……壁の向こうが、水だったりして」

 

 陸は、壁の向こうがダムのように貯水池になっているところを想像してみた。

 

「いや。それだったら、わざわざ僕に隠す理由ないよな……」

 

 やっぱりただの雨水かも、と思い直し、陸は壁まわりの探索を諦めてフローライドを呼んだ。

 一生懸命考えたところでどうせ10日後には全部忘れてしまうのだと思うと、虚無感が心を支配しそうになる。

 

 陸は、襷が最初に借りてくれたフローライド004号をずっと使っていた。

 陸を迎えにきた青と紫のフローライドは、半月以上2人で乗り続けたので、車体の下の方がだんだん砂ぼこりで白く汚れてきていた。

 

「!」

 

『ちなみにフローライド、雨の日は自動で洗車するんだぜ』

 

 以前聞いた襷の台詞が、頭の中で響く。

 

 陸は気が付いた。

 陸が来てから今日まで、一度も雨が降っていない。

 

 ――あの壁の水は、一体何なんだ?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る