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2-1
金曜日、試験が終了した。
明日土曜日は休みになる。
解放感と疲労感が綯い交ぜになって微妙に気だるい放課後、部に所属している連中は部へ顔を出しに行き、帰宅部である上島は、帰宅部らしく、まっすぐ寮に戻った。
玄関に上がると、寮長である三年生の芹沢と鉢合わせした。
「上島、暇か」
「はあ、まあ」
「今から食堂のテーブルや椅子を片付けるんだけど、暇なら手伝ってくれ」
「食堂、の?」
そういえば、廊下の突き当たりにある食堂から、複数の人間が動き回っている気配がする。食事が出る時間でもないのに。
「何か行事ありましたっけ」
「いや、そういうんじゃない。ただ、もう、必要な分だけ出しとけばいいんじゃないかってことになってな、この前の委員会で」
芹沢寮長が食堂に向かって歩きながら話し始めたので、自然、上島もついていくことになる。このまま成り行きで手伝うことになりそうだ。暇であることは間違いなく、断る理由も思いつかなかったから、いいのだが。
「ここ何ヶ月かで寮生もまただいぶ減ったろ。食堂に全員集合しても椅子が余るくらいだし。使わないのに置いといても掃除するときとか邪魔になるだけだから、今回の試験が終わったら片付けようって話になってたんだ」
「そうなんですか」
「まあ、仕方ないよな」と芹沢寮長は笑った。
どう返事していいかわからず、上島は「はあ」と曖昧に頷いた。
でもたしかに「仕方ない」としか言いようがないのかもしれなかった。
かつて、この光生寮は活気で満ちていた――「かつて」と言ってもそう遠い昔の話ではない、上島が覚えているくらいだから――上島が一年生のとき、この寮に入ったばかりのとき、ほんの十数ヶ月前までは、この光生寮は寮生で溢れていて賑やかだった。
大きな寮だから、従業員の数も多かった。厨房とスタッフルームには、いつも、少なからぬパートタイマーのおばちゃんたちが出入りしていた。
しかしその姿は、今はもうない。
今は管理人夫妻だけになってしまった。スタッフルームも閉鎖された。
夫妻ふたりと通いの調理師だけでどうにか切り回せるくらい、寮生が減ってしまったから。
常時詰めていたはずの「寮監」と呼ばれる大人も、いつしかその姿を見せなくなった。
だから、今は、寮自治会が何かにつけ生真面目に活動している。
逆に言えば、寮自治会が生真面目に活動しているからこそ、この寮は、いまだまともに機能しているのかもしれない。
ふと、新理先輩のことを思い出す。
世の中の混乱がピークだった約一年前、上島が一年生だったとき、寮長として光生寮のみんなをまとめていた人物だ。中性的な線の細い容姿で、実際、呼吸器系の持病があったらしいのだが、それを感じさせない笑顔で、いつも誰に対してもほがらかに接していた。反面、怖いくらいにキレ者で、いざというときの肝の据わり方はそのへんの大人以上だった。彼の機転とリーダーシップのおかげでこの寮は幾度となく訪れたピンチを乗り切ったのだと言っても過言ではない。それは、寮生の誰もが認めるところだろう。新理先輩がいなかったら、この寮だって、今頃、どうなっていたことか――
「さっさと始めて、さっさと終わらせよう」
独り言のように呟く現寮長・芹沢と共に、食堂へ入る。
そこにはすでに十名弱がだらだらと集まっていた。私服に着替えているやつもいれば、学ランのままのやつもいる。上島と同じく暇を持て余している連中だろう。
食堂の手前半分にあるテーブルと椅子を残し、奥半分にある分を倉庫にしまおう、ということになった。テーブルも椅子もかなりの数あったが、芹沢寮長がてきぱきと指示を出したおかげで、この人数でも効率よく作業を進めることができた。
テーブルと椅子を片付けてしまったスペースの蛍光灯も、外すことになった。
もう使わないから、ということで。
この作業もまたあっけなく終了した。
みんなで軽く床掃除をしたあと、芹沢寮長が全員を集めて話をした。
「来週の日曜、次の次の日曜な、その日にも、こういう片付けをすることになってる。中央棟の二階の、ひとり部屋とか、会議室のあるあたりな。あのへんも、もう使わないから、閉鎖することになった。不要品の運び出しとか清掃とかするんだけど、今日みたいに手伝えるやつは手伝いに来てほしい。この片付け手伝ってくれたやつは、掃除当番一回免除になるから。朝九時にラウンジ集合で、他にも来れそうなやついたら声かけて。いっぱいいるほうがすぐ片付くだろうし。そんじゃ、お疲れさん」
お疲れさんっした、と力ない声がだだっ広い食堂にこもった。
芹沢も、いい寮長なのだ。
新理先輩の後釜に座るというのはかなりのプレッシャーだったはずだが、元剣道部らしい精神力と生真面目さで、新理先輩とはまた違ったタイプの寮長を務めてくれている。
上島は、端のテーブルに置いておいた学ランと通学鞄を取りに行ったので、みんなとは一歩遅れて食堂のドアに手をかけた。
廊下に出る前に、一度だけ、食堂を振り返った。
手前半分は蛍光灯の白い光で明るく、生活感があるけれど、奥半分はぽっかりと暗く、ほら穴のように何もない。
なんだか、ひどく不安定な空間になってしまった。寮生活を送っている以上は、毎日必ず出入りする場所なのに――でも、毎日必ず出入りする場所だからこそ、すぐに見慣れてしまうのだろうな、という気もする――
・
夕食後、特にすることもなかったので、ラウンジに入った。
上島が入ったときすでにラウンジには少なからぬ寮生が溜まっていた。寮内で唯一テレビがあるスペースだから、特に夕食後は、こうして寮生が集まる。今も、一昔前に流行ったミステリードラマを、何人かがああだこうだと推理しながら観ていた――テレビ各局、新作ドラマを作る余裕なんかないから、ゴールデンタイムであっても流すのは再放送ばかりだ――一昔前の作品とはいえ、一世を風靡しただけあってやはり面白いし、古い感じが逆に新鮮だったりして、なかなか見れるのだけれど。
「うわー、ココアだって」
「いいなあ、ココア」
「うまそう、飲みてえ」
ドラマ内にココアが登場したのだろう、唐突に、何人かがそんな呟きを漏らした。
混乱期に至るまでの、坂を転がり落ちるような生活水準低下の波の中、まず嗜好品から消えていった。地球上から消滅したわけではないが、それを生産輸送販売するよりも優先させるべきことが増えてしまった。混乱期がなんとか収まったあと、元に戻ったものもあれば戻らないものもあり、カカオ製品は戻らないもののひとつだった。
ココア飲みたい、とか言われると、こっちまで飲みたくなってくるのでやめてほしい。
手に入らないものを欲しいと思うことはつらいことだ。
考えないようにしようと思えば思うほど考えてしまう。
ココア、で思い出すのは綾彦の家だ。
冬場に遊びに行くと、あの家はよくココアを出してくれた。子供のカップにはマシュマロを、大人のカップには洋酒を足したりして、今思うとずいぶんおしゃれで贅沢なことをしていたように思う。カップに添えられた小さなお菓子。まんまるいプレーンビスケット。うっすら塩のきいたローストアーモンド。普通に食べるとあまりおいしいと思えなかった苦いオレンジピールやぼそぼそのショートブレットも、ココアと一緒に食べればおいしかった。子供心にも食べ合わせの妙というものを理解した――甘いものは苦手だから、と、洋酒のほうを飲みたがった綾彦の父。いつもそう言うんだから、やあねえ、と笑っていた綾彦の母。上島から見れば伯母にあたる彼女は、フラワーアレンジメントの先生をしていて、居間にも玄関にもいつも綺麗な花が飾られていた。そんなふたりに可愛がられて天真爛漫に育った綾彦。この前あんな絵を描いた。今度はこういうものを作ろうと思う。訊けば衒いもなく答えてくれた。まさに絵に描いたような幸せな家族――
上島はブルッと強めにかぶりを振った。
もうやめよう。
つらくなるだけだ。
ラウンジは食堂と同じくらい広い。テレビがあるのと反対側の隅には卓球台もある。ロッカーには、オセロや将棋、チェスなどのボードゲームも各種置いてあった。
男所帯に長年置かれているせいか、保存状態はあまりよいとは言えず、駒もいくつか失われている。駒ケースの中には、「玉将」と彫りこまれた消しゴムや、油性ペンで「ルーク」と書かれた塩ビの指人形が紛れていたりする。
試験も終了したということで、寮生たちのあいだには弛緩した空気が漂っていた。
座る場所をふらふらさがしていると、クラスメイトの川村が近づいてきて「向こうでアマランサスやらねえ?」と声をかけてきたので、参加することにする。
アマランサスというのは、カードゲームの一種だ。数字カードとギミックカードがあり、順番に一枚ずつカードを切っていく・切るカードがなければ中央に置いた山から一枚抜く・最初に手札がなくなった者の勝ち、という、単純なルールだが、直前のやつが切ったギミックカードに振り回されたり、戦略を練らなければ切り抜けられなかったり、やり始めると奥が深くて面白い。
ラウンジのテーブルのひとつに、六人が集まった。
上島と川村の他に、百合田、中岡、西。それと小吉もいた。
全員同じ二年一組だ。
同じ環境で長く共存している仲間だから、基本的にみんな仲はいい。けれど、こういうくだけた場に百合田がいるのは珍しいことだった。でもまあそういう日もあるだろう、と、あまり気にしない。
ジャンケンで勝ち抜いた中岡によってカードが配られる中、川村が「そういえば」と切り出した。
「誰か、最近、渡部を見てない?」
他五人はそれぞれかぶりを振った。
それを見て川村はハアと深い溜め息を吐いた。
「とうとう、いなくなっちまったかあ」
「いいじゃん、別に。あんなやつ」
と冷笑混じりに言ったのは、西。
「なんでいなくなったかは知らねえけど、あの調子じゃ、いずれ強制退寮なりなんなり言い渡されてたよ。いなくなってくれて、むしろすっきり」
その意見には誰も反論しなかった。
渡部はとにかく手癖が悪かったのだ。
食堂の箸やコップなどを自室まで持って帰ってそのまま自分のものにしたり、ラウンジの新聞ラックに差してあるその日の朝刊をどこかに持っていってしまって返さなかったり、ランドリーにちょっと置いてあっただけの洗剤を持ち主の許可も得ず勝手に使ったり、やりたい放題だった。といっても、盗って大問題になるようなものは盗らないあたり、わかってやっていたのだろうし、だからこそ姑息でせこくて、イラつくのだが。
そのへん入寮当初から問題視されてはいたが、混乱期以降、ひどくなった。
「また渡部か」と疎まれるだけでは済まなくなるようなものを盗っていくようになった。同室者が音を上げ、寮自治会に直談判し部屋を替えてもらったくらいだ。「どうせみんなすぐ死ぬんだから」というのが、ほとんど口癖のようになっていて、これを口実に、食料をパクり蝋燭をパクり衣類をパクり、ついには、夜に寮を抜け出し町へ下りて女モノの下着を盗んでやった、と言いだすようになった――これに関しては誰も現物を見ていないので、ホラ吹いているだけかもしれないのだが――そういうことを、隠すこともせずむしろ自慢するようになっていて、だから、見かねた寮自治会によってとうとう「登校以外の外出禁止」を言い渡されていた。
寮内で鼻つまみ者だった渡部の姿を、そう言われてみれば、最近見ていない。
川村が「そうなんだけどさあ」と顔をしかめる。
「俺、渡部に、金、貸してたんだよなあ……」
「そりゃおまえが悪い。早まったな」と小吉が笑い、他の者も笑った。
などと言っているあいだにカードが配り終わる。
上島の手元に来たのは、数字カードばかりの中にギミックカードが一枚、と、いまいち頼りない顔ぶれだった。でもアマランサスは手札がすべてではない。
最初の一枚、中岡が無難な数字カードを出した。
「むしろ、今までよくい続けることができたなって感じじゃない?」
などと言いながら。
この話題はカードを切る順番と共にだらだらと輪を巡った。
「そうだよな、最近は特に目に余った」
「寮側もさ、甘くなってんだよ、そこんところは」
「そうかもなあ」
「行くところのない人間に寮を出ていけって言うのは、死刑宣告みたいなもんですからね」
と冷ややかに言ったのは、百合田。
百合田はクラスメイトで、つまり当然のことながら同い年なのだが、なぜか敬語で話す。
壁を感じはするけれど、百合田は、休み時間になっても自分の席についたままひとりで黙々と自主勉強をしているようなタイプだったから、この打ち解けにくいキャラクターが、なんだか似つかわしくもあった。
「自分から出て行ったのなら、野垂れ死んだって自業自得ですよ」
「……野垂れ死ぬかもしれないのに、なんで渡部は寮を出たんだ?」
小吉がふと呟いたその疑問に答える者はなかった。
全員が特に引っかかることなくカードを出し、一巡した。
二巡目に入り、山から引いた数字カードをそのまま出した川村が「そういえば」と思い出したように呟いた。
「怖がってたなあ」
「何が?」と小吉。
「いや、だから、渡部」
「怖がってたって、何を?」
川村は、記憶を追おうとするかのように目をくりくり動かしながら続けた。
「なんか、ここ最近、ずっと怖がってたんだよ、あいつ。女の声が聞こえるんだとかって」
アマランサスの輪にいる全員が「はあ?」と眉をひそめた。
「なになに、女の声って」
「え、怖い話? エロい話?」
みんなの反応に、川村も困り顔になる。
「いや、俺もよくわかんねんだけど。その声を実際に聞いたわけじゃないし。ただ、最近の渡部が顔合わすたびいつも同じこと言ってたってだけで。夜になると海のほうから女の声だかなんだか聞こえてきて怖い、とかなんとか」
周囲の温度がスーッと下がったような気がした。
怪談じみた話にぞっとしたのではない。幽霊話なんて、混乱期以降、事欠かない。ただ、身近にいた人物の話なのに、まったくわけがわからないのが怖かった。そして、その人物が実際に姿を消している、という事実が怖かった。
だから、みんな顔を引き攣らせていた。
小吉以外は。
彼だけは、なにやら嬉しそうな顔をしていた。
獲物を発見した狐ならぬネタを発見した新聞記者。
興味津々とばかりに、少し身を乗り出す。
「なあ、それってもしかして〈魔女〉?」
上島以外の全員が、小吉を「はあ?」という顔で見る。
上島はひとり、あれ話しちゃうのかよ、と渋い顔になる。
あんな、やばいおばさんの妄想を……
「なに、なんのこと、魔女って」と西。
小吉は自信満々に説明し始めた。
「夜になると、海のほうから女の声が聞こえてくる、その声は海から来た〈魔女〉のもので、罪を犯した男にしか聞こえない、聞こえた男は〈魔女〉によって海に引きずりこまれてしまう……って話があるんだ」
途端、みんなが半信半疑の顔になる。
「なんだそりゃ」
「聞いたことない」
「え、そっちが怖い話? エロい話?」
無理もない。
大体、そういう話がある、と言っても、言っているのはあの看板おばさんだけなのだ。わざわざ広めるような話でもない。
なのに、なぜ、小吉は、こんなことを。
「怖い話でもエロい話でもないって。俺もこの話つい最近まで知らなかったんだけど、でも実際、女の声を聞いた、と言って怯えて、以降、姿を消した人がいるらしいんだ。渡部と同じだろ?」
まあ、そうだなあ……と川村がゆらゆら頷く。
上島も、そういや同じだな、とは思う。
でもだからってそれを結びつけようというのは、いくらなんでも強引じゃないだろうか。
「で、もし、渡部もそうだったなら、事例がまたひとつ増えるんだよな。だって、ほら、渡部なら聞こえてもおかしくないじゃん? みんな知っての通り、渡部は現在進行形で罪を犯しまくってる男だった。〈魔女〉の声を聞く条件は揃ってる。そして実際、渡部は姿を消してしまった……」
「やめろ!」
突然の大声にラウンジ全体がビクッと驚いた。
上島たちが囲んでいるテーブルの隣、そこに陣取っていた木多嶋という三年生が、こちらを睨みつけていた。
「さっきから黙って聞いてりゃ、つまんねえ話ばっかしやがって!」
上島たちはぽかんと木多嶋を見つめ返した。
怒鳴られて身がすくんだというよりは、なぜ彼が怒っているのかわからなくて、呆気に取られていた。
「女の声ぇ? はあ? するわけねえだろ! 渡部はあたまおかしくなってたんだよ!」
と、椅子を蹴って立ち上がる。
「おまえらそんな話しかできねえわけ? あーあ、こんなとこ、もううんざりだわ! 男ばっかし! 男しかいない! しかも、あたまおかしいか、そうでなきゃ、タマなし野郎しかいない! あー、つまんねー! 女はいねえのかよ、おんなおんな! 女とやりてえなー! レイプしてえなー!」
過激な言葉に一瞬みんなギョッとする。
木多嶋は芝居がかったしぐさで、ラウンジをぐるりと見回した。
「おまえらもしたいだろ? おまえも、おまえも、おまえも、童貞のまま死にたくないだろ? やりに行かねえ? どうせみんな死ぬんだし、下の町にだって若い女さがせばまだいるだろ? みんなでやれば怖くないって! あー、セックスしたい! セックスセックスセックス!」
セックスセックスと連呼しながら木多嶋はラウンジの出入り口へ向かった。
なんだか居た堪れなくて、上島は木多嶋から目を逸らした。
言っていることは粗暴で派手でも、どうせ実行なんかしやしないとわかっているから、空回っている感がすごくて、それがまた哀れっぽいのだ。
……木多嶋は、もともとはあんな性格ではなかった。声は大きく口は悪かったが、それはお調子者ゆえで、いつもみんなを笑わせるようなことばかり言っていた。ことあるごとに突っかかるような、攻撃的な性格になったのは、混乱期以降だ。
上島は木多嶋みたいな人を見るとちょっと悲しくなる。
でもいちいち憂いてもいられない。
気を取り直し、さあゲームを再開しようか、とテーブルに向かったとき、背後で木多嶋がまた吠えた。
「邪魔なんだよ!」
声がしたほうに、反射的に目を向ける。
木多嶋と向かい合う形で、ラウンジの出入り口の前で誰かがしりもちをついていた。
綾彦だ。
ラウンジから出て行こうとした木多嶋と、廊下を歩いていた綾彦が、衝突したらしい。元バスケットボール部の木多嶋は、かなり大柄だ。ひょろひょろした綾彦のほうが、跳ね飛ばされてしまったのだろう。
みんなの視線が綾彦から上島へ移動する。
上島は何を言われるまでもなく立ち上がった。
と、そのとき。
「木多嶋か? なに騒いでる!」
廊下の向こうから芹沢寮長の声が近づいてきた。
予想外ながら心強い援軍にホッとしつつ、上島は綾彦に駆け寄った。俺はなんもしてねえよこいつがぶつかってきたんだよ! とでかい声で主張する木多嶋と、うるさいな喚き散らすほどのことじゃないだろ、と呆れたふうな芹沢寮長。大柄なふたりの足もとには何枚もの紙が散らばっていて、綾彦は床にひざまずいてそれを拾い集めていた。彼がいつも抱えているクロッキー帳に挟んであった紙らしい。木多嶋とぶつかった拍子に落としてしまったのか。
大丈夫かとわざわざ声をかけるのも何か違う気がしたから、特に何も言わないまま、上島も拾うのを手伝った。自然、紙に描かれているものも目に入る。綾彦が描いたものを見るのは久しぶりだ。こんな形で見ることになるなんて、と複雑な気持ちになりながら、まず、手近に落ちていた紙を一枚、拾い上げる。
綾彦は絵が上手なのだ。
子供の頃から、何を描かせても、うまかった。
それなのに。
「なに、これ」
そこに描かれていたものは、走り書きのような、黒いかたまり。
ラフなスケッチのようにも見えるが、でも、ものがなんなのかわからない。
形がはっきりしない。
もやもやした、黒い、煙、もしくは、影、のような――
「ひッ」
息を呑む声。
顔を上げると、木多嶋が凍りついたように上島を見下ろしていた。
怒りで白くなっていた顔を、今後は引き攣らせながら。
「……なんだよ、それ」
「え?」
「てめえ、どういうことだよ、これは……ふざけんな! 喧嘩売ってんのか!」
そう言って、上島に詰め寄ろうとする。
上島は中腰のまま慌てて何歩か退がった。
まったくわけがわからない。
上島は木多嶋に何も言っていないし、何もしていないのに。
「木多嶋! いい加減にしろ!」
芹沢寮長があいだにいなかったら、上島は木多嶋に掴みかかられていたかもしれない。
勢いを殺がれた木多嶋はわざとらしく舌打ちして、その場から大股で立ち去った。
そうこうしているあいだも紙を掻き集めていた綾彦は、上島の手にあった一枚もスッと抜いて回収していった。すべての紙をクロッキー帳に挟み直して、立ち上がる。くるりと背を向けるなり、木多嶋が消えた方角とは逆の、階段のほうへ歩いていってしまった。
あとには、ぽかんとするばかりの上島と、疲れた表情の芹沢寮長が残った。
「なんなんだよ、一体」
「……わかりません」
「おまえら、木多嶋に何したんだ?」
「わからないんです、本当に。急に怒りだして」
「……あんまり刺激してやるなよ。あいつ、ちょっと情緒不安定なんだから」
なんで僕が怒られてるんだ?
釈然としないながらも「はい」と頷いておく。
その後テーブルに戻って続けたアマランサスにも負けてしまったし、散々だ。
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