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数年前から顕著だった海面上昇の加速傾向が「一時的なものではない」とわかったとき、みんな混乱した。
まだ記憶に新しい。
それはもう目も当てられないほどの動転ぶりだった。
まず実害を被ったのは、海抜の低い土地で暮らしていた人々で、突然降って湧いたようなこの不幸に彼らは苦悩し、怒り狂ったけれど、結局は粛々と立ち退くしかなかった。その悲しく深刻な姿を見て、低い土地に住んでいるわけではない人々も焦り始めた。
人々は少しでも高い土地へ逃れようと移動を始めた。
主要道路は二十四時間ずっと大渋滞。引っ越し業者やレンタカー業者、周辺小売店、ガソリンスタンドなどがパンクし、これにまつわる詐欺も横行して、あちこちで諍いが起こり、事件事故殺人が激増した。突然なだれこんできた人々に対応できず、高地には難民キャンプみたいな施設がいくつもできて、地元住民とのトラブルがひっきりなしに発生。これと対になるように、ゴーストタウン化する町もあちこちで生まれ、治安が悪化。当然、衛生状態も悪化。人心は坂を転がり落ちるように荒廃し、モラルも薄れた。事態はすべてあっという間に加速した。政府や自治体の対応は後手後手に回って、混乱はさらに収拾がつかなくなっていき、そのことにまた人々は不満を募らせる、悪循環に陥った。
海面は上がり続ける。
島国である日本は特に海岸沿いに大規模な工場や発電所が多い。あらゆる産業もインフラも物流も滞り、ほぐしようがないほど固く絡まった糸みたいに複雑に混乱して、どこから手をつければいいのか誰にもわからないくらいだった。
動機のよくわからない殺人事件が毎日起こり、集団自殺もあちこちで起こり、怪しげな新興宗教が雨後の筍のように湧いた。胡散臭い科学者は胡散臭い説を唱えてはマスコミに叩かれたり持ちあげられたりした。「海上都市」だなんてSFみたいな大規模プロジェクトが次々と浮かんでは消えた。製造が追いつかないくらいに船が売れて、業界は「方舟バブル」と呼ばれる皮肉な好景気に沸いた。木材や金属の値段が高騰し、山頂部など極端に高所の土地の値段が高騰し、そういう話題しかしなくなったテレビでたまに流される再放送のドラマやアニメなどの視聴率も高騰した。
世界中、大体どこもそんな感じだった。
なぜ海面上昇が始まったか。なぜ止まらないのか。
理由は諸説ある。が、いまだ誰も正確な理由を知らない。
知ったところでもはやどうしようもないのかもしれないし。
たしかに人々は混乱に陥って、右へ左への大騒ぎになったけれど、でも、そんな躁状態も長くは続かなかった。人々が慌てふためいているのもどこ吹く風で、海面の変化はゆっくりと穏やかなものだった。確実に上昇してはいるのだけれど、それは、今日明日でどうにかしなければならない一刻の猶予もないというものではなかったから、人々は徐々に我に返って、冷静かつまともな生活を取り戻していった。人々には、これからどうするべきか、どう生きるのがよりよいのか、それを考えるのに充分な時間が与えられていた。
今は、みんな、ただぼんやりと海面を見ている。
・
弱々しく揺れる蝋燭の明かりの中、洗面所で羽根を洗う。
今日、道端で拾った、あの黒い羽根だ。
こういう作業はもう何度もやっているので慣れたものだ。
食器用洗剤を少量溶かしたぬるま湯で、撫でるように洗い、汚れを落とす。
水で流し、もう一度、ぬるま湯でそっと洗う。このあと、乾して、蒸気を当てつつ形を整えなければならない。でもそれは綾彦がやればいい。
灰皿を加工して作った燭台を手に、廊下を進む。
計画停電のため、今月この地域は二十二時から約二時間、電気が使えない――月が変わったら、また時間帯がズレてくれるのだが――だから、日没以降に備えて明かりは各自で用意しなければならない。面倒だし不便だし負担は小さくないが、毎日のことなのでもう慣れてしまった。
懐中電灯などもあるにはあるけれど、電池を消費するのがもったいないということで、この寮ではいつしか安価な蝋燭を使うのが主流になっていた。火の扱いと無駄遣いにさえ気をつければ、各人で使用してもいいことになっている。これはおもちゃでも嗜好品でもなく生活必需品で、取り上げられれば困るのは自分たちだ、という緊張感が各自にあるからか、これまで、火で大きな問題が起こったことはない。
1111号室のドアをノックする。
「綾彦、入るぞ」
返事はなかったが、開けた。
綾彦は、開いたドアには見向きもせず、それどころか顔も上げず、蝋燭の明かりの下、床に座りこみベッドに背を預け、隠すように抱えこんだクロッキー帳に一心不乱に何かを描いていた。
何を描いているのかは、知らない。
見せてくれない。覗こうとしても、隠されてしまう。
感情なんかどこかに置いてきたように空虚に振る舞うくせに、絵を見られるのはいやということだけは、そこだけは、やけにはっきりしていた。
光生寮の居室は、基本三人部屋だ。一年生から三年生、各学年ひとりずつ入ることになっているけれど、今年度に限っては一年生がいないので、二年生と三年生ふたりで一部屋を使用していた。
が、今、1111号室は、綾彦がひとりで使っている。
1111号室の三年生は、夏休みに帰省という名目で寮を出たが、夏休みが明けても寮に戻ってこなかった。寮自治会が彼の実家に連絡を取ろうとしたのだが、何度試みてもつながらなかったらしく、だから、彼が今どこで何をしているか、誰も知らない。
「これ、拾ったから、やる。一応、洗っといたから」
と、羽根をかざすが、返事はない。
まあ、いつものことだ。
綾彦が心を閉ざすようになって何ヶ月も経つ。
もうずいぶん長いこと綾彦の声を聞いていない。
「ここに置いとく」
上島は勉強机の端に羽根を置いた。
綾彦は、上島の母方のいとこだ。
綾彦の父親と上島の母親が兄妹なのだ。だから姓が違う。
母方の家はみんな仲がよく、冠婚葬祭など特別な用事がなくても、しょっちゅう互いの家を行き来していた。同い年の綾彦と上島も、物心つく前からよく一緒に遊んでいた。ふたりともひとりっ子だったから、互いを兄弟のように思っていたし、周りからもそのように扱われた。容姿もなんとなく似ているせいで――上島自身は「似てはいない」と思っているのだけれど――事情を知らない人から実際に兄弟と間違われることも、ままあった。
だからというわけではないが、綾彦の面倒は上島が見る、というのが、暗黙の了解みたいになっていた。といっても、綾彦は何もできなくなってしまったというわけではない。放っておいても食事はとるし風呂には入るし自分の分の支給物資は自分で取りに行く。だから上島は特に何をするというわけではなく、こうしてときどき声をかけてやったり、差し入れしてやったり、そういうことを思い出したときにするだけだった。
母方の家の男子は、よほど学力に難がなければ、美奈岸高校に進むことが慣例のようになっていた。綾彦の父親も、母方の祖父も、祖父の兄弟も父親も、みんな美奈岸高校の卒業生だ。だから、上島も綾彦も、なんの疑問もなく、ここへ進学し、入寮した。
寮に入ってるあいだに世界が歪むとは思っていなかったから。
綾彦がこんな状態になるとも、思っていなかったから。
「おやすみ、綾彦」
やはり返事はないが、いつものことなので、気にしない。
上島は、鉛筆の走る音だけがさらさら響く1111号室を、そっと出た。
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