3-3




 というわけで、足音高い百合田と共に、三人は1203号室に入った。

 当の百合田は、左足だけ部屋に入れ、右足は廊下に残し、ドアの隙間に挟まるような半端な状態で立っていた。自分の部屋に入るのが、怖いのだろう。

 上島と小吉、そして榊は、部屋の真ん中あたりに立ち尽くし、天井やら壁やらを見るでもなく見ながら、口を閉じた。とにかく、耳を澄ませる。

 が。

「……なんも聞こえない」と、小吉は上島を見た。

 上島は頷いた。「聞こえねえな」

 光生寮一号棟は静寂に包まれている。

 時折、どこかから、大声や笑い声が聞こえてきたりはする。しかしそれは一瞬のことだし、明らかに寮生のものだとわかる。

 若い男しかいないからといって、毎日毎晩バカ騒ぎしているわけではない。「夜間は静粛に」という寮則があることを差し引いても、夜になり、停電時間帯もしくは就寝時間になれば、大抵は静かになった。

 一号棟は、古い建物ながら、壁はかなり厚い。音の感じ方は人それぞれで違うものだけれど、少なくとも上島は、二年弱の寮生活の中で、隣や周辺の居室の物音が気になったことはなかった。

 やっぱり、光生寮一号棟は静寂に包まれている。どれだけ耳を澄ませてみても。

 昨日一昨日と同じだ。何も聞こえやしない。

「なあ、俺、帰っていい?」

 と言いだしたのは、榊。うっすらあくびしている。眠たそうだ。

 上島と小吉は何も言えない。

 百合田は「え、でも」と顔色を変えた。

「帰るわ」

 榊は判断するのも行動に移すのも早い。大股でドアに歩み寄る。

「ちょ、ちょっと待ってください」

 百合田は慌てて部屋に滑りこみ、背中でドアを閉めた。榊の行く手を塞ぐ形だ。

「もうちょっとだけ……」

「いや、もう無駄だろ」

「そんなこと」

「何度も言ってると思うけど、俺、朝が早いんだ」

「どうして……どうして聞こえないんだろう。聞こえるはずなのに……」

「それはもうわかったよ」

「もしかして、本当に、僕にだけ聞こえる、のか?……」

「なあ、百合田、今夜も1210号室で寝ていいから」

「違うんです、違うんです、僕は別に」

「しっ」と小吉が鋭く息を吐いた。

 全員の視線が小吉に集中する。

 小吉は宙を睨んでいた。

「……聞こえる」

 え?

 上島は息を詰めた。

 改めて耳を澄ます。

 そして、聞こえた。上島の耳にも。

 これは、この音は、どこから聞こえてくるのだろう、よくわからない――天井から降り注いでいるようにも、壁から染み出してくるようにも思えるが――

 ぞわぞわと、悪寒にも似た興奮が肌の上を撫でていく。

 聞こえる。

 この音を、なんと形容すればいいだろう――「るー」というか「ひゅー」というか——いや、そのどちらとも言えないような――とにかく、言語化しがたい音だった。風の音、のようにも聞こえるが、風の音にしてはあまりにも音声的だ。それに、もしこれが風なのだとしたら、音以外にも風の存在を感じられるはずだ。外の木が揺れるとか、窓ガラスが震えるとか。しかし、そのどちらも見られない。

 何にも似ていないが、それでもあえて似ている音をあげるならやはり「女の声」が一番近いということになるだろうか。

 だから、そう、これは……

 歌みたいだ。

 だが、人間の言語とは異なる法則で発せられている音だ。次にどういう調べが来るのかも予測できない。

 途端、今の今まで、どちらかというと細く繊細な音色だったのが、急に、太く荒々しいものに変化した――「あああ」とも「おおお」とも聞こえるような――まるで、大きな獣が吠えているような。

 独創的で、驚異的で、怖いような、でも、ずっと聞いていたいような。

 不思議な音だった。

 1203号室の中の四人は、ジッとこれに耳を澄ませていた。

 魔法にでもかかったかのように、誰も身動きしなかった。

「……聞こえる?」

 ようやく小吉が一言を発する。

「聞こえる?」と真っ先に応えたのは、百合田だった。

 その目はギラギラと異様に光っていた。

「聞こえる? みんな聞こえる?」

「聞こえる」と上島も頷いた。頷くしかなかった。だって、実際、聞こえるのだから。

 途端、百合田が笑み崩れた。

「そうですよね、聞こえますよね……聞こえますよね! 僕だけに聞こえるわけじゃないんですよね! みんなにも聞こえてる。よかった……」

 その大仰な安堵ぶりに、なんだか違和感を覚えた。

 なんでこいつこんなに嬉しそうなんだろう。

 その答えはすぐにもたらされた。

 小吉が、あっけらかんと、言ったのだ。

「百合田、おまえやっぱり〈魔女〉の話を真に受けてたんだな」

 百合田がハッと顔を上げる。「……違います!」

 上島も内心でハッとした。

 やはり。

 そうなのか。

 でも、なぜ。

 顔色を失って否定する百合田をよそに、小吉はニヤニヤしている。

「えー、でもさあ、そういうことでしょ、今の言い様」

「違いますって!」

「信じてるからこそ、ムキになった、そうだろ」

 違うっつってんだろ! 言うが早いか百合田は小吉に掴みかかった。ギャッ! 小吉の大袈裟な悲鳴。ふたりがもつれ合ってクローゼットに激突し、さらにはしりもちをつく。そばに置かれていたゴミ箱が跳ね飛ばされて転がり、中の紙屑などが床に散らばる。そして、小吉が手にしていた蝋燭が床に落ちた。散らばった紙屑の近くに。上島は何よりもそこに反応して、ほとんど反射的にスリッパの底で蝋燭の火を踏みつけた。百合田が蝋燭を持っていなかったことは幸いだ。明かりがひとつ減って部屋の中が一段階暗くなる。そんななか小吉と百合田はまだゴチャゴチャ揉み合っている。おい、やめろって! 上島は叫んだ。吹き荒れるように響く謎の歌声は止まない。

「静かにしろ!」

 榊の一喝で、二年生三人はウッと口を閉ざした。

 静かになるや、榊は音の行方をさぐろうとしているかのように、また動きを止めた。

 せっかく榊が集中しているのに、邪魔するわけにはいかない。百合田は興奮冷めやらない様子ながらも、ぐっとこらえるようにして無言で立ち上がり、小吉から離れた。

 上島から見ても背が高いと思える小吉を、同年代の中では小柄と言える百合田が押し倒したということは、かなりの力でぶつかっていったということで、つまりそれだけ百合田はキレていたということなのだろう。カッとなるとブレーキか利かなくなるタイプなのかもしれない。

 意外だ。

 でも自分はきっと「意外だ」と思えるほど百合田のことを知っているわけではない。

 いつも敬語でしゃべったりして、誰に対しても壁を作っているから、見えにくくなっているだけで、本当の百合田は、もしかしたら……

 小吉も、口を尖らせつつ、立ち上がる。「なんだよあいつ」

 上島は小吉を少し強めに小突いた。

「今のはおまえが悪い。からかってやるなよ」

「からかってなんか」

「おまえのそういうところホントよくない」

「でもさ、上島だって思っただろ? これが〈魔女〉の……」

「わかった!」と、榊が小吉の反論を遮った。彼が大きな声を出すのは珍しい。

 二年生三人は一様に「え」と目を丸くし、榊を見た。

 わかった、って、何が?

 榊は何も言わず、さっと方向転換してドアを開け、1203号室を出た。

 二年生三人も慌てて1203号室を出た。上島は一瞬「このまま1210号室に戻って寝てしまうのでは」と思ったが、その予想に反して榊は1210号室の前を通過し、廊下を大股で進んでいく。

 榊さん、と呼びかけながら上島は小走りになって、榊に並んだ。

「どうするんです、どこ行くんですか」

「つまり、あの音を、止めりゃいいんだろ」

 付き従う二年生三人は、またしても一様に「え」と目を丸くした。


 榊は廊下の端まで行き、何かを確認するようにあたりをざっと眺めると、特に何をするわけでもなくきびすを返し、今度は反対の端まで行った。そこでも同じようにあたりを眺めるが、またしても何かするわけでもなくきびすを返して歩きだす。二年生三人には榊が何をしているのか、何をしようとしているのか、さっぱりわからない。ただただ、長い廊下を一往復しただけだった。

 1203号室の前を通過した榊は、今度は階段室に入った。

 燭台を高く掲げ、きょろきょろあたりを見回しながら、暗い階段を降りていく。

 二年生三人はそれにおっかなびっくり続くのだが――

「あった」

 榊が、不意に、階段を降りきったところにある窓を、指差した。

 その窓、数センチ、開いていた。

 棟長が閉め忘れたのだろうか。

 とにかく榊はその窓に近づき、ぴっちり閉めて、施錠した。

 そして二年生三人に向けて、言った。

「これでもうあの音は出ないと思う」

 途端、二年生三人は雛鳥みたいに一斉に囀った。

「どうしてですか」「どういうことですか」「なんでわかるんですか」

 そのやかましさに、榊は顔をしかめた。

「昔も同じようなことがあったからだよ」

「は?」

「ちょうど二年くらい前、俺が一年生のときにも、似たようなことがあったんだ」

「……えっ、えっ、どういうことっすか」と小吉が素っ頓狂な声を上げた。

 上島も思わず「初耳ですけど」と目を丸くする。

「そりゃ、言ってねえし。俺もさっきあの音聞くまで完全に忘れてたし」

「えええ」

「だって、関係あるとは思わねえもん。あのときは、1203号室じゃなくて、たしか、1107号室だったかな……どの部屋で聞こえるのかっていうのは、どうも、ランダムというか、予想できない感じだな。もしかしたら何か法則があるのかもしれないけど、俺にはわからない」

「二年前、何があったんですか」

 榊曰く。

 二年前、1107号室で夜な夜な変な音がするというので、寮生のあいだではちょっとした騒ぎになった。1107号室には、連夜、野次馬たちが顔を出し、謎の音の正体についてあれやこれやと推論を交していた。

 なぜ? いつから? どこから?

 混乱期が始まる少し前、世の中にまだ余裕があった頃、でもちょっとずつ不穏な空気が蔓延り始めていた頃、安全のため、と外出を制限されていた寮生たちは暇を持て余していた。だから、ちょっとしたことでも娯楽になった。

「俺も野次馬しに行ったよ。さっき1203号室で聞いたのと、似たような音だった」

 集まりはするけれど、原因も有効な対策も見出せずにいた、ある夜。

 光生寮一号棟の1107号室だけで聞こえる怪音は、廊下の窓が一ヶ所開いていることが原因である、と気づいた者がいた。

 二十一時以降、共用部分は寮監の手によって戸締りされる――当時はまだ寮監と呼ばれる大人が詰めていたのだ。現在、戸締りは、寮長と各棟長が担っている――しかし、その数日間は、廊下の窓が一ヶ所だけ閉め忘れられる、ということが続いていた。

 なぜなら。

 当時、寮監に任じられたばかりの若い教師がひとりいたのだが、彼が、ちょっとわかりにくいところにある窓を見逃していたのだ。だから彼が戸締りを始めて数日間、その窓は夜でも開きっ放しになっていた。

 廊下の窓をすべて閉めると、謎の音はぱったりと止んだ。

 このことから、謎の音の正体は「隙間風が反響しまくったもの」ではないか、ということになった。

 す、す、すきまかぜ? と百合田が声を震わせる。

「隙間風ですって? まさか、そんな……風が、あんな音、するわけ……」

「するらしいぞ。いろいろな要因が重なれば。新理先輩は、そう言ってた」

 その名前に、ハッとする。

「新理先輩?」

「そう。怪音の原因を見つけてきたのは、当時二年生だった新理先輩だ」

 当時から新理先輩は周囲に一目置かれるような存在だったという。

 それは想像に難くない。

 新理先輩を知る者ならきっと納得するだろう。

 新理先輩という人は、そういう人だった……

 上島は、榊の手によって閉められた窓を見た。

「だから、今回も、共用部分のどこかが開いてるんじゃないかと思ってさがして、実際開いているところがあったから、閉めた、というわけですか」

「ああ。幽霊の正体見たり、だな」

 榊が軽く肩をすくめる。

 でも、あの、と小吉が珍しく遠慮がちに発言する。

「二年前のことはともかく、今回のあの音も隙間風っていうのは、やっぱり、無理があるんじゃないすか。だって、廊下か階段室の窓がどこかちょっと開いてる、なんてことは、これまでだってあったはずっすよ。でも、百合田だって誰だって、今までそれを聞いてないんすよね。それがどうして、今、いきなり派手な音がするようになったんすか? 今までも鳴ってたけど、気づかなかっただけっすか?」

 榊が頷く。「百合田が、音がする、と言い始めたのは、いつだ?」

 これには上島が答えた。「一昨日の夜だから、日曜ですね」

「日曜には何があった?」

 日曜日。

 休日。

 特に大きなイベントもなく……

 いや。

 小吉がポンと手を打った。

「中央棟二階の閉鎖」

 榊は大きく頷いた。「そう。中央棟二階の大部分を閉めきってしまった」

「……あれのせいで、空気の流れが変わってしまった?」

「たぶんな。ちなみに、二年前は、何があったと思う?」

 上島と小吉は首を捻った。

 二年前だと、現二年生はまだ中学生だ。

 光生寮の内部事情なんか知るはずもない。

「二号棟が閉鎖されたんだ」

 榊は、やはり短気なのだろう、さっさと答えを言ってしまった。

「さっき小吉が言ったみたいな疑問は、二年前にも出たんだ。これまでは多少隙間があってもこんな音したりしなかったじゃないか、ってな。でも、これも新理先輩が気づいたんだけど、1107号室で聞こえる謎の音は、二号棟が閉鎖された直後から聞こえるようになった。あのときも、二号棟が閉めきられたせいで、空気の流れが変わってしまったんだろう。二号棟の入口は、一号棟の中にあったし」

「ふーむ……」

「それでわかったことなんだけど、この寮……というか、中央棟と一号棟、かなり古い建物のわりに、気密性が高いらしい」

「それ、轟も同じようなこと言ってたな」と小吉。

 上島も頷いた。

 負圧状態になっているせいで食堂のドアが開けにくい、という話。

 轟の証言によれば、あれも、日曜から始まっているとのことだった。

「どこか大きく手を入れてしまうと、いろいろズレて、不具合出ちゃうんだな。知ってのとおり、光生寮は、増築に増築を重ねたせいで構造は複雑なことになってるから。空調も一筋縄では行かないんだろう」

 はあー……

 唖然としている二年生三人を尻目に、榊は、もう用はないとばかりに階段を上がり始めた。

「解決解決。俺はもう寝る。これ以上起きてたら明日の朝に響くし。おやすみ!」

 そして二年生三人は静かで暗い階段室に取り残された。

 小吉が険しい顔で他ふたりを顧みた。

「これ……新聞の記事になるかな?」

「知りませんよ!」

 苛立ちを隠さず言うと、百合田もまた階段を駆け上がっていった。


 その夜以降、百合田が1210号室を訪れることはなかった。


「つまり、このドアが重くなったのも、中央棟二階を片付けて閉鎖したせいで、換気の具合が変わって、気圧のバランスが崩れたから……ってことで、いいのか?」

 言いながら、小吉は食堂のドアに手をかけた。

 ドアはすんなり開いた。

「そういうことになるんだろうな」

 食堂のドアが開けづらくなる現象については、寮自治会へ報告が上げられ、対症療法として、換気扇を使っているあいだは食堂のドアもしくは窓のどこかを開けっ放しにしておく、ということが徹底されるようになった。寒い時期なので、常時開けっ放しというのは、つらいかもしれないけれど、仕方がない。

 トレイを持って、配膳カウンターに並ぶ。

 今夜のメインディッシュはアジフライだ。骨せんべい付き。

 油がはねる音を聞きながら、上島は隣に立つ小吉に訊いた。

「で、結局、この件は記事にするのか?」

「しよっかなーって」と、嬉しそうに頷く小吉。

「記事になるのか? あのオチで」

「なるなる。だって、枯尾花オチなのは残念だけど、榊さんのあの話、面白かったじゃん。二年前にも同じような現象が起こってた、解決したのはあの新理先輩、ってやつ。寮の歴史の一端を垣間見たっていうか。歴史は繰り返すっていうか」

 そう言って、小吉はちょっと遠い目をした。

「それに、あの音……上島も、聞いたろ、あの音」

 箸箱から取った箸を、ぐっと握り締める。

「正直言うとさ、俺、あの音聞いたとき、すげえ震えたんだ。怖かったっていうんじゃなくて、なんていうか、感動したっていうのかな。なんか……うわーっ、マジかよ! て感じ。なんだこれ! こんなのホントにあるんだ! って感じ。これは百合田が怯えたのも無理ないな、って……そういう音だった。結局、正体は隙間風だったんだけど、でも……ちょっと、ワクワクしたんだ」

 そうだな、と上島も頷いた。

 正体にはガッカリさせられたけれど、でも、音そのものにはすごい迫力があった。

 得体の知れない生き物が実際すぐそばにいるのではないか、と。

 人知を超えた何かが本当に歌っているのではないか、と。

 納得しそうになった……

 小吉ほど素直に感動したりはしないが、上島にとっても「ちょっと、ワクワク」するような体験だったことは、間違いない。

 そうだ。

 謎の音の正体については、もう、「隙間風」ということで納得してしまっていいと思っている。たとえ、それが仮説であっても――たとえ、真相とは微妙に違っていたとしても――正体の一端さえ掴めていれば、怖くはないし、気にならない。世に「怖い」と言われているものは大体すべて「よくわからない」からこそ怖いし、気になるのだから。

 上島が気になっているのは百合田当人のことだ。

 謎の音の正体が掴めてしまったことで逆に掴めなくなったのは百合田という男のことだった。

 しかしこれについてはあまり深追いしたくないとも思っていた。

 だって、この件は、もう終わったのだから。

 自分にはもう関わりのなくなったことなのだから――


 そう、思っていたのだが。



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