3-2
特に収穫もなく1210号室に戻り、榊に「異常なし」と報告。
三人のあいだには微妙な空気が漂った。
「えーっと、じゃあ……どうします?」
「どうすっかね」
「どうしましょう……」
百合田も、何か具体的にしてほしいことがあってここを頼ったわけではないらしい。
自分ひとりでは把握できない状況にいるのが不安で堪らなくなっただけなのだろう。
その気持ちはわからないではない。
が、だからといって、ドアの前にぼんやり突っ立っていられるのも困るわけで。
「なあ、今は聞こえないんだろ」と榊。
「はい」
「じゃあ、もう、部屋戻れ。ずっと絶え間なく聞こえてるってことなら、それは問題だし、なんとかしてやろうって気にもなるけど、もう聞こえてないんだったら、俺らにできることはなんもないよ。そもそも俺たちはその音聞いてないんだし。音の話されても、へえ、そうなんだ、としか言ってやれない。なんかあったらまたうちに逃げこんでくれて構わないけど、今は対処しようがないから、とりあえず今夜は部屋戻って寝ろ」
「……でも」
「つーか俺が眠いんだよ。寝かせてくれ。明日も早いんだ」
先輩にそう言われてなお強く言い返せるような百合田ではない。
榊はさっさとベッドに移動した。本気で寝にかかるつもりらしい。
が、百合田はドアの前で去りがたそうにしているばかり。
上島もそれ以上何も言えなかった。
「じゃあ、この部屋で寝れば」
えっ、と上島と百合田は目を丸くして榊を見た。
榊はもう布団に潜りこんでいて、顔だけ出している状態だ。
「ここで?」と百合田。
「そう」
寮則で「自室以外での就寝は禁止」とされている。
でも、これを破ってペナルティを食らったという話は、聞かない。
「いいんですか?」
「いいよ、そこでいいなら」
と、上島のものでもなく榊のものでもない、今は誰のものでもない三つ目のベッドを指差す。そこには、上島と榊の通学カバンやら普段使っている上着やらがぼこぼこと積まれていた。ろくに掃除もしていないのでやや埃っぽい。おまけにカーテンはとっくの昔に取り外されている。就寝中のプライバシーは確保されないけれど。
「布団は知らん。てきとうに自分で持ってこい。俺は寝る」
そうして榊はカーテンを閉めきった。
良くも悪くもマイペースな人なのだ。
百合田はさっと1210号室を出て、すぐさま枕と掛布団を抱えて戻ってきた。
ベッドの上にあるものを脇に寄せ、自分が寝るスペースを拓いていく。
上島はそれをぼんやり見ていたのだが。
……まあ、いいか。
割り切って、上島もまた自分のベッドに入り、元のようにカーテンを閉め、読書を再開した。あまりにもつまらないのでもう今夜のうちに読みきってしまいたかった。
百合田が横になる気配。
でも、なかなか眠れないようだった。蝋燭も消していない。
何十分か経っても、ごろり、ごろり、と寝返りばかり打っている。
まあ、ここですぐに寝付けるような図太い神経の持ち主なら、そもそも、謎の音に怯えて助けを求めてきたりしないだろう。
可哀想になったわけではないが、ちょっと構ってやることにした。
カーテンを開けて「読むか?」と、図書室の本をベッドの中に投げ入れる。同じ作者の本をてきとうにもう一冊借りていたのだが、読む気はすっかり失せていた。
百合田はちょっと驚きつつもこれを素直に受け取った。
「……上島くん、本読むの好きなんですか」
「別に。他にすることないから」
「そうですか……僕は、結構、好きなんですけど」
「ふーん。あ、じゃあ、それ読んだことあったか」
「いえ、これは、ないです」
眠っている榊を気遣ってか、こそこそと抑えた声でしゃべる。
多少の話し声では、熟睡中の榊は目を覚ましたりしないのだが。
「なんでおまえ同級生に対しても敬語なの?」
前々から気になっていたことを訊いてみた。
なんだか訊ける雰囲気だと思ったのだ。この状況にはしゃげるほど百合田とは親しくないし、おしゃべりに興じるつもりはないのだが。
百合田は顔を上げずに応えた。「気に障りますか」
「そういうわけじゃないけど」
「別に、深い理由があるわけではないんですが……癖っていうか」
ぺら、とページをめくる音。
読むつもりらしい。
やはり、眠れないのか。
「……誰が目上なのかわからないときって、ないですか。特に、こういう寮とかでは」
「そうかな」
「わからないですよ、私服だと特に。三年生は常に三年生のバッチつけて歩いてるわけではないですし。……僕、そういうの間違えるの、嫌なんです。間違えて、あいつ敬語使わなかった、生意気だ、とか言われたくないし……だったら最初から、接する人みんなに敬語を使っとけば、間違いないですよね」
それって、結局、相手に敬意があるわけではないってこと?
間違えて怒られるくらいなら、みんなから目下と見られてもいいってこと?
もしかして、過去、実際に間違えて、文句を言われたことがある?
結局、訊く前より疑問が増したが、上島はそれ以上何も言わなかった。
「そう」
カーテンを閉め直し、またページに目を落とす。
百合田は、大人しく読書しているのだろうか、静かになった。
上島も、読書を続けているうちに、いつの間にか寝落ちてしまった。
ゆっくりと、深く眠った。
これとほぼ同じ流れを、翌日月曜日の夜にも繰り返すことになるのだとは知らず。
・
「そんな面白いことが起こっていたとは」
「なんも面白くねえよ」
火曜日の夜。
食堂に向かう道すがら、なんとなく、昨日と一昨日の夜の出来事を話すと、小吉はひどく羨ましそうな顔をした。
「だって、なんか〈魔女〉を髣髴とさせる話じゃない?」
「はあ?」
「寮生が、夜、なんか歌みたいなのが聞こえる、とか言いだすなんて」
「……おまえのその飛躍的発想力には感心するわ」
「なんだよ」
「たまたまだろ。あいつ、僕とおまえの〈魔女〉の話聞いて、ちょっとキレてたじゃん。キレたってことは気になったってことだよ。あいつもビビっちゃったんだ。それでちょっと音に過剰反応してるだけだよ……大体、百合田は女の声とは言ってないし、海から聞こえてるとは言ってないし寮の中で聞こえるって言ってるし、そしてなにより、歌みたいとは言ってないし。なんか変な音がする、って言っただけだし。おまえ、なんでもかんでも自分の都合のいいように解釈すんなよ」
と言いつつ、上島は内心で、何か、引っかかるものを感じていた。
何が引っかかっているのか、自分でもわからないのだが……
小吉はまた目をキラキラさせている。
「でも、そっかあ、百合田がねえ。とりあえず、百合田に話聞いてみよっかなー」
「やめとけ。またキレられるぞ。……ていうかさあ」
「うん?」
「看板おばさんの言うことを鵜呑みにするなら〈魔女〉の歌が聞こえるのは〈罪を犯した男〉だけなんだろ」
「うん」
「だとすると、〈魔女〉の歌が聞こえる百合田は〈罪を犯した男〉ってことになるんですけど。渡部や木多嶋先輩と同類ってことになるんですけど」
「そうね」
「そうねじゃねえよ。百合田がどんな罪を犯したというんだ、おまえは」
「そりゃ知らないけど」
「じゃあほとんど言いがかりじゃねえか。……あー、もう、もういいよ。知らねえよ。つーか、おまえ、僕の古文のノート早く返せよ! 復習できねえだろ!」
と露骨に話題を逸らしつつ、上島は食堂のドアに手をかけた。
が。
「あれ?」
開かなかった。
勢い余って、上島はよろけた。
「何やってんの」と、ちょっと笑う小吉。
「ドアが……」
「鍵かかってる?」
「いや、なんか、そうでもなさそうな」
力をこめれば、開くことは開くのだが。
「なんかめちゃ重い」
どれ、と小吉が手を伸ばすので、一旦ドアを閉め、改めて開けさせてみる。
たしかに、開けにくいというか、ドア全体が重くなっていた。
いつもなら特に力を加えなくてもスルッと開くのに。
「なんでだろう。ドアの枠が歪んだとか?」と小吉が首をかしげる。
「えー……でも、ドアの枠が歪むって、相当なことじゃないか?」
「だよなあ。地震があったわけでもないし」
ふたりして首をかしげていると、「あ、ドア閉まってた?」と近づいてきた者があった。頭いいクラスメイト、今回の試験では学年五位だった、轟だ。エプロンと三角巾を着けて、手には、使用済みコップが山のように積まれたトレイを抱えている。今週の調理補助当番なのだろう。
「ストッパーで留めてたんだけどな。外れたのか? どこ行った? あ、あった」
轟が指した先には、たしかに、ゴム製のドアストッパーが取り残されたように転がっていた。何かの弾みで外れたのだろう。
轟はストッパーを蹴り転がして、ドア下部に改めて噛ませた。
その手慣れた(足慣れた?)様子に、彼なら何か知っているのではないかと見当をつけ、「なんでドアこんなに重くなってんの?」と、訊いてみた。
「あー、フアツかな」
轟は事もなげにあっさり答えた。
が、上島と小吉にはピンと来ない。ふたりして首をかしげる。
「フアツって?」
「おまえらの家は、換気扇かエアコンつけたらドアとか窓とか開けにくくなった、みたいな、そういうこと、なかった?」
上島はぶるぶるとかぶりを振った。小吉も「ないなー」と首をかしげる。
そうか……と轟は思案げな顔をする。
「じゃあ、おまえらんちは、換気システムがしっかりしてたか、そこまで高気密じゃなかったか、どっちかだな。負圧状態は、高気密な建物であればあるほどなりやすいから。えーと……負圧ってのは、排気量が給気量を上回って、室内の空気が足りてない状態のこと。今まさにその状態なんだけど。ほら、今めっちゃ換気扇使ってるだろ」
と、厨房のほうを顎で示す。
たしかに、調理の音と共に換気扇の回る音がするけれど。
「ということは……つまり、どういうこと?」
「この中央棟って、どうやら、古いわりに……いや、古いからこそ? めっちゃ高気密らしいんだ。全然隙間がなくて、それはそれでいいんだけど、空気の入ってくる余地もないわけ。だから、換気扇いっぱい回して室内の空気を出しまくっちゃうと、入ってくるより出て行く空気のほうが多くなって、室内の空気が足りない状態、負圧状態になる。これって、壁とかドアとかが常に内側に引っ張られてるような状態だから、ドアも開けにくくなる」
と、問題のドアを見る。
「こういうふうに、ドアを開けっ放しにしとくとか、窓をどこか開けとくとか、とにかく、出て行く空気と同じくらいの空気を取りこめる状態を作っとけば、とりあえず、問題はない。人体に害があるわけでもないし……まあ、ホントは、そういうことする必要がないように、換気システムは設計の段階でちゃんと作っておかないといけないんだけど……古い建物だからな」
上島と小吉は「ほおー」と頷いた。
根気強く説明してくれる轟のおかげで、なんとなく理解できてきた。
「部屋の内と外で空気圧に差がある状態ってことか。だからドアも開けにくい、と。なるほど……え、でもさ、なんで今日いきなり、その、負圧状態になったんだ? 今までなったことなかったのに」
「今日いきなりなったわけじゃない。日曜からこうだったよ」
「日曜?」
「そう。原因まではわからないけどな」
上島と小吉はもう一度「はあー」と頷いた。
今度は心の底から感心していた。
「すげえな轟。名探偵じゃん。名探偵トドロキ」
「てかなんでそんなこと知ってんのおまえ。詳しすぎない?」
いやあ、と轟は照れたように肩をすくめた。
「知識だけなんだけどな。俺んち工務店だったから」
はあー、なるほど。
上島と小吉がまたしても感心して頷いた、そのとき。
「ゴラあ、当番! なに油売ってんだ! 仕事あんだぞ!」
野太い声が厨房から飛んできた。
ひえ、と轟が首をすくめる。
「やべえ、モサ子、超キレてる」
そうして、トレイをがちゃがちゃ鳴らしながら慌ただしく厨房へ戻っていった。
上島と小吉もスッと黙り、粛々とカウンターに並んだ。
厨房の奥では、恰幅のいい女性が汗だくになりながら鉄鍋を振っている。
通いの調理師、モサ子だ。
そのへんの男子高校生などよりよっぽど逞しい腕と逞しい声、そして逞しい根性で、日々、光生寮の食事を作り続けてくれている。一応、未婚のうら若き女性なのだが、きつい言動と鋭い眼光で、寮生たちから恐れられていた。
ただ、とにかく、モサ子の作る食事は美味いのだ。和食でも洋食でも中華でも、ハズレはない。
多くのスタッフがいきなり辞めたり連絡が取れなくなったりする中、自分だって逃げようと思えばどこへなりと逃げられたはずなのに、この町に踏みとどまって、最後のひとりになっても気にすることなく文句も言わず、通いの調理師を続けてくれている。混乱期真っ只中、思うように食料が手に入らない時分も、工夫して節約して、とうとう寮生を飢えさせることはなかった。そして現在に至るまで、長期休暇を除く毎日欠かさず、朝夜二食、管理人夫婦や調理補助当番の手は借りつつも、基本ひとりで食事を作り続けてくれるモサ子に、寮生たちは頭が上がらない。
彼女がいなければ光生寮の食事情は相当悲惨なことになっていただろう。
そういう意味で、モサ子は光生寮の女神といってよかった。
「おいっ、右の鍋、火ぃ止めろ! 煮詰まっちまうだろ!」
少々、口の悪い女神だが。
ちなみに「モサ子」というのはもちろん本名ではなく愛称である。「猛者」と「もっさり」のダブルミーニング、との噂だが、真相は不明だ。
そして、この夜も百合田は1210号室のドアをノックしたのだった。
「やっぱり聞こえるんです」
蒼白になって言う。
すでに停電時間なのだが、蝋燭も持たずに1210号室を訪れた。その表情は、嘘や冗談を言っているようには見えない。
見えないが……
上島と榊は顔を見合わせた。お互い、同じくらい困惑していることがわかった。
1210号室のふたりには、やはり、百合田が言うような音は聞こえないのだ。
「信じてください。本当なんです。僕は嘘なんか言ってません」
「嘘だとは思ってないけどさ」
「……わかってます、自分でも。こんなの普通じゃない、まともじゃないって……自分でもそう思うんだから、他の人がどう思うかなんて……どうせ、夜な夜な幻聴を聞いちゃうやばいやつだと思ってるんだろ……僕だって、そう思うんだから……そんなのを、今夜も部屋に泊めないといけない、メンドくさいって、そう思ってますよね?」
百合田、追い詰められつつあるな。
プライドが高い分、しっかりしたやつだったのに。居室にひとりになって、近場に誰もいなくなって、そんな中で夜な夜な謎の音が聞こえてきたら、こんなふうになってしまうのだろうか?
「おい、百合田、とにかく落ち着け」と、榊が宥めるように声をかけるが。
「僕は落ち着いてるし、嘘はひとつも言ってない。……でも、もう、いいです」
百合田はそう言ってきびすを返し、ドアを勢いよく開けた。
「わ! あぶね」
廊下に、開けられたドアをよける格好で立っている者があった。
他でもない、小吉だ。
上島は我知らず低い声が出た。「なんだ、おまえ」
「なんだってなんだよ。おまえが早く返せって言ったんだろ、古文のノート」
と口を尖らす小吉の手には、貸しっ放しになっていた上島の古文ノート。
「言ったけど」
タイミングがいいんだか悪いんだかわからないやつだ。
燭台を掲げた小吉は、物怖じすることなく1210号室にずんずん入ってきた。
「ていうか、どうしたの、みなさんお揃いで。なんか話し合い中だった?」
これには百合田が身を乗り出すようにして答えた。
昨日一昨日と奇怪な音が聞こえる、それが今夜もまた聞こえた。が、1210号室のふたりが信じてくれない。幻聴に悩まされる危ないやつと思われるのは心外なんだけど、でも実際その音は自分しか聞いていないのだから仕方ない……
百合田は興奮しているせいかまくしたてるようにしゃべり続け、小吉はそれをジッと聞いていた。
そして、言った。
「俺も、その音、聞いてみたい」
小吉の目は蝋燭の明かりの中でもはっきりわかるくらいキラキラ輝いていた。
上島は「やはりそうなるか」と思った。
その隣で榊も「そう来るか」と呻いた。
「とりあえず、1203号室に入ってみていい?」
経緯をしゃべったことによってさらに興奮してしまったらしい百合田は、小吉のその好奇心に疑問も持たず「ああ、来い!」といつもより男らしく頷いた。癖になっているはずの敬語すら吹っ飛んでいる。
それから上島と榊のほうを振り返った。
「ふたりも来てください! みんなで聞きましょう!」
上島は頭を抱えたくなった。榊もきっと同様だろう。が、どうすることもできない。
百合田がいっぱいいっぱいになっていることは見ればわかるし、そんな人間に対してノーと言えるほど、上島も榊も冷酷ではなかった。正直なところ、面倒なことになったもんだと思ってはいたが、それが、今の危うい百合田を突っぱねる理由にはならない。
「よーし、みんなで行こう!」
それと、何より、小吉だ。
こいつは、本当に、人を乗せるのがうまい。
本人はおそらく無邪気にやっているのだろうが……
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