第36話 宙に浮いた戸籍

 美澄みすみは静かに涙を流していた。理人とたすきは俯いている。

 

「――そのすぐ後に椿は入院したの。朝綺あさきくんと椿のジーンツリーの表示保留申請をしたのは私よ。家庭内暴力から避難した場合の情報非開示は申請理由として認められるから、私が代わりに手続きして受理してもらったわ」

 

 そして朝綺くんは身元不明の孤児として、一時保護された川崎の乳児院で『川崎 柊』という名前をつけられ、後日、東京の児童養護施設へ移された。


 そこから先は児童養護施設の施設長から聞いた話とほぼ同じだった。

 容態の悪い椿さんに代わり、瓜生さんが施設にボランティアスタッフとして通い、朝綺くん――しゅうの様子を見てきて、病床の椿さんに伝え、少しでも元気を出してもらおうとしたらしい。

 

 しかしその努力も虚しく、数ヵ月の闘病の末、椿さんは帰らぬ人となった。柊が成人したらこれを渡してやってくれと、ジーンツリーデータの入ったペンダントを彼女に託して。

 

 その後も柊のことが気掛かりで、瓜生さんはボランティアスタッフを続け、大切な親友の息子の成長を見守り続けたという。

 瓜生さんが施設に通っていることが椿の夫にもし見つかったとしても、柊までは決してたどり着けないよう、柊の本当の名前は誰にも話さなかったそうだ。

 

 美澄が肩を震わせながら涙を流しているのを見て、隣に座る襷はなだめるように背中にそっと手を添えた。瓜生さんも美澄の隣に座ると、寄り添うように美澄の頭を撫でながら、ハンカチを差し出した。

 

「ごめんね、美澄。もう柊は亡くなってしまったけれど、誰かに話すのが怖かったの。どこかから情報が漏れて、柊の唯一の居場所だったあの施設に、椿の夫が土足で踏み込んでくるんじゃないかって……」

 

 美澄は受け取ったハンカチを目に押し当てる。

 

「ううん。そんな事情があるって知らなかったから……私こそごめんね」

 

 瓜生さんは美澄の背中を撫でながら、遠い目をして言う。

 

「……柊が亡くなってしまった時は、本当にショックだったわ。せめて椿と同じお墓に入ることができればよかったんだけど……椿のお墓は、例のでもう失われてしまっていたから」

 

 まだ赤ちゃんの栗山 朝綺の写真を眺めながら話を聞いていた陸は、びくりと反応する。

 

 え。

 今、何て言った?

  

「柊が亡くなった後の手続きについては、施設長に相談して私の方で引き受けたわ。柊は特別暫定戸籍を持っていて。朝綺くんの戸籍と2つある状態になってしまっていたから、統合する手続きをした上で死亡届を出すのが一番良かったのだけれど。柊の戸籍データはで一部が破損していたの。私は親族じゃないから、修復申請も統合申請も受理されなくて。結局、朝綺くんの分しか死亡届を出せなかった」


 瓜生さんは再び「戦争」という言葉を口にした。やはり聞き間違いではない。


 陸は話の内容が全然頭に入ってこなくなっていた。理人や襷の顔を盗み見るが、押し黙って陸と目を合わせない。

 

「柊という名前を名乗って生活していた男の子は確かにいたのに、戸籍上は生きているか死んでいるかも分からない存在にさせてしまった。戸籍の統合もできず、お墓も椿と一緒にしてやれず。柊のお骨は結局、無縁仏として自治体の管轄下に保管されているわ。……私は最後まで、椿と柊を親子に戻してあげることができなかったのよ」

 

 瓜生さんは哀しそうな目でジーンツリーの赤ん坊を眺め、やがてペンダントのボタンを押して投影している映像を消した。

 

「……これが私が知っているすべてよ。私も若いうちはお金がなかったけれど、今は仕事も一応軌道に乗っているから、柊が施設を出て行くところがなければ私が面倒を見ることも考えていたのだけれど。残念ながら、それも叶わなかったわ」

 

 一人暮らしにしては広い家。

 その大きなソファに座る瓜生さんが、寂しそうに呟いた。

 

 柊はやはり陸の子孫だった。

 しかし、陸は今それどころではなく、頭の中で代わる代わる疑問が湧いては渦巻いてぐちゃぐちゃだった。


 戦争。

 いつ、どこで?

 もう終わったの?

 ……もしかして、美澄さんが住んでいた上野は、戦争で何かがあった?


 それらを聞こうと陸が口を開きかけたその時、美澄が時計を見て声を上げた。

 

「あっ! 見て、もう20時15分だよ」

 

 陸たち4人が一斉に顔を上げ、表情に焦りが滲み出る。しまった。20時半には師長が大部屋に陸の様子を見に来てしまう。

 

「……あなたたち、そろそろ戻らないといけないのね」

 

 理人が申し訳なさそうに頭を下げる。

 

「すみません……。急に押し掛けたにも関わらず、話していただいてありがとうございました。柊のお骨の件については、俺から家族に相談して、俺の身内の方でなんとかならないか頑張ってみます。椿さんのお墓が失われている以上、椿さんと一緒にしてあげることはもうできませんが……俺も柊をこれ以上1人にさせたくありませんので」

 

 美澄が瓜生さんの手を取り、少し憔悴の見えるその瞳を見つめる。

 

「かずさん、ありがとう。柊のことを、ずっと見守ってくれてくれていたんだね。私も孤児だから、誰かが見守ってくれていることの有り難みがよく分かるの。柊は何も知らずに亡くなってしまったけど……かずさんの優しさは、きっと伝わっていたと思う」 

「ありがとう……私も、抱えていた荷物がやっと下ろせたような、寂しいような、不思議な気分よ。あなたたちに話せてよかったのかもしれない」

 

 どうしよう。

 時間が無さすぎて、戦争のことを聞くどころではなくなってしまった。


 そして陸たちは口々に御礼を言い、名残を惜しむように振り返りながら瓜生さんの家を出た。

 

「じゃあ……気を付けて」

 

 マンションから出ると、4人はセンターへの帰り道を急いだ。

 時間がない。とにかく早く戻らなくてはいけないので陸も何も聞かなかったが、なんとなく気まずさの漂う沈黙とともに、足早に病棟を目指した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る