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特に用事もなかった上島は、先日、芹沢寮長が言っていた「中央棟二階の片付け」に参加することにした。「掃除当番一回免除」に惹かれたのではない。一回くらいでは大したボーナスにはならない。
ただ、見ておきたくなったのだ。
ひとつずつ、でも確実に、その機能を失っていく寮の姿を。
まもなく冬休みを迎えるという中途半端な時期の、日曜日のことである。
九時、ラウンジには十数名が集まった。
二年一組からは、上島の他には小吉と百合田が来ていた。小吉はいつもの一眼レフ装備で、新聞部として取材をしに来たようだが、いつの間にか片付けの頭数に加えられていた。
芹沢寮長の他に、今日は一号棟長の山田、三号棟長の下野もいた。
「休みなのに集まってくれてありがとう。助かる」
芹沢寮長がみんなの前に立って、作業概要を話し始める。
中央棟二階の中央階段より南側――居室1号室から12号室とこれに付随するロッカー、トイレと洗面所、大会議室、小会議室、そして自習室、がある区画――この中にある備品や不要品などを根こそぎ運び出し、清掃、戸締りをする、とのこと。
簡単に班分けがされ、上島は、居室を担当する班になった。
この班には芹沢寮長もいた。
「そういえば、芹沢寮長って、2号室じゃなかったですっけ」
光生寮は三人部屋が基本だが、中央棟の十二居室だけはひとり部屋になっている。
ひとり部屋に入れるのは、寮自治会幹部でなければ、模範的寮生と認められた品行方正な三年生、もしくは、よほど特別な事情がある者だけだ。
「そうだよ。でも、もう一号棟の空き室に移ったから」
「あれ? そうなんですか」
「ああ。1102号室にな」
そうなんだ。いつの間に。
上島は一号棟の住人であるが、全然気づかなかった。
光生寮は、玄関や食堂やラウンジ、管理人室などがある「中央棟」を中心に、「一号棟」「二号棟」「三号棟」という四つの棟から成っている。
開寮当時は、中央棟に一号棟がくっついただけの、単純な構造だったらしいのだが、美奈岸高校の生徒数増加に伴って寮生の数も増えていくにつれ、二号棟を付け足し、後年さらに三号棟を付け足して、今のようになった。
横長の建物を無理やりつなげているせいで、全体としてかなり複雑な構造になっている。四月あたま、入寮したばかりの一年生が「二号棟にはどう行けばいいですか」などと言いながら迷子になっている姿は、光生寮の風物詩だった――二号棟に入るには一旦一号棟に入らなければならないから、ややこしいのだ――が、今は逆に、徐々に規模縮小されている。
二年前に二号棟が閉鎖された。二号棟はもう電気も水道も止まっているし、入口に鍵がかかっているから入ることもできない。
現在、三号棟もかなり空き室が目立ってきている。
もう少し人数が減ったら、まだ残っている者を芹沢寮長のように一号棟に移した上で、三号棟も閉鎖されるのだろう。
プライバシーを完全に確保できるひとり部屋にはやはり憧れがある。
だが、光生寮のひとり部屋は、羨望を集めるような素敵な部屋ではなかった。
とにかく狭いのだ。
スタンダードな三人部屋だってさほど広くはないが、ちらかしさえしなければスペースに余裕はある。今は特に、三人用の部屋をふたりで使っているので、より広々している。が、このひとり部屋というのは、ベッドと勉強机とクローゼットがほとんど隙間なく詰めこまれており、入居者が好きに物を置くことができるスペースが本当に猫の額ほどしかなかった。独房のよう……とは言いすぎかもしれないが、そんな印象を持ってしまうほど、窮屈そうな部屋なのだった。
上島たちは、各居室の窓に下がっているカーテンを外して回った。
埃と湿気を吸ってじっとり重いカーテンを、廊下の床に積んでいく。これはもう廃棄するという。他にも、マットレスや敷物など、すべて廃棄してしまうらしかった。
その後、落とし物などがないか気をつけて見ながら、清掃。
といっても、すでに誰も使っていない小さな部屋だ。部屋が空くとき一度清掃されているらしいし、この作業もすぐに終わった。ゴミはほとんどなく、誰かがクローゼットの中に針金ハンガーを一本見つけた以外は、落とし物らしい落とし物もなかった。
上島と小吉、それと百合田で、裏手にあるゴミ集積所に可燃ゴミを運ぶことになった。
運び終えて、中央棟に戻る途中、小吉がふと言った。
「大会議室も小会議室も閉鎖されたら、委員会とかミーティングどうすんのかね」
「さあ。ラウンジか食堂の片隅ですることになるんじゃねえの」
「この片付け終わったら、中央棟二階で使用可能なのって、大浴場とランドリールームだけ?」
「それと、バルコニーと……あと、図書室、だな」
バルコニーとオシャレな名前はついているが、実質は物干し場である。ランドリールームの真向かいで、物干し台しかない。
「ふーん。寂しくなるね」
上島は、そうだな、と素直に頷いた。
寂しくなるね。
そうそう、と小吉が続ける。
「知ってる? 芹沢寮長が2号室から1102号室に移ってたように、木多嶋先輩も一号棟に移ってたんだって。もともとは9号室だったんだって。で、その9号室ってのも、四月からじゃなくて、最近っていうか夏休み明けからだったんだって」
いきなり木多嶋の話になってギョッとする。
木多嶋が姿を消したことに気づいて以降、木多嶋の話題には触れないようにしていたのに。それは、上島だけでなく、おそらくほとんどの寮生が、そうしているのに。
小吉の怖いところはこういうところだ。
自分が必要と思えば、タブーも暗黙の了解もお構いなしに、ずんずん踏みこんでいく。
「木多嶋先輩って、寮自治会所属でも品行方正でもなかったじゃん。それなのにひとり部屋ってことは、何かやらかしたのかな、と思ってさ、ちょっと聞いて回ってみたら、やっぱ、やらかしてたみたい。婦女暴行未遂」
思わず顔をしかめた。
試験終了した日の、ラウンジでの一騒動を思い出す。
レイプだセックスだと痛々しく喚き散らしていた木多嶋。
「……口だけじゃなかったのか」
「まあ、あくまでも未遂だから、口だけといえば口だけかな。一学期の終わり頃に、夜中こっそり寮を抜け出して、下の町で女の子襲おうとして、でも怖気づいて逃亡して、しかもバレて、退寮になりかけたらしい。あらゆる面で失敗してるとこが、すげーらしいよな」
ホントそうだな、と上島も思う。
らしい。
そして、ふと気づいた。
「……だから、あんなに怯えてたのかな」
「なに、怯えてたって」
「いや……あー、僕が、夜、廊下歩いてたら、話しかけられたんだよ。あの〈魔女〉の歌ってマジでやばいのか? みたいなこと、訊かれた……ってだけなんだけど」
綾彦の絵の件は避けた。
言えば小吉はきっと「その絵を見たい」と言うだろう。でも、綾彦が上島にも見せない絵を小吉に素直に差し出すとも思えない。と来れば、小吉は上島に縋ってくるはず。上島はそんなことにまで手を貸したくはなかった。煩わしいことは避けたいし、綾彦のことは極力そっとしておきたい。
要点のひとつを省いているせいで真実とは微妙に異なる情報になったが、嘘をついているわけでもなく、また、そのことを知る由もない小吉は「えーっ」と目を輝かせた。
「それ、マジ? なんでそんな大事なこともっと早く言わないんだよ!」
「なんで報告の義務があんだよ……ラウンジでやけに突っかかってきたのも、あれも結局、小吉の与太話を真に受けてたってことなんだろうな、今思うと。でなきゃ、僕にあんなことわざわざ訊かないだろうし……自分も一応〈罪を犯した男〉だし、ビビっちゃったのかも……あーんな、噂話なんか、聞き流せばいいのに」
「――ということは、木多嶋先輩は歌を聞いたんだな」
妙に自信に溢れた言い方。
上島は思わず小吉を見た。
「なんで?」
小吉は嬉しそうに笑っていた。
「だって、〈魔女〉の歌、って言ったんだろ? 木多嶋先輩は」
「そうだけど」
「俺は、あの夜、あのラウンジで、〈魔女〉の声、とは言ったけど、歌、とは言わなかった。あえて、一言も」
「……」
「川村もな、歌、とまでは言わなかったんだ。女の声、としか言ってないはず。それなのに木多嶋先輩は、歌、と言ったんだろ? 実際にそれを聞いたことのないやつが、歌、と限定することって、あるかな?」
上島は眉をひそめた。
なんだ、こいつ。
こわ……
「つまり木多嶋先輩も〈魔女〉の歌を聞いたんだ。いかにも罪らしい罪を犯したことのある木多嶋先輩も。そして、木多嶋先輩も姿を消してしまった……これって、偶然かな? これって、やっぱり……」
「くだらない」
と言ったのは上島ではない。
上島と小吉は、声がしたほうに顔を向けた。
百合田だ。
「さっきから、魔女だのなんだの……バカバカしい。聞くにたえない」
今の今まで静かにしていたのに、口を開くなり辛辣だ。
小吉は口を尖らせた。「なんだよ百合田」
「あまりにもナンセンスですよ。魔女だなんて。小学生じゃあるまいし……」
「あー、おまえもバカにすんの? ったく頭のかたいやつばっかだな。な?」
と上島に同意を求めるが、求められても困る。
百合田は、しかめっ面でもう一度「くだらない」と吐き捨てると、競歩のような早足になり、ひとり先に行ってしまった。その背中を見送りながら、小吉もまた顔をしかめ「なんだよ、くだらないだの、ナンセンスだの」とブツブツ言う。
「まあ、くだらないとは僕も思う」
小吉が「ええー」と抗議の声を上げるが、無視する。
それよりも。
「怒ってる百合田なんか、初めて見たな」
いつもは、本当に、自分の席でただただ静かに勉強しているようなやつなのだ。
この話題が、よほど腹に据えかねたのか。
それとも……
「ちわっす!」
小吉が無駄に元気な挨拶をするのでビクッとしてしまう。
寮の前庭で、低木の手入れをしているおじさんがいた。つられて上島も「こんにちは」と挨拶した。中腰だったおじさんは、作業の手を止め「はい、こんにちは」と穏やかに返してくれた。
ちゃんと確認したことはないのだが、このおじさんは、学校の職員ではなく、下の町から通いで来ている庭師と思われる。夏でも冬でも麦藁帽子をかぶり、首に手拭いを巻いて、黙々と作業している。
「折れちゃったんすか?」
おじさんの手に大振りの枝が握られていることに気づいて、小吉が訊いた。
おじさんは腰を伸ばしながら頷いた。
「潮気で傷んじゃうんですね」
「潮気……」
「海面がこれだけ近づいてしまうと、どうしてもね。もろに吹き付けてくるから。ここらへんにあるのは潮に強い品種ではないですし」
なるほど、そういうこともあるのか。
たしかにこのあたり一帯は風が吹くたび潮の香りがする。
するようになってしまった。
「お疲れさまです」
「はい、どうも」と言っておじさんは作業に戻った。
見た感じ「おじさん」というよりは「おじいさん」と言ったほうがいい歳かもしれないのだが、そのへんの高校生よりもきびきび働いている姿を見ると「おじいさん」と呼んでしまうのは憚られた。
その後すぐ片付けに戻ったので〈魔女〉の話は半端なところで途切れた。上島としては、もうあまりその話をしたくないので、あえて触れないようにした、というのもある。
最後に、全員で廊下を掃除した。このとき蛍光灯も電球も外された。
芹沢と山田と下野が各部屋を回って点検と戸締りを済ませると、全作業終了となった。
あとでブレーカーも落とされるという。
ドアが閉ざされ、こうしてまた光生寮の一部が死んだ。
その夜のこと。
上島は自室のベッドに寝そべっていた。ベッドのカーテンを閉めきって、自分ひとりの世界を作り、蝋燭の明かりの下、図書室から持ってきた何年か前のベストセラー小説を読んでいた。切ない恋愛あり、胸を打たれる家族の絆あり、ハラハラするミステリー要素あり、と、若者を中心に人気を博した青春小説で、映画化もされてすごく話題になったのだが、半分以上読んでみても、上島にはあまり面白いと思えなかった。なんでこんなぬるい話があれほどもてはやされたのかわからない。けれど、途中で投げ出すのも気持ちが悪くて、惰性でだらだら読んでいた。
同室の榊は、さっき風呂から戻ってきて、今は勉強机に向かっている。でもそろそろベッドに入る頃だろう。彼は修行僧のように規則正しい一日を送っている。
不意にドアがノックされ、「はい」と榊が返事した。
ドアが開き、誰かが入ってくる気配。
対応を完全に榊に任せるつもりの上島は、顔を出しもしなかった。
「どうした、こんな時間に」
訪問者は蚊の鳴くような声で言った。「なんか聞こえませんでしたか」
「なんかって?」
「騒音っていうか、変な音」
「どこから聞こえる?」
「……わかりません」
「はあ?」
榊が困惑している。
珍しいことだ。
ようやく上島は本のページから目を上げた。
「どこから聞こえるのか、なんの音なのか、全然わからないけど、でも、聞こえたんです」
この声……
誰の声だろう。
内緒話をするときのような低く抑えられた声なので、すぐにはわからなかった。
「いや、全然聞こえなかったけど」
「でも、僕には、たしかに」
「今も聞こえる?」
「いえ、今は」
「どんな音だって?」
「なんか、甲高い、ひゅー、とか、うー、とか」
さすがに異常を感じて上島は身を起こし、カーテンから顔を出した。
ドアを背にして立っていたのは、百合田だった。
珍しい。
百合田が入っている1203号室は、1210号室の斜向かいだから、近所といえば近所なのだが、特に親しいわけでもないし、彼がこうして1210号室を訪ねてくることなんて今までなかった。
百合田の顔は、血の気を失って歪んでいた。
怯えている。
「風の音じゃなくて?」と上島は口を挟んでみた。
「……風なんか、吹いてないじゃないですか、今日」
たしかに。
静かな夜だ。窓ガラスだってカタリとも鳴らない。
「俺は全然何も気づかなかったけど」と、榊は上島を見た。
上島も、気になるような音は耳にしていない。榊に向かって小さく頷いてみせた。
「でも、聞こえたんです」と、百合田は頑なだ。
彼が手にしている蝋燭の明かりで、居室を縦断するような長い影法師がゆらゆら踊る。
「そんなこと言われてもな」
榊が、いつも短めに整えている髪を、がしがし掻く。
上島も榊と同意見だった。そんなこと言われても。
大体、百合田の耳には聞こえていたとして、なんでそれをわざわざここに相談しに来るんだよ? 同室者はなんて言ってるんだ? と疑問に思ったが、そういえば、百合田の同室だった三年生は、ついこのあいだ自主退寮しているのだった。親にくっついて高所に移住するのだとかなんとか。
というわけで、百合田は、今、居室にひとりぼっちだ。
さらに、1203号室の隣室である1204号室は、少し前に空き室になってしまった。で、1204号室と反対側の隣に、部屋はない。階段室になっているためだ。つまり、現在、百合田にとって一番の「近所」は、この1210号室ということになる。
それに気づいてしまって上島は文句を言うに言えなくなった。
百合田が動く様子はない。
だがこのまま放っておくわけにもいかない。
上島は「わかった」と重い腰を上げた。
枕元に置いてあった燭台を手に取る。
「ちょっと様子見てきます」
「おう」
榊に見送られつつ1210号室を出て、とりあえず一度、廊下で耳を澄ませてみる。
おかしな音は聞こえない。
次に、百合田を伴って、1203号室に入ってみる。
廊下と同じように耳を澄ませてみたが、やはり、妙な音は聞こえなかった。
三人部屋でひとりになってしまうと、他人の目がなくなる気の緩みから、ちらかり気味になる傾向があるのだが、1203号室はきっちり片付けられていた。百合田の性格なのだろう。空いたベッドや勉強机に私物を置いたりもせず、自分の領域と他人の領域を分けている。几帳面というかクソ真面目というか。
「なんも聞こえねえけど」と、百合田を見る。
百合田が着ているのは、中学校時代のものらしき垢抜けないジャージの上下。
彼は寮にいるとき大抵これを着ているのだが、低めの身長と丸顔、そして敬語のせいで、本当に中学生に見えた。
「ずっと途切れなく聞こえてるってわけではないんです。不規則っていうか」
はあ、と曖昧に頷いて、しばし耳を済ませるが、最後まで、なんの音もしなかった。
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