4-2




 掃除は寮生の手によって毎日なされているはずだ。

 でもすぐにあちこち煤けてザラつく。

 蝋燭と潮風のせいだ。

 このふたつの汚れは落ちにくい。

 風には常に煤と潮のにおいが混ざっている。

 夜には寮のある丘の上まで波の音が届く。

 防災無線から流れる、夕刻を告げる歪んだ音楽。

「ゆううううるるるるええええ」

「あああまのうううれらろろろ」

 海水に浸った家屋が朽ちて倒壊する音も聞こえる。

「ズシャズシャ」「ズシン」「ドボボン」

 人は少なくなったけれど静かになるということはない。

 世界は世界が少しずつ削がれていく音で満ちている。

 だったら、女の声くらい、聞こえたって不思議じゃないだろう?


 きゃあ――……ははは……


 ハッと目が覚める。

 勉強机の上に伏せて寝ていた。冬休みの宿題をしていたら睡魔に襲われ、抗いきれず、ちょっとだけ、と目を閉じたのだ。ちょっとだけ、のつもりだったが、うっかり、かなり寝てしまったようだ。部屋の中は真っ暗だった。もう停電時間に入っているのだ。

 変な夢を見た気がする。内容は思い出せないけれど。

 でもうたた寝とはそういうものだろう。

 百円ライターを取り出し蝋燭をつけると時計も見えたのだが、もう間もなく就寝時間に入ってしまうという頃合だった。本当に、寝すぎてしまった。榊がいないからってさっそく気が緩んでいるのだろうか? 危なかった。上島は慌てて1210号室を出た。


 改めて1111号室を覗いたが、やはり、綾彦の姿はなかった。

 変な汗が滲むのを感じながら、数時間前そうしたように、もう一度、綾彦の行きそうなところを見て回る。

 こういうとき、榊がいてくれたら、相談できるし一緒にさがしてもらえるのに……

 なんて言っても仕方ない。

 いないものはいないのだ。

 空き室と共用部分を中心に、しつこいくらい見て回る。どこかの居室に邪魔しているのかも、と思ったが、もしそうだったらその居室のやつが上島に一声かけてくれるはずだ。だから、さがすといっても場所は限られてくる。

 が、やはり、綾彦の姿を見つけることはできなかった。

 そうこうしているあいだに、二十三時になってしまう。

 いやな予感が、はっきりと形を持ち始める。


 綾彦が、消えた。


 ……いや、違う。と、ぶんぶんかぶりを振る。

 消えたと決めつけるのはまだ早すぎる。寮の中しかさがしていないのだから。

 もしかしたら、外に、出たのかもしれない。

 夜間の外出は寮則で厳しく禁止されている。バレたときの罰も重い。「自室以外での就寝禁止」をはじめとして形骸化している寮則はいっぱいあるが、これは別格だった。事が寮内で収まらなくなるような行為は、特に警戒されるのだ。

 でも、行くしかない。

 上島は一旦1210号室へ戻り、上着と懐中電灯を手にすると玄関へ向かった。

 この時間に、いかにも今から外出しますという格好で、懐中電灯をつけるわけにはいかないから――蝋燭が主流の寮内では、懐中電灯のはっきり直進する光は、すごく目立つのだ――真っ暗な中を手さぐりで歩くことになる。二年弱、毎日のように歩いている廊下だから、玄関まで行くことは難しくないけれど。

 幸い、誰にも会うことなく、辿り着くことができた。

 ホッとしつつ、下駄箱から靴を取り出す。

「上島くん」

 悲鳴を上げこそしなかったが、内心飛び上がりながら、振り返る。

 玄関の隅、真っ暗な中、傘立てと並ぶようにして突っ立っている者がいる。

 上島は目を細めた。暗さに慣れつつある目で、どうにかその姿を見定める。

「……百合田?」

 小柄な体格に、中学校時代のものらしき垢抜けないジャージの上下。

 なぜここに。まさか、ついてきたのか?

 いつから? どこから? なぜ?

「どこ行くんですか」

「……見逃してくれ。綾彦をさがしに行く。部屋にもどこにもいないんだ」

 すると百合田は黙った。

 百合田が何を考えているのか、わからない。次に何をするのかも。

 不自然に長い沈黙に、上島がいよいよ耐えかねた頃。

「上島くん」

「なんだよ」

「やっぱり変な音がするんです」

 ぞく、と背筋がざわめいた。

 まだ言ってんのか、それ。

 やめてくれよ、もう、勘弁してくれ……

 動揺を悟られないよう、なんでもないふうに言う。

「また音の話? もう、気にすんなよ。どうせまたどっかちょっと開いてるんだろ。榊さんも言ってたろ、あれは……」

「違うんです」

 百合田は上島の言葉を遮るように言った。

 これに上島は少しムッとした。「何が違うんだよ」

「榊先輩はああ言ったけど、違うんです。やっぱり、隙間風なんかじゃない。それとはまた別のものなんです」

「はあ?」

「内からの音じゃない」

「?」

「外から聞こえるんです」

「……外?」

「榊先輩の説が真相であるなら、あの音は寮の建物内で生じてるということになりますよね。でも、違うんです。僕が聞こえてる音は、内部からのものなんかじゃない。外から聞こえるんです。榊先輩が、あの夜、真相らしきものを提示して、みんなもそれに納得してしまって、この話はこれで終わり、みたいな空気になってしまったから、僕も言うに言えなくなってしまったんですが、僕はあれは違うとずっと思ってました。だってあの夜から今夜までずっと音は聞こえ続けてるんですから」

「……」

「窓をいくら閉めようがあの音は止みません。それに、よく聞いてるとわかるんですが、あの音はやはり外から聞こえるんです。寮の内部から発せられてる音なんかじゃないんです、絶対に。寮の外から、僕を……」

「そんなに自分の部屋が嫌なら他で寝りゃいいだろ」

 放っておいたらいつまでもしゃべり続けていそうな百合田の言葉を、遮り返して、上島は吐き捨てるように言った。

 かなりイラつき始めていた。

 こんなことをしている場合ではないのに。

 綾彦をさがしに行かなくてはいけないのに。

 しかしそんな上島の焦りにまったく気づかない様子の百合田。

「他って?」

「空き部屋なんかいっぱいあるだろって。好きなところで寝ろよ。誰も文句言わねえし」

「あの、あのね、音は外から聞こえるんだって言ったじゃないですか。部屋を変えても解決にはなりませんよ。僕の話聞いてなかったんですか? あの音は外から聞こえるんです」

 会話できている気がしない。

 思わず声や態度に不快感が滲んでしまう。

「ああ、そう。だから?……ていうか、ごめん、今、それどころじゃないから」

「外に行くんですか?」

 もう、返事もせず振り返りもせず、無言で靴を履いた。誰かにチクりたきゃチクればいい。

 すると、その隣で百合田も靴を取り出し、履いたのだった。

「僕も行きます」

「はあ?」

「さがしに行きます、音の正体を」

 反射的に「ついてくんな」と思った。が、その一言は呑みこんだ。

 来るな、と言ったところで、聞き入れる百合田ではない。

 これ以上、騒がれたくもない。すでに時間を大きくロスしてしまっているし。

 好きにしろよ、と投げやりになりながら、玄関の鍵を開けて外に出た。

 ドアの向こうに広がっているのは、気が遠くなるほど黒い世界。


「〈魔女〉の歌は〈罪を犯した男〉にしか聞こえないんですよね。じゃあ、夜の町をフラフラ歩いてる男が、〈魔女〉の歌におびき寄せられてるかどうかなんて、罪を犯したことのない善良な第三者にはわからないじゃないですか」

 百合田はひとりで延々としゃべっていた。

 上島はかなり初期の段階で相づちすら打たなくなっていたのだが、百合田は一向に気にする様子はなく、ということは、これは実質、独り言なのだろう。

 百合田の声は発するそばから夜の闇に呑まれていく。

「そもそも、なんですか、〈罪を犯した男〉って? 罪ってどの程度のことを言ってるんですか? 罪の基準はなんですか?」

 電気が止められた町は、もちろん街灯も死んでいて、圧倒的な暗さに覆われている。

 それでも、明かりがまったくない、何も見えない、というわけではない。

 この町もまだ無人ではないから、人が活動しているところには、明かりが灯っている。

 ところどころ、ちらほら、ほんのり明るい窓がある。

 でも、それらはいずれも、この闇の中では、ふとした弾みで見失ってしまいそうな、実に頼りない、何も照らすことのできない、弱々しいものだった。

 縋ることができるのは、自分の手の中にある懐中電灯の光一筋だけ。

「僕は立ちションしたことあるけど、それも罪になるんですか? 上島くんも、立ちションくらいありますよね? 立ちションはれっきとした犯罪なんですよ。〈魔女〉は立ちションした男を引きずりこむんですか?」

 混乱期以降、夜の暗さには慣れているつもりだった。でもこれは寮内で感じる暗さとは桁が違う。どこまで行っても暗い、どう足掻いても暗い。重々しくて、息苦しくて、深海にでもいるような気分になってくる。

 溺れそうだ。

 怖い……

 百合田がついてきたのは、もしかしたら、不運なことではなかったのかもしれない。あるいは、上島は、百合田がついてきているからこそ、すごすご引き下がれるかよ、と意地になって、まだ歩けているのかもしれない。ひとりだったら、もう寮へとんぼ帰りしていたかもしれない。

 だって、ここを、ひとりで、歩けるだろうか。

 闇に包まれたこの町を。

 綾彦をさがす、それだけのために……

 上島は、ともすれば後悔しそうになっている自分に気づいていた。

 後悔なんて、したくないのに。

 なんでこんな目に遭わなきゃいけないんだ、という方向に考えてしまいそうだ。

 そんなふうに、考えたくないのに。

 ……早く、綾彦を、見つけなくては。

「大体なんで〈魔女〉にはその人間が罪を犯したってわかるんですか? ずっと見張ってるんですか? いろいろ説明がつきませんよ。こんなだったらサンタクロースのほうがまだ合理的な存在です。本当にバカバカしい話です」

 百合田は怖くないのだろうか。

 改めて見ると、百合田はこの数週間でずいぶんやつれたようだった。以前は福々しい丸顔だったのが、尖った印象になってしまった。さらによく見ると、目の縁には隈ができている。

 眠れていないのだろうか。

「だからって誤解しないでほしいんですけど、僕は〈魔女〉を信じてるわけではないんです」

 上島は、はあ、と溜め息をついた。

 顔の周りが白く煙る。

 寒い夜だ。マフラーも持ってくればよかった。首元が冷える。上着の襟元をかき合わせた。海が近いせいか、風も強い。そういえば、このあたりまで来ればそろそろ海が見えてくるはずだ。しかし上島は海のほうに懐中電灯を向けなかった。それは、なんだか、見てはいけないもののような気がしたのだ。

 目を上に向ければ、冬の星座が晴れ晴れと見える。

 地上が暗いおかげで、塵みたいに細かい星も、よく見えた。

 だが、これを「綺麗だ」と思える余裕は、今はない。

「そういうのじゃないんですよね。なんていうんですか……ただ、仮に存在するものとして話を進めると、ということは、あの歌声を〈魔女〉と認めてしまったら、僕は、自分で自分に罪があるって認めることになりませんか?」

「ん?」

 上島は足を止めた。

 百合田の話に反応したのではない。道端の、自動販売機のわきにぶら下げられているものに、目が留まったのだ。

 看板だ。

 いつだったか小吉と追いかけた、あの謎の看板。

 バタ、バタ、と風に揺れている。

 他のどの看板もそうであったように、A4サイズで、薄いベニヤ板に穴を開け、ビニール紐を通してある。カクカクした筆跡で〈↑57〉と書かれているのだが、その矢印と数字が、闇の中、ぼんやり発光していた。

 懐中電灯の明かりで霞んでしまうような本当に微々たる発光だけれど、どこまでも暗い町の中では、それはとても目立った。

「……蛍光塗料?」

 そんなものまで使っているとは、意外と凝ってるな、あのおばさん。

 小吉と見て回ったときは、まだ明るい時分だったこともあり、気づかなかった。

 どうでもいいけど。

「なんだあれ!」

 背後で急に大きい声を出され、思わずビクッと飛び上がった。

 抗議するように百合田を睨むが、百合田のほうが上島なんか眼中にない。

 百合田は、斜め上四十五度あたりを――空でもなく、海でもない、実に半端な角度を――目も口もぽかんと開けて、見ていた。そのうつろな顔は、ラウンジで突然「しんりせんぱい!」と叫んだ綾彦を思い出させた。それ以降、一言もしゃべらなくなった綾彦……

「見て、見てください、あれ」

 百合田が指すほうを、つられて見る。

 最初は、わからなかった。

 そこに広がっているのは星の瞬く夜空だけで、わざわざ注視すべきものなど何もないように思えた。百合田がまたありもしないものをあると騒いでいるのか……と、呆れさえした。

 しかし。

 それに気づいたとき、我知らず「なんだあれ」と呟いていた。

 ピカピカ冴える冬の星が、一瞬、遮られて消える――ものすごく早く流れる雲に似ている。が、雲ではない。雲なんかよりもっともっと低いところ、海面に近いところを、何か、黒く大きなものが、渦巻いている。

 煙、だろうか。いや、煙なら、この風の中では吹き散らされてしまうはず。それに、ただの煙は、あんなふうに、まるでアメーバのように、ぐにゃぐにゃと形を変えたりはしない。飛行機雲のように細くなったかと思えば、空を覆うかのように広がって、その状態で、空を滑るように移動したりは、しない、はずだ。

「き、聞こえる」

 百合田が震える声で呟いた。

 黒い飛行物体に目を奪われていた上島はその一言で我に返った。

「え?」

「聞こえる」

 何が、という疑問は呑みこんだ。

 上島にも、聞こえたから。


 きゃあ――……るるる……

 きゃあ――ああ……ららら……


 なんの音だ、これは。

 これは、まるで、女の悲鳴みたいな……歌みたいな……

「〈魔女〉だ」

 上島はハッと息を呑んで百合田を見た。

 懐中電灯の光の中、百合田の顔は、紙のように白くなっていた。

「やっぱり、いたんだ」

 まさか。

 そんなバカな。

「〈魔女〉だ、やっぱりいたんだ、〈魔女〉……やっぱり僕は誘われてる、海に引きずりこまれる……」

 わあああ!

 百合田は絶叫するや身を翻し、脱兎の如く駆けだした。

 気づけば上島も駆けだしていた。今ここにたったひとりで取り残されることは、この上なく恐ろしいことのように思えた。たとえそれが百合田であっても、動いてしゃべっているものから離れたくなかった。綾彦のことはもう頭から吹っ飛んでいた。


 きゃあ――ららら……

 るるる……きゃあ――……ららら……


〈あれ〉が後ろから追いかけてくるような気がする。必死で走った。

 寮に飛びこみ、暗く静かな廊下を駆け抜ける。もう誰に気づかれたって構わない。

 いつの間にか百合田の姿は見えなくなっている。自分の足音だけが響く。


 ……どうして。

 どうしてこんなに怖いんだろう。

 いつからこの世界はこんなにも怖いものでいっぱいになってしまったのだろう。

「怖い」ということは「わからない」ということ。

 この世界はわからないことだらけだ。

 誰も正確な答えを示してはくれない……


 誰もいない1210号室に飛びこみ、上着も脱がないままベッドにもぐりこんで、世界を遮断するようにカーテンを閉めた。

 自分のテリトリーに収まれば、居ても立ってもいられなくなるような恐怖は消えた。でも、息は上がり、心臓が痛いほどに高鳴っている。それなのに手足の先がひどく冷たい。まるで悪い夢を見た直後のようだ。

 今さらのように百合田の言葉が耳に甦る。

〈魔女〉の歌は〈罪を犯した男〉にしか聞こえないんですよね。じゃあ、夜の町をフラフラ歩いてる男が、〈魔女〉の歌におびき寄せられてるかどうかなんて、罪を犯したことのない善良な第三者にはわからないじゃないですか。

 歌が聞こえた。なら僕も〈罪を犯した男〉なのだろうか。罪状はなんだ?

 僕も海に引きずりこまれるのだろうか。あの真っ黒い海に。夜の中に。そんなバカな。

 僕が知らなかっただけで、実は、世界にはそういうルールがあるのだろうか?

 いつからそうなった? 海面が上がり始めてから?

 いや、そのために海面は上がっているのか?

 罪を犯した人間を引きずりこむために?……

 疲れきって眠りに落ちるまで、上島はそんなことをぐるぐる、ぐるぐると考えていた。


 そして、もう、気づいていた。

 綾彦が書き殴っていた黒いもやもやは、〈あれ〉だ。

 綾彦も〈あれ〉を見たのだ。〈あれ〉の歌を、聞いたのだ。

 では、綾彦もまた〈罪を犯した男〉なのだろうか?

 綾彦は海へ引きずりこまれてしまったのだろうか?

 だからもうここにはいないのだろうか?

 綾彦の、罪は、なんだ?



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