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両親には「帰ってこなくていい」と言われている。
別に、嫌われているわけでも、捨てられたわけでもない。
「おまえの人生なのだからおまえの自由にすればいい」という意味だ。今後、学校という枠組みから解き放たれたとしても、バカ正直に実家に帰ってくる必要はない、と。家族にも世間体にも常識にも縛られることなく、どこでも行きたいところへ行き、自由に生きればいい、と。そういう意味だ。
少なくないお金もすでに受け取っている。
大学進学だのなんだの、とにかく息子の将来に備えて貯めていてくれたお金だそうだ。
ある日、印鑑とセットで通帳が送られてきた。
受け取ったとき「荷物とか普通に届くようになったんだ」と、ひどく感心したから、その日のことは、よく覚えている――「こんな世の中になってしまったのに金なんて価値あるのかな」と、冷めた気持ちになったことも、よく覚えている、が――ないよりはあったほうがいいものであるのは間違いないから、鍵のかかる抽斗に大事にしまいこんだ。
このとき添えられていた手紙によれば、父と母もまた「各々の人生を自由に生きることにした」という。離婚こそしなかったけれど、ふたりはもう一緒にはいない。息子に勧めたそのまま、各自が理想と思えるような人生を送ることのできる場所へ行ってしまった。夫婦であっても「ふたりでいること」がイコール「理想の人生」になるとは限らないのだ、と体現してみせながら。
混乱期を経て、いずれもたらされる自分の死と他人の死、その瞬間を、常に意識するようになった人々は、主に、二種類に分かれた。
いま自分が持っているものを「維持する」か「捨てる」か。
前者は「以前」とほとんど変わらない生活をしているだろう――いや、「以前」よりもずっと身近な人々を大切にし、普通でいられる幸福を一日一日噛み締めながら、日常生活を送っているのではないだろうか。
もちろんそんな前向きな者ばかりではない。
「大切にする」なんて開き直りでしかない、そこまで割り切れない、だからといって死ぬのも怖い、他にしたいことも行きたいところもないから、以前のままの日常をダラダラと維持している――そういう者も多いはずだ。
一方、後者は「普通」を否定し、日常生活に背を向けた。人間関係や経済状況といった様々なしがらみを振り切って、これまでやりたくてもできなかったあれやこれやを、もはや人が変わったように追い求め、新しい世界へ飛びこんでいった。
自殺や失踪などもこちらに含まれるだろう。
どちらが正しいということはない。どちらを選ぶかは、人それぞれだ。誰がどういう道を選んだとしても、誰も文句を言えない。たとえ家族でも。なぜならこれは「どう生きるか」ではなく「どう死ぬか」の選択であって、死ぬということはきわめて個人的な問題だから。
誰かが声高に主張するわけでもなかったけれど、混乱期を経て、海面を見つめるだけになってしまった人々は、自ずとそれを悟ってしまった。
老若男女、関係なく。
・
「じゃ、行くから」
「はい」
「俺がいないからって好き勝手すんなよ」
「わかってますって。はよ行け」
榊が帰省することになった。
榊の両親は、混乱期、新興カルト教団が開催した自殺集会とやらで亡くなっているので、帰省先は祖父母のところだ。遠方に住んでいることもあり、次いつ帰省できるかわからないので、思い切って、今回の帰省を決めたらしい。
「ホントはちょっと気が重いんだけどな。ばあちゃん、電話するといつもすげー泣くんだもん。俺の姿を目の当たりにしたらどうなるんだか。離してもらえなくなったりして」
「え、帰ってきてくださいよ」
「帰る帰る。卒業証書は欲しいからな」
そう言って榊は荷物を詰めたショルダーバッグを手に取り、1210号室を出て行った。
今日から冬休みだ。
「どこ行ったんだ、あのやろ」
三号棟、3103号室をノックしたが返事がない。
ドアを少し開けて中を確認してみたのだが、やはり住人はいなかった。
中央棟へ足を向ける。
心当たりがあったわけではない。ただ、寮生の習性として、自室にいないのであれば、どこかの居室に邪魔している、もしくは、共用部分の多い中央棟のどこかにいる、というのが大体のパターンなのだ。
三号棟は、静かだった。
全然ひと気がない。
帰省できる者たちが帰省しきってしまうから、輪をかけてひと気がなくなっているというのも、あるのだろうけれど、それでも本当に、怖くなるくらい静かだった。
まだ光生寮に住み続けている者のうち、三割ほどは「保護者がいない者」。
あとの七割のうち半分くらいは「保護者はいる、けど、あてにならない者」。
つまり「帰るところのない者」だ。
そして、残りは、「帰るところはあるけれど、けじめとして、とりあえず修了式までは留まるつもりの者」だ。前二者より少し選択の幅がある者たち。榊なんかはここに入るだろう。
だから、年末年始が差し迫っても寮に残っているのは「帰るところのない者」だ。
上島もまた「帰るところのない者」だ。
もしかして、小吉も帰省したのだろうか。
そんなこと、一言も言っていなかったけれど。
しかし、高らかに宣言して帰省する者などいないことも確かだ。
「帰るところのない者」に気を遣ってしまうので。
小吉が何も言わず帰省してしまったのだとしても、あまり驚かない。
ただ、彼には、数学のノートを貸したままなのだ。
小吉はろくに勉強しない。でも(いや、ゆえに?)ノートは借りたがる。
提出物に厳しい教師がいまだにいるのだ。この期に及んで学校に残り授業を続け宿題を課すような教師の中には、本気で生徒のためを思っているからこそなのか、ただ己の信念を貫こうとしているだけなのか、よくわからないこだわりを持つ者も多い。
上島は、ひとり、三号棟の廊下を歩いた。
あまり立ち入ることがないので、いろいろ物珍しい。
つい、きょろきょろしてしまう。
光生寮の「中央棟」と「一号棟」は、ミナ高創立当時から存在するので、かなり古く、造りから何から時代がかっているが、「二号棟」「三号棟」は後の時代にぼちぼち建て増しされたため少々趣が異なる。設備に差が出ないように配慮されてはいるが、一号棟の住人は三号棟に足を踏み入れるたび「こっちはなんか新しい」「別の寮みたい」などとこぼしてしまう……ということが、お約束になっていた。一番新しい三号棟だって、建てられてもうずいぶん経つのだから、「新しい」ということはないのだけれど。
でも、窓のサッシや錠なんか、やはりこっちのほうが現代っぽくて、使いやすそうだ。
錆も全然浮いてないし……
上島は何気なく窓に顔を近づけ、そのガラス越しに、目が合った。
ガラス一枚挟んだ向こうに、女がひとり、立っていた。
熱いものに触れたかのように素早く身を引き、廊下の端まで後ずさる。
その暗い目つきに思わず怯んでしまったけれど、よくよく見れば、窓の外に立っているのは、あの、看板おばさんだった――出会ったときと同じように、色褪せたワンピースの上に、分厚い毛糸のショールを巻きつけていた――いや、正体がわかれば一安心というものでもない。上島はさらに寒気を覚えた。
なぜこんなところに。寮の敷地内なのに。
無断で入ってきたのか。なぜ。
誰かに知らせるべきか。
ほんの一瞬のうちに様々なことを考えたけれど体は緊張のあまり硬直していた。そんな上島から目を離さないまま、看板おばさんが口をパクパク動かした。
何かを伝えようとしている。上島は看板おばさんの唇の動きを見つめた。
歯形の瘡蓋がいくつも浮いてささくれだった、痛々しい唇を。
看板おばさんは、なにやら、同じ事を繰り返しているようだった。
そこに浮かぶ言葉を、なんとか、読み取ろうとする――
「こらっ!」
突然の大声に、看板おばさんだけでなく上島も飛び上がった。
姿は見えないが、これは、庭師のおじさんの声だ。
「そこで何やってるんですか!」
いつもおっとり微笑んでいるあのおじさんからは想像できないような、太い怒鳴り声だった。寮生のために本気で怒ってくれているのだ。看板おばさんは、天敵と鉢合わせした野生動物さながらの機敏さで立ち去った。
その場には上島だけが取り残された。まるで何事もなかったかのように。
静まり返った廊下で、看板おばさんが言った言葉、その意味を、考えた。
くる
くる
くる
またつれていかれる
・
夜、上島はひとりで食堂に入った。
普段より人が減っていることもあり、広い食堂に寮生の姿はまばらだった。
今夜のメインディッシュは鮭のシチューだ。おかわり可。
年末年始はさすがにモサ子も休暇を取るが、それ以外は、学期中と変わりない、どころか、学校内の食堂が閉まっているからということで、昼食も、簡単なものだけれど作ってくれることになっている。非常にありがたい。
モサ子はそれでいいのだろうか、と思うこともあるけれど。
いなくなられたら困るのは寮生なので、そのあたりには誰も触れない。
今日もおいしく食事を済ませ、おかわりまで済ませて、食堂を出て行こうとしたとき。
「上島」
低い声に呼び止められた。モサ子だ。
ちょっとビビリながら「はい」と足を止める。
モサ子はカウンターに肘をついて身を乗り出していた。
「綾彦どうした」
「綾彦?」
「夕飯来てねえし、ついでに言うと昼飯も来てねえけど、大丈夫か」
1111号室を覗いてみたけれど、綾彦の姿はなかった。
暗い部屋の中、床に紙が一枚だけ落ちていた。
拾ってみる。
殴り書きのような、走り書きのような、もやもやした描線の重なり。
木多嶋が怯えたあの絵だ。
綾彦がいつも抱えているクロッキー帳から落ちたのだろう。
この絵は、なんなのだろう。
というか、これは絵なのだろうか。とても絵には見えないけれど。あるいは、試し書きの跡とかだろうか。むしろ、そうであってほしいと思う。だって、これを絵として描いているのだとしたら、ちょっと……
これ以上考えると怖くなるので――綾彦のことがまたわからなくなりそうなので――やめた。
紙を勉強机に置いて、1111号室を出た。
廊下を歩きながら、綾彦の声を最後に聞いたのはいつだったかな、と思い出してみる。
あれは……
たしか、梅雨時のことだった。
半袖を着るやつが増え始めていて、雨がじめじめ降っていた。
夕食後のラウンジで、数人でアマランサスをしていた。誰がいたかまでは覚えていない。そのへんにいたやつにてきとうに声をかけて、集まってきた面子でやっていたような気がする。綾彦は、参加こそしなかったけれど、近くに座ってアマランサスを見ていた。当時の綾彦はまだ今ほど閉じてはいなくて、ちょっと気力が失せている、くらいの状態だったから、上島も「周りにつられて元気になってくんないかな」程度の軽い考えで、人の多いところに連れ出していた。そのうち「俺も混ぜて」とか言いだしてくれればもっといいな、とも思っていた。いずれそうなるだろう、とも、思っていた。
そうして、上島たちのアマランサスが盛り上がってきた頃。
綾彦は、突然、椅子を蹴って立ち上がった。
なんの前触れもなかった。
あるいは、もしかしたら前触れはあったのかもしれないが、上島には感知できなかった。
棒立ちになった綾彦は、大きく開いた目で窓らへんを見つめながら、叫んだ。
「しんりせんぱい!」
ラウンジが凍りついたのを、よく覚えている。
そして綾彦はいきなりラウンジから走り去った。
あっという間のことだった。
綾彦の足音が遠くなり、やがて何も聞こえなくなった頃、将棋を指していた者は盤に向き直り、テレビを観ていた者たちは画面に目を戻し、上島たちはアマランサスを再開した。何事もなかったかのように。
混乱期以降、綾彦のような者は、珍しくなかった。突然正体を失ってどこかへ走り去ったり、今ここにいるはずのない人の名前を叫びだしたり、そういうことも、珍しくはなかった――そりゃ、「新理先輩」の名にギョッとさせられはしたが、それにしたって、珍しくはなかったのだ――ひどいやつは、もっとひどかったから。幼児退行してしまったり、誰彼構わず殴りかかったり、刃物を持ち出して自傷したり……そんな中では、綾彦の奇行は可愛いものだった。
しかし、それ以降、綾彦の状態は目に見えて悪化した。
しゃべらなくなったし、部屋に閉じこもって絵ばかり描くようになった。
綾彦の最後の声を聞いたのはあのときだ。
最後の言葉は「新理先輩」だ。
いまだ語り継がれる伝説の寮長、新理先輩。
誰よりも優しく誰よりも冷静で誰よりも頼りになった。
度胸も知性もリーダーシップも持ち合わせていた。
いかにもリーダーという迫力のある外見ではなく、物腰柔らかくいつも笑っていて、後輩からも話しかけやすい人だった。
人望厚く、みんなの憧れで、みんなの尊敬を一身に集めていて……
そんな新理先輩のおかげで、この寮は混乱期を乗り越えることができたのだ。
彼が混乱期にリーダーだったことは、光生寮にとって不幸中の幸いだった。彼がいなかったら、この寮は今頃どんな惨状を晒していたことか。
あんな人はもう現れない。寮生はみんな口を揃えてそう言うだろう。
そんな新理先輩は、自分の居室の、自分のベッドで、眠るように死んでいた。
まだまだ寒い三月、卒業式の少し前のこと。
当時一年生だった綾彦は、新理先輩と同じ掃除の班で、その日は朝から共用部分の掃除だったから他のみんなより早起きで、でも新理先輩がなかなか起きてこないから居室まで様子を見に行って――つまり、新理先輩の遺体の第一発見者だった。
新理先輩の遺体を目にしたその日から、綾彦の心の具合はおかしくなったのだ。
心当たりを回って見てみたけれど、綾彦は発見できなかった。
じわり、と、いやな予感が滲む。
どこに行ったのだろう。
こんなことは、初めてだ……
でも、あまり心配することもないのかもしれない。単に、上島が思いつかないようなところに行っているだけかもしれない。綾彦がふらっとどこかに行ってしまうこと自体は、珍しいことではない。今回はそれがちょっと長引いているだけかも。過保護なのもよくないだろう。もう少し、様子を見よう。
とりあえず、1210号室に戻る。
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