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〈右に65〉メートル行った先には〈↑159〉の看板があった。

〈右に159〉メートル進んだ先にあったのは〈↑42〉の看板。

〈右に42〉メートル進んだ先にあったのは〈←67〉の看板。

「……〈上〉って、なんだ」

「このまままっすぐってことだろ」

 そうかなあ、と小吉は訝しげだったが、実際〈上に67〉メートル進んだ先には〈↑92〉の看板があった。


 黒い羽根が落ちていた。

 小吉がメモを取ったり写真を撮ったりしているあいだ手持ち無沙汰になる上島は、特に深い考えもなくそのへんをうろうろしていたのだが。

 膝を折って、手に取ってみる。

 汚れたり欠けたりしていない、綺麗な状態だった。

 筆で刷いたような一筋の白い模様があるので、鴉の羽根ではない。鴉なら黒一色だ――あれも、のっぺり黒一色のようでいて、よく見ると玉虫色の光沢があり、綺麗なのだが――燕のものでもない。季節が違う。

 なんていう鳥のものだろう。

 わからないけれど、一応、拾っておくことにした。

 綾彦へのお土産だ。

 上島はポケットティッシュを一枚出し、それに羽根を挟んで、パーカのポケットにしまった。

「よし、次、行くぞ」と小吉が振り返る。


 上島と小吉は「看板を見つけて看板が示す通りに進む」ということを、愚直なまでに繰り返した。看板が示した先に次の看板がなかったことはなく――どこかに引っかけてあったのであろうものが外れて、地面などに落ちていることは何度かあったが――また、見つけられなくて途方に暮れるようなこともなかった。

 その代わり、劇的な発見もなかった。

 同じ展開がこうも何度も続いてしまうと、状況に慣れてしまって、当初は少なからずあった緊張感も薄れる。

 上島と小吉はダレ始めていた。

 それに、ちょっと疲れてきていた。きちんと計算はしていないが、トータルではかなりの距離を歩いたことになるはずなのだ。もしかしたら、ほとんど町内一周したかもしれない。

 そして、このまま行くと――

「元の場所に戻っちゃう気がする」

 小吉の言葉に、上島は「うん」と力なく頷いた。

 元の場所、というのは、もちろん、上島らの出発点である「ウキタ屋の裏」のこと。

〈↓93〉の看板を前に、ふたりは顔を見合わせた。

「……まあ、でも、とにかく行ってみよう」

 そわそわと気は急くが、早足にならないよう、じりじり、じりじりと一定の速度で歩き、そして、九十三秒後。

 上島らにとっての最初の看板、ウキタ屋の裏で、止まった。

「なんだよこれえ」

 小吉は折れるようにうなだれた。

 上島も、さすがに、肩を落とさずにはいられなかった。

「あーあ、やっぱいたずらだったか。しょうもねえなあ」

「いや、でも、そんな……こんなはずでは」

 小吉が渋い顔をする。

 もうどうでもよくなってきた上島は適当に言った。

「いいじゃん、ありのまま記事にすれば。町に点在する謎の看板を素直に追っかけたら町内一周させられました、って。みんなも気をつけてね、って。せっかく写真も撮ったんだしさ。バカバカしいけどそれなりの記事にはなるんじゃねーの。あ、でも、僕の名前は出すなよ。バカを見たやつみたいで恥ずかしいから」

「やり方が悪かったのかな。やっぱり単位が違う? それとも、他に何か見落としてるのか」

「知ィらね。僕もう帰るぞ」と上島が歩きだしたとき。

「ちょっと待て」と小吉が硬い声を出した。「なあ、これ見ろ」

「ああ?」

 ほとんど投げやりに振り返り、小吉が指すものを見る。

 ウキタ屋裏の看板を。

 そこには〈↑108〉と書かれていた。

 上島は思わず足を止めた。

 小吉の顔は引き攣っていた。

「変わって、る……よな、これ。ここ、前は〈右に137〉だったじゃん」

 そうだ。間違いない。

 さっきはたしかに〈↑137〉だった。

「……変わってる、な」

「なんで? 誰が?」と小吉がなんとなく不安そうに返す。

 なんとなく不安なのは上島だって同じだ。

「誰かなんて、わからない。でも、……あ、ちょっと待てよ」

 上島は振り返り、看板が指し示す方向を見やった。

〈右に108〉メートル先を。

「数字が変わってるってことは、距離が変わってるってことで、つまり、次の看板の場所もずれてるってことだよな?」

 どちらともなく歩きだした。次の看板に向かって。

 前回、第二の看板は、軽自動車の下に落ちて隠れていた。これもよく覚えている。あのときは〈↑200〉と書かれた看板だったが……

〈↑75〉。

〈右に108〉メートル進んだ先にあったのは、そんな看板だった。

 T字路の角に、引っかけられていた。

 上島と小吉は顔を見合わせた。

 お互い、顔が強張っていることがわかる。

 小吉がハハッといかにも無理やりに笑った。

「な、なんだよ、怖くなってきた? びびってんなよなー」

 他人のこと言えねえだろ、の意味をこめて小吉の肩を殴りつける。


 看板の記号と数字が指し示すほうへ歩くこと二周目。

 上島と小吉は波打ち際の近くまで来た。

 本当は、海岸線から三十メートル以内は「警戒区域」とされているので近づいてはいけないことになっているのだが、海岸線が近いというだけで道路などは普通に使えるし、見張りがついているわけでもなく、目印が打ってあるわけでもないから、意図的にせようっかりにせよ、近づいたとしても誰かに何か言われるということはなかった。

 小吉が海に向かって少し目を細めた。「また短くなってるな」

「灯台が見えるのか? 目ェいいな」

「余裕で見える」

 そう言って、少し沖のあたりを指差す。

 いかにも冷たそうな色の海面から、白い塔状の構造物がひとつ、ちょこんと顔を出している。

 あれは、かつて、灯台だった。惰性でいまだに「灯台」と呼ばれているけれど、いまやその半分以上が海水に浸かってしまっているので、灯台としては使い物にならない。が、位置的にも形状的にも、海面の変化を観測するのにちょうどいいから、目盛り代わりに使われている。

 あたりは死んだように静かだった。

 野良猫の一匹さえいない。鳥も、蝿もいない。

 海面を渡って吹きつけてくる風は刺々しく冷たい。

 ただ、時折、少し離れたところから「ズシャズシャ」「ズシン」「ドボボン」と何か大きなものが崩れる音がする。海水に浸った建物が、傷み、朽ちて、倒壊した音だ。この町に住んでいれば比較的頻繁に聞かれる音なので、特に驚かない。

「……新聞に使われてる写真って、いつも小吉が撮ってんの」

「うん。大抵は」

「へえ」

「現像も自分でやる」

「マジか」

「写真屋に持っていこうにも、まともに現像できる写真屋が、もう近くにはないから。写真部の備品そのまま使わせてもらってる」

「へえ」

「興味ある?」

「別にそういうわけではないんだけど」

「そう。ならいい。撮りたいなら限りがあるぞって言いたかっただけだから」

「限り?」

「現像液がさ、残量もうそんなに多くなくて。新規に購入してもらうのも無理だし。フィルムとかはまだかなり余裕があるんだけどな。バランス悪いんだ。使わせてもらってる身だから、あんま文句言えないけど」

 このあたりの波打ち際には、不思議と、何もない。

 様々なものが打ち上げられていてもよさそうなものなのだが。

 そのぶん、少し沖のほうに、ゴミの溜まりが浮いているのが見える。退避していった人たちが置いていったのであろう日用品、どこかに立てられていたのであろう真っ赤な三角コーン、倒壊した家屋の一部……いろんなものが入り混じって固まって、ちょっとした小島みたいになりながら、町をつかず離れず、漂っている。

「現像液もフィルムもナマモノみたいなもんでさ、使用期限あるんだけど、フィルムは冷蔵庫とか冷凍庫でかなりごまかせるんだよな。でも、現像液はねえ、どうすれば一番いいのかいまだによくわかんなくて。俺がそこまで詳しくないってのもあるんだけど。教えてくれる人もいないし」

「……なあ、写真部って」

「もうとっくになくなってる」

「そうか、やっぱり……でも、写真部って、部員めちゃ多くなかったっけ」

「多いのは、名簿上だけ。真面目に活動してるやつ、そんなに多くなかったよ。前の部長が引退するとき、現状清算するつもりで実績のないやつを除名してったら、誰もいなくなっちゃったんだ」

「へえ……」

「俺は幽霊部員なんかよりよっぽど頻繁に出入りしてたから、先生もいまだに好き勝手に使わせてくれてる。でも、考えてみれば、ほとんど兼部してるようなもんだったし、入部しといてもよかったな。届けの紙一枚で済むことだったし。そしたら、もしかしたら、今もまだ写真部は消滅してなかったかもしれない」

 なんて言っても仕方ないことだけどな、と小吉は笑った。つられて笑ってやるわけにもいかず、上島は曖昧な表情を浮かべる。

「コラ!」

 上島と小吉はビクッと飛びあがった。

 大声にも驚いたが、このあたりで誰かに声をかけられるということ自体にも驚いた。そんなこと、今までなかったから――と言えるほど、頻繁にここまで遊びに来ているわけではないのだけれど。見ていて楽しい光景でもないから――

 ふたりして、おそるおそる振り返る。

 少し離れたところに立っていたのは、中年の女性がひとり。

「そこで何してるの!」

 眉を吊りあげて、こちらを睨んでいた。

 ちらほら白髪の混じる長めの髪はまとめもせず流しっぱなしで、海からの風に吹きつけられてバサバサ振り乱れていた。色褪せたワンピースの上に、分厚い毛糸のショールを巻きつけている。

 右手には、何かひょろっと細い棒を握っていた。歩行を補助するための杖などではないだろう。棒の先、地面と接している部分が、車輪のようになっている。

 いや、それより。そんなことより。

 彼女が束にして左手からさげているもの。

 A4サイズくらいの薄いベニヤ板。上部二ヶ所に穴が開けられ、ビニール紐が通されている……

 あれは。

「そこから離れなさい!」

「あ、あの」

「こんな時間にこんなところまで来る子は悪い子よ! 悪い子は引きずりこまれるわよ!」

 あ。この人……

 と、上島は早々に察した。

 このおばさんとは、おそらく、会話らしい会話はできない。

 一般的な理屈が通じない人特有の、ある種の頑なさが、その目には宿っていた。

「ほら、危ない! 早く帰って! あなたたちみたいのが、一番危ないんだから!」

 どんな時代のどんな地域にも、こういう人は一定数いたのだろうと思う。が、近年、こういう人の割合は、ちょっぴり増えた。

 似たような目つきの人が、校舎や寮に無断で立ち入って「君たちのような有望な若者がこんなところにいちゃいけない!」「私が君たちを守る!」と演説をぶつ光景も、もっとも混迷した時期、頻繁に見かけた。見知らぬ大人は警戒対象以外の何ものでもない、そういう時期が、あったのだ。

 だからこの時点で上島は、なんとなく、呑みこんでしまった。

 なるほどこういう人だったか、と。

 これが事の真相か、と。

 このおばさんが左手にさげる、まだ何も書かれていないらしいベニヤ板の束が、何よりも雄弁に真相を物語っていた。そして、右手に持っているあの道具。細い棒と車輪が組み合わされたようなあれは、ロードカウンターとかウォーキングメジャーとか呼ばれる道具のはずだ。かなり用途の限られる道具だが、個人が持っていたって別におかしくもなんともない。たぶんホームセンターなんかで売っている。

 合点が行ったのと同時に、シラけてしまった。

 なーんだ、そんなことか、と。

 でも「謎」や「真相」なんて、案外そういうものかもしれない。

 そして、少しばかりガッカリしている自分に気づく。

 ガッカリしている、ということは……あの看板が何か特別なものであればいい、と、思っていたのだろうか。もっと神秘的で驚異的な何かを、心のどこかで、期待していたのだろうか。

 自分にもまだ、そんな気持ちが、残っていたのか……

「何してるの、早く!」

 おばさんは、今にもこちらに詰め寄ってきそうな剣幕だ。

 こういう人の機嫌を損ねるようなことはしないに限る。今すでに機嫌が悪そうならなおさら。

 もうどうでもよくなってしまった上島は、さっさとその場から立ち去ろうとした。が、小吉はその場から動こうとしなかった。

 上島がハッと顧みたときには、時すでに遅し、小吉は「あのう」と、おばさんに話しかけていた。

「引きずりこまれるって、海へ、っすか?」

 おばさんは重々しく頷いた。「そうよ」

「何に?」

「だから、海に!」

 ああ、なんか、会話しちゃってる(?)し……

 小吉はどういうつもりなのだろう。

 小吉はバカではない。どころか、上島よりずっと目敏いかもしれない。だから、もう気づいているはずなのだ。このおばさんを目の当たりにした時点で。「謎の看板は、このちょっとあぶなそうなオバサンが下げて回っていたものだ」ということに。そして、その行為に、意味らしい意味なんて――第三者が聞いて腑に落ちるような意味なんて、きっとないだろう、ということに――

 それでもなお訊きたいことがあるというのか。

 上島はもうどういうテンションでこの場にいればいいのかわからず、ただ事の成り行きを見守るしかなかった。

「海に、海へ、引きずりこまれるんすか?」

「そう!」と頷いてから「ああ、いいえ、違う」とおばさんは苦悩の面持ちで俯いた。

「違うのよ、正確には……言っていいものかしら。でも……あなたたちも、そうね、そろそろ、真実を知っておいたほうがいいかもしれない。でも……」

 と、何やら言いよどむ。

 小吉はジッとしている。待つつもりらしい。

 どうする気だよ……と半ば呆れつつ、上島は改めてこのおばさんを観察した。

 怒りと苦悩で顔を歪めていなければ、目の周りに黒々とした隈がなければ、噛み締められた唇が瘡蓋だらけでなければ、キレイな、と評していい奥さんだったろう。身に着けているものも、着古されてくたくたになってはいるけれど、不衛生な感じはしない。この近くにちゃんと家があって、ちゃんとした生活を営んでいるのに違いない。

 それが、何を思って、こんな、無意味で、不気味なことを、しているのか。

 知りたいような気もする、が……でもやはり、どうでもいい気持ちのほうが強い。

 このおばさんが、どんな複雑怪奇な事情を抱えていても、おかしくないのだから。

 いまどき「事情」を何ひとつ抱えずに生きている人のほうが、少ないのだから。

「正確に言うなら、それは、魔女……魔女なのよ」

 一瞬、ん、なんの話? と思ってしまった。

 直前に言っていた「あなたたちも知っておいたほうがいい真実」の話だ、と、すぐに気づく。が、すでに心底シラけてしまっている上島の耳にそれはかなり寒々しく聞こえた。

 魔女ときましたか、ファンタジーですね……

 小吉も「まじょ」と確認するように呟く。

 おばさんはお構いなしに説明を続ける。

「恐ろしい魔女なのよ。魔女はね、若い男が好きなの。キレイな歌で誘って、若い男ばかり狙って、海に引きずりこんでしまう……なぜ、ここに、この町に、上がって来るかっていうと、あれが、あるから」

 と、背後の丘を振り仰ぐ。

 丘の上、この坂の町の一番高いところにある建物。

 美奈岸高校を。

 それから、上島と小吉に向き直った。

「あなたたちもあの学校の生徒でしょう」

 ふたりは返事できなかった。

 知らない人に訊かれても名前や住所を教えてはいけません。

「いいのよ。顔つきでわかるの。あの学校に通っている子は、みんなそう。みんな、賢そうな顔してる……私の息子も、そうだった」

「息子さん、ミナ高なんすか」と、躊躇いもなく質問する小吉。

 おばさんは頷いた。

「ミナ高だった。生まれも育ちもこの町で、ミナ高に行くのが当然と思ってた。うちから歩いて通えるし……賢い子だったのよ。母親の私が言うのもなんだけど。でも、魔女に殺された。海に引きずりこまれて死んだ」

 殺されたとは穏やかではない。

 でもこのおばさんが言っていることがすべて真実とは限らない。

 話半分、どころか、七割引き、八割引きくらいで聞かなければ。

 おばさんは顔をくしゃっと歪めた。

「魔女は、夜な夜な海からやってきて、あの学校を目指すの。男を、海に引きずりこむために……罪を犯した若者にしか、あの歌は聞こえない。そういうものなのね。息子は怯えていた。歌が聞こえるって。でも私にはわからなかった。聞こえなかった」

 毛糸のストールを、骨の浮いた手で、ぎゅっと握り締める。

「なぜ息子だったのかしら。私を引きずりこんでくれればよかったのに。私のほうがよっぽどいろいろな罪を犯しているのに……だから、私、納得できないの。だって、そりゃ、息子は、たしかにちょっといけないことしたかもしれないわ。でも、魔が差すなんてこと誰にでもあるでしょう。特に、あの頃は……悪いことのひとつでもしないと、まともに生活できなかったときだったもの……わかってくれるわよね?」

「息子さん、何をしたんすか」

「どうだっていいでしょ、そんなこと!」

 おばさんがくわっと目を剥いた。

 突然の大声に上島の肩はビクッと震え、小吉もさすがに黙った。

 おばさんはすぐにまたしゅんと俯いた。

「……だから、私、悲しくて、悔しくて……魔女が憎くて、もう二度と魔女に若者を奪われたくなくて……だから、魔女を惑わすために、この看板を、下げて回っているの。私には、そんなことしかできないから」

 と、右手のベニヤ板を揺らす。

 小吉が「なるほど、魔女を追い払うために」と頷いた。

 いやいや。何が「なるほど」だ、全然腑に落ちねえよ。

 ツッコミたいところだらけだ。

 でも、いちいち茶々を入れることさえ、意味はないのだろう。

「私が邪魔をして、うまく獲物を捕らえられなくなったせいでしょうね、最近の魔女は、形振り構わずといった様子で……日を追うごとに厳しい戦いになっていく。でも、大丈夫。私、挫けたりしないから。だって、これは息子の敵討ちよ。いい? もし私が負ければ、あなたたちだって、ただでは済まないのだから。あの学校は、春を迎えることができなくなるのだから。……さあ、早く帰りなさい。まだ明るいからって、こんなに海に近いと、危ないわ。魔女が来るわよ。歌いながら。悪い子だと思われてしまうわよ、こんなところにいたら」

 この人に誰が何を言えるだろう。

 上島も小吉も黙っていた。

「帰りなさい!」

 怒鳴られ、上島と小吉は慌ててその場をあとにした。


 黙々と歩いた。

 ウキタ屋の前も通り過ぎて、寮へいたる坂をあがっているとき、小吉がクッと笑った。

 上島はそれを睨んだ。「なに笑ってんだよ」

「いや、だって」

「笑い事じゃねえだろ」

「おまえも笑ってんじゃん」

「……ぶはッ」

 ここまで来てやっと緊張感から解放され、冷静になって、そうするとなんだかここにいたるまでのすべてがバカバカしくなり、脱力してしまって、その気のゆるみは抑えきれない笑いとして噴出した。小吉もたぶん似たようなものだろう。具体的に何がそんなに可笑しいのかうまく説明できない。いや、笑っていいことなど、何もない。無意味で不謹慎だ。でもとにかく上島と小吉は坂の途中でしばし腹を抱えて笑ったのだった。

 やっと一息ついたところで、目尻に浮いた涙を拭いながら、上島は訊いた。

「これ、記事にするのか?」

 小吉も袖で涙を拭いながら、今度は苦笑を浮かべた。

「できるわけないだろ」

 そりゃそうだな、と頷き、寮に向かってゆっくり歩きだす。

 道端の防災無線が震え、夕刻を告げる音楽を流し始めた。


 ゆううううるるるるええええ

 あああまのうううれらろろろ


 毎日、正午と夕刻に、この音楽が流される。

 メロディが、ドップラー効果でもかかっているかのように不安定に小さくなったりひずんだりする。機器が故障寸前なのか、あるいは、テープがのびているのか。ノイズもひどいし、聞くたびなんだか不安定な気持ちになる音楽だ。毎日聞いているのでもうすっかり慣れてしまったが、最初はやはり少し怖いと思ったものだ。

 ウキタ屋に寄って食料を買うことさえせず、まっすぐ寮に向かった。そろそろ食堂が開く時間になる。上島と小吉は、ずいぶん長い時間、町を歩き回っていたのだ。

 パンや菓子などでごまかすより、もう、がっつり夕食をとってしまいたい。

 今日は日曜だからカレーライスだ。

「カレー食いてえ」

 思わず呟いた。

 それにしても、くだらないことに試験前の時間を費やしてしまったものだ。上島はひっそり後悔しながら寮への坂道をのぼった。

 でも……

 と、心の奥底で顧みる。

 あのおばさんの言っていることは、少しだけ、当たっている。

 だって、今年度で美奈岸高校は廃校になるから。

 すでに前年度から新入生の募集は停止されている。そのためミナ高には現在一年生がいない。二年生と三年生しかいない。

 ミナ高がなくなるということは、もちろん、光生寮もなくなる。

 だから、そう、あのおばさんの言っていることは、少しだけ、当たっている。


 この学校は春を迎えることができない。


 それを阻止するために戦うのだと、あのおばさんは言っていたけれど……

 だとすれば、つまり、あのおばさんは、どう足掻いたって、負けるのだ。



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