第35話 母と子
椿は妊娠後期までそんな調子で、ずっと元気がなかった。
しかし2106年11月8日、ついに赤ちゃんが産まれた。男の子だった。
産後数日してから、フェイス通話で赤ちゃんを見せてもらうことができた。我が事のように嬉しく、思わず感極まってしまい私が泣くと、椿もつられて泣いた。
11月下旬、平日に休みが取れたのでお祝いを持って椿の新居に遊びに行った。土日は旦那さんがいるだろうし、邪魔したら悪いかなと平日を選んだ。
産後の身体に負担を掛けないよう、お祝いを渡したらすぐにお
その時、やはり顔色の優れない椿が、こう切り出した。
「……離婚しようと思うの」
驚いて理由を聞くと、夫の暴力に悩んでいるという。椿が袖を捲ると、青い痣や黒い内出血跡がたくさんあった。夫は結婚後、徐々に高圧的になっていき、やがて暴力を振るうようになったらしい。
実は、椿は妊娠中に難病に侵されていた。なんとか無事に出産することはできたが、職場復帰はできそうにないほど体調が悪かったらしい。
新生児を抱えた、働けない難病の母親。
椿にとって、夫と別れて生きていくのは極めて難しいことのように思われた。
椿も最初は、子どもとともに生きていくために離婚せずこのまま耐えようと、妊娠中は必死で夫の暴力からお腹を守って頑張っていたらしい。
しかし朝綺くんが産まれると、夫は生後間もない我が子にも容赦なく手を上げた。
「私に暴力を振るわれるのは、まだ我慢できた。けど、朝綺にまで手を上げられて、もうダメだって思ったの」
その日家に帰った私は、離婚後も椿と朝綺くんが生きていけるよう、ひとり親家庭向けの支援について必死で調べて椿に伝えた。
椿は片親で、お母さんは既に亡くなっていたから、椿が頼る相手は他にいなかった。幸い支援制度はいくつかあり、椿たちは生きていけるはずだった。
数日後、椿は夫に離婚を切り出した。夫は激昂して家中のものを投げたり蹴り壊してまわり、まともな話し合いにならず、結局最後まで離婚に応じなかった。椿は朝綺くんだけはと懸命に身を挺して守り、また痣を増やした。
翌日、椿は身の回りの最低限の物を持って、夫が仕事で不在の隙に家を出た。一旦は私が当時住んでいたアパートに匿い、区役所でひとり親家庭向けの支援申請を出した。
急に妻がいなくなったことで、椿の夫は親友である私を早々に疑ったらしい。連絡先を調べたのか、私のIDリングが着信し何度も繰り返し鳴ったが、私は出なかった。
ほどなくして支援の申請は通り、椿と朝綺くんは少し離れた街に安いアパートを見つけ、すぐに引っ越した。椿の夫には行き先も何も連絡しなかった。
しかし、椿は職場結婚だ。
不運なことに、夫は区役所で要職に就いていたのだ。
引っ越してすぐに、なんと引っ越し先のアパートに夫が現れた。家電の配送が来たと勘違いしてドアを開けてしまった椿が慌ててドアを閉めようとするも力づくで開け、家に戻れと罵声を浴びせて椿を殴り、家中のものを投げつけて壊し、部屋を荒らしたらしい。
椿が朝綺くんを守ろうと死に物狂いで警察に通報すると、警察が到着する前に夫は姿を消した。
どうやら夫は役所での職位を
「もうここにも住めない」と、泣きながら連絡をしてきた椿に、私はかける言葉がしばらく見つからなかった。
また私の家に泊まりに来ていいと伝えたが、椿は「次はかずちゃんの家を突き止めて家中を荒らすかもしれない。もう迷惑をかけられない」と言って断った。
椿たちはその日のうちにアパートを出て、どこかのホテルに数日滞在したらしい。その間に、住み込みで働ける仕事を探してすぐさま転がり込んだという。
椿は、今度は住まいを私にも知らせなかった。知らなければ、万が一夫が連絡してきても私がしつこく付きまとわれずに済むと思ったらしい。
椿が住み込みで働くことになったのは一家操業の小さな店らしかった。幸い大奥様が優しい人だったので、椿が子どもを背負って仕事をしても理解してくれたし、給料も日当にしてくれたそうだ。
住み込みゆえに日当は安いものだったが、椿はその給料を切り詰めて、朝綺くんのおむつや粉ミルクを買った。
役所の支援は、担当者からの連絡を無視したので既に打ち切られていた。区役所の担当者に夫の息が掛かっている可能性がある以上、そうする以外にどうしようもなかった。
しかしその
無理もない。妊娠中から暴力に耐え、産後まもなく赤ん坊を抱えて二度も引っ越しをし、昼夜なく朝綺くんのお世話をしながら住み込みで働いていたのだから。
ある夜、椿は泣き続ける朝綺くんを抱き、住宅街をふらふらと歩いていた。
難病の椿からは母乳が出ず、貧乏ゆえに充分なミルクを与えられていない朝綺くんはよく泣いた。住み込みの部屋の壁は薄い。泣き声でできるだけ迷惑を掛けないよう、外に出たのだ。
この頃既に椿の体調はかなり悪かったが、これ以上迷惑を掛けてここにも住めなくなるような事態は避けたかった。
赤子を抱えたまま夜の商店街に差し掛かると、おもちゃ屋さんのショーケースに幼い少年が貼り付いているのが目に入った。
少年は隣の母親にきらきらした眼差しを向けて言う。「ねえ、今日はサンタさん来るんでしょう? どんなおもちゃもらえるかなあ! パパがお仕事から帰ってきたら、ケーキに、チキンに、ピザに、お祝いのごちそうもたーっくさん! だよね?」
母親は笑顔で頷くと、楽しそうに話しながら少年の手を引いて歩いて行った。
今日はクリスマスイブだった。気付いたら椿は泣いていた。
気付いてしまったのだ。命よりも大切な我が子に、そんな幸せなクリスマスを味わわせることが、できないであろうことに。
椿は住み込みの部屋に戻ると、切り詰めて使っていたなけなしのミルクを朝綺くんにお腹いっぱいに飲ませ、持っている中で一番きれいな毛布で朝綺くんを大切に包んだ。
せめて我が子のために手紙を書こうとして、やめた。名前も身元も、分かるような物を持たせてはいけない。そんなことをしたら、この子が夫に居場所を突き止められてしまうかもしれない。
そして泣きながら、朝綺くんを抱いて家を出た。
日付が0時を回った、クリスマスの深夜。
乳児院の夜勤スタッフがドアのノック音に気付いて玄関を開けると、施設の玄関ポーチの前に、ボロボロの毛布に大切に包まれた男の子の赤ちゃんが置き去られていた。
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