ワールドエンドワンダーランド ぼくらの寮と町と魔女について

42℃

1-1




 寮の玄関を出たところでクラスメイトの小吉と鉢合わせした。

 日曜日、昼過ぎのことだった。

「上島、いま暇?」

「暇ではない。ウキタ屋行くし」

 ウキタ屋というのは、坂の下にあるコンビニエンスストアだ。

 コンビニエンスストアといっても二十四時間営業ではなく、年中無休でもない。品揃えも正直あまりぱっとしない。しかし、この寮の徒歩圏にある商店らしい商店といえばウキタ屋だけだから、寮生にとってはやっぱりコンビニエンスなストアなのだった。

 小吉は「ちょうどいいや」と頷いた。

「何が」

「ちょっと、取材に付き合ってよ」

「取材? ……ああ、新聞の」

 小吉は新聞部だ。

 よく、ごつい一眼レフを首からさげて歩いている。

 県大会で入賞した誰々にインタビューとか校庭の隅に植わっている桜の木の由来とか同窓生の活躍がどうだとか、どうでもいい記事ばかり載っている印象が強いので、上島はあまりちゃんと読んだことがない。が、見通しの暗い現実と胡散臭い広告しか載っていない地方新聞なんかよりずっと面白い読み物だ、と言う者もいる。

「気になるだろ? どんな取材か」

「いや、別に」

「謎の看板を追ってるんだ」

「だから気になってないって」

「ウキタ屋の裏の道に〈右に125〉って書かれた看板があるの、知らない?」

「知らない」

「あるんだよ。すごいヘンだから、見たらすぐにああこれかってわかるから。じゃあさ、とりあえず一緒に行ってみよう。ウキタ屋まで行くのは同じなんだし。百聞は一見に如かずってことで」

「いいってのに……」

 小吉が「よし、そんじゃあ、出発!」と、やかましく歩きだす。上島としては小吉に付き合う気は微塵もないが、残念なことに行く方向が同じなので、結局並んで歩くことになった。

 小吉は背が高い。

 体育の授業を見る限り運動神経もいいほうだったし、本人も体も動かすのは好きな様子だ。もしかしたら、高校に入る以前、何かスポーツをしていたのかもしれない。実際、バスケ部やバレー部などから幾度となく誘いはあったようだ。体育会系の部活動がまだ盛んに行なわれていた頃の話だけれど。

 しかしそれらの誘いをすべて蹴って、小吉は新聞部に居座っている。

 上島はといえば、コンプレックスをいだくほど背が低いわけではない(と思う)が、小吉と比べるとどうしても小柄だ。

 こうして並んでしまうと、否応なくその差が目につく。

「名前はちっさそうなくせして……」

「え、今なんか言った? 聞こえなかった」

「なんも言ってませーん」

 空を見上げる。

 なんだかおかしな空模様だった。

 雲が多いのに、雲間から射す日の光がやけにピカピカしているせいで、明るい。でも、どんより曇っていて、とにかく違和感。ラジオの天気予報では降水確率ゼロパーセントと言っていたから、傘は必要ないと思うが……

 風も少し強いようだ。

 羽織るものを持ってきて正解だった。上島はのろのろとパーカに腕を通した。


 美奈岸高等学校、通称「ミナ高」。

 小高い丘の上に建つ男子校だ。

 県内で最古参の高校のひとつでもある。

 そこそこのレベルの進学校として知られているが、もっとも特徴的なのは、生徒の約半数が寮生活を送っている、ということだろう。

 寮は、校舎から歩いて数分、同じ丘の上に建っている。

 住宅地からは距離があり、周囲は常緑の木々に囲まれるばかりで閑静だ。

 門に掲げられた緑青浮く真鍮の表札には、堂々たる楷書で「光生寮」とある。

 ただ、建物自体は、そのキラめかしい名前に反してずいぶん寂れていた。

 竣工したてのときは輝かんばかりに瀟洒な洋館だったのだろうが、いまや、白い壁は洗っても洗っても落ちない砂色に濁り、鉄部分は錆にまみれている。


 寮の前の道は少し急な坂になっており、のぼれば学校、下れば町に出る。

 ウキタ屋があるのも、この坂沿いだ。

 寮からは、ダラダラ歩いても、五分とかからない。

 本当に、すぐに見えてくる。

 ここ以外では見かけることのないマイナーなメーカーの自動販売機。元の色がなんだったのかわからなくなるほど褪色したストライプのテント。今にも傾きそうなほどに古めかしい看板には、屋号と共に、レトロなフォントで「毎日ウキウキ まちのみんなのコンビニエンスストア」なる謳い文句が躍っている。

 木枠のドアのガラスから透かして見る店内には、寮生がちらほら入っていた。寮の食堂で出される食事だけでは足りない育ち盛りたちが、インスタントラーメンや菓子や惣菜パンを買いこんでいくのだ。

 上島もまたここで何かしらの食料を買うつもりだったのだが。

「こっち、こっち」

 いちいち突っぱねるのも面倒になってきた。落ち着きなく飛び跳ねる小吉に促され、ウキタ屋の前を素通りし、そのままウキタ屋の裏に回った。

 丘の斜面の緑が生々しく迫る、狭い道だった。少し行けば住宅地に入るが、このあたりはアスファルトで舗装されているのが不思議なほどにうら寂しい。上島は、こんな道には初めて入る、どころか、初めてその存在を知った。ウキタ屋には、入学以来、何度も来ているというのに。

 小吉が指差す先を見ると、そこにはたしかに看板があった。

「へえ。ホントにある」

「そう、あるんだよ。謎だろ」

 思っていたより、ずいぶん小さい代物だった――「看板」なんて言うから、交通標語の立て看板みたいなものかと思っていたのだが――A4サイズくらいだろうか。薄いベニヤ板の上部に二ヵ所穴を開けてビニール紐を通しただけ、と、手作り感が溢れている。電柱のちょっとしたでっぱりに引っかけてあるだけで、固定もされていないようなので、何かの拍子にポロッと落ちてしまいそうだ。

「あれ?」と小吉が首をかしげた。

「なに」

「数字が……」

 定規か何か当てて線を引いたような、異様にカクカクした記号と数字が、おそらく油性マジックで太く書かれているが、記されている数字は125ではなく137だった。


   ↑137


「おかしいな。たしかに125だったのに」

「ふうん」

 何か勘違いしたんだろ、と上島は特に気にしなかったのだが、小吉は、おかしい、おかしい、たしかに125だった、と納得行かない様子である。

 首を捻りながらも小吉は一眼を持ちあげ、ぱちりと一枚撮った。

 その構えは、素人目にも、なかなか様になっていた。

 角度を変えて、もう一枚。

 それから、上着のポケットからメモ帳とペンを取り出し、何事か書きつけ始めた。

 上島はあくびをしながらそれを見ていたのだが。

「しかし、見れば見るほど気味悪いよな、これ」

 と、小吉が目の前の看板にペン先を向けた。

「そうかあ?」

「上島はなんとも思わない?」

「うーん。別に、特には」

「目的とか意図がわからないものって気味悪くない?」

「それは、まあ」

 幽霊やらUFOやら都市伝説やら、世に「怖い」と言われているものは大体すべて「よくわからない」からこそ怖いのだろう。幽霊だってUFOだって、犬猫の生態ほどに解明されていれば、こんなにも怖がられることはないに違いない。

 さて。

「ここからどうすんだ?」と、小吉に尋ねる。

 メモとペンをしまった小吉は大きく頷いた。

「実際〈右に137〉行ってみようかと思うんだけど。どう思う?」

「いいんじゃない。というか、それしかないんじゃない」

「だよな。よし、そんじゃ、行こうか」

 と、肩を叩かれた。

 上島は「はあ?」とその手を払いのけた。

「行かねえよ。つーか、なんで行く前提みたいになってんの」

「どうせ暇だろ」

「暇じゃねえよ! 明日から試験だぞ」

「そんなの気にしてんの? 試験なんか、もう、意味ないじゃん」

 上島は言葉に詰まった。

 意味ないと言われればたしかにそうなのだ。

 だが、時間をかけてコツコツ積み重ねてきたことを、その一言で済ますのも癪だった。

 上島は、この日、午前いっぱいを試験勉強に費やし、寮の食堂で昼食をとったあともすぐ試験勉強に戻り――と、それなりに頑張っていた。ウキタ屋へ行くと言って外へ出たのは、軽い気分転換のつもりだったのだ。食料を適当に買ったらすぐまた居室へ戻って、数学の演習問題に取り組むつもりだった。

 ああ、でも、そうだ。

 貴重な休日を、自室に引きこもって、参考書とばかり向き合って過ごすなんて、もったいない……と思っていなかったといえば嘘になる。

 ぐらついた。ほんの一瞬だったけれど、致命的に。

 その一瞬のぐらつきに揺らされて、上島は、なんとなく、頷いていた。

「……意味ないとは思わない。でも、勉強にも飽きたから、ちょっと付き合ってやる。メンドくさくなったらすぐ帰るからな」

 なんて、こんなことを言いつつ、実のところは、無意識のうちにも試験勉強から逃れる口実を欲していたのかもしれない。あるいは、これは気の迷いというやつだろうか。


 看板の通りに進むにあたり、素朴な疑問が生じた。

「〈137〉って、なんだ」

「え?」

「単位は、なんなんだ」

 たしかに、と小吉も首を捻った。

「なんとなく〈メートル〉だと思いこんでたけど、この看板の書き方じゃ〈メートル〉かどうかなんてわからないよな」

「でもまあ〈メートル〉だと思うよな」

「他に考えられるところとしては……〈秒〉とか、あとは、〈歩〉とか?」

「それはないと思う」

 歩幅や歩く速度などは個人差が大きいものだから、人によっては目的地に辿り着かなくなるかもしれない。看板で示してある以上、何かしらの場所へ誘導する目的があるのだろうから、もっと普遍的な単位でなければ。

「じゃあ、他には……うーん、〈軒〉?」

「百三十七軒も建物ねえよ、この道沿いに」

「だよなあ……じゃあやっぱり〈メートル〉か。〈センチ〉とか〈キロ〉でもないだろうし」

「百三十七キロだと県境越えるし」

「だな。じゃあ、ひとまずはフツーに〈メートル〉で行ってみっか」

 と小吉は改めて回れ右し――

 そこでまた首をかしげた。

「どう測ればいいんだ、百三十七メートルって。距離測れるようなもん持ってないけど」

「あー」

「道具なしで距離測る方法って、なんかあったっけ。なんか知ってる?」

「うーん……たしか、なんかあった気がするんだけど。三角関数とか?」

「三角関数使うなら、せめてどこか一辺の長さは正確にわかってないと、計算したところで目測と大差ないのでは」

「そう、か。そうだな」

「じゃあどうしたらいい?」

「えー、もう、なんで僕に訊くんだよ。知らんし……とりあえず、僕らが歩く速さを、単純に、一秒一メートルと考えて、そしたら百三十七秒だし、つまり二分ちょい進んだ地点、ってとこにならないか?」

「なるほど」

 と小吉は力強く頷いた。

 が、すぐ首をかしげた。

「いやいや、それ目測と同じレベルで不正確だし、っていうか、それだと単位が〈メートル〉じゃなくて〈秒〉になるし」

「だよなー……でも、しょうがないだろ。他に方法ないし。とりあえずは当たらずも遠からずってとこでいいじゃん。とりあえずやってみて、ダメそうだったら、もう一回ここに戻って、考え直せばいい」

 と、かなりファジーな状態で出発した。

 上島は腕時計を見ながら、慎重に歩いた。

 示し合わせたわけではないが、ふたりとも無言だった。ペースを一定に保って歩くというのは、普段意識していないだけになかなか気を遣うことだったし、それに「一メートル一秒」というのは、歩きにしてもかなりゆっくりめなのだ。

 秒針が12を指したところから始めて、百三十七秒後。

 ふたりが足を止めた地点は、一本道のど真ん中だった。あまりにど真ん中すぎて、かえって中途半端でさえあった。辻や曲がり角ですらない。

 周囲には何もない。ひと気もない。ただただ、うらぶれた家屋が立ち並ぶばかり。

「ここが、百三十七秒地点? ホントに?」

 小吉が改めて訊いてきたので、上島は頷いてやった。

 確認したくなる気持ちもわかる。

 本当に何もないのだから。

「……そういえば、小吉よ」

「うん?」

「今ふと思い出したんだけど」

「うん」

「電柱って、だいたい三十メートル間隔で立てられてるらしいぞ」

「マジ?」

「地形とか条件次第で細かく変わってくるだろうから、あくまで目安だろうけど」

「それ早く言えよ」

「今ふと思い出したんだっつったろ。この情報を何で知ったかもうろ覚えだし……」

 とにかく上島は、いま辿って来たばかりの道を振り返り、電柱を数え始めた。

 ウキタ屋裏の電柱を一本目として、四本あった。

 上島と小吉が現在立っているのは、四本目と五本目のだいたい中間あたり。

「やっぱ、このへんでいいはずだ。単位が〈メートル〉なのだとしたら、だけど」

「仮定の上に仮定だなあ」

「しょうがないだろ」

 でも、ここがなんだというのだろう? 周辺住民しか通らないような道だ。まわりには本当に民家しかなく、幅もさほど広くない。あえて看板で示さないといけないようなものがあるとは思えない。

 やっぱり、あの看板に記された数字の単位は〈メートル〉ではなかったのだろうか。でも、〈メートル〉じゃなかったとしたら、じゃあ、なんだ?

「……やっぱ、間違ってたかな」

 上島が溜め息混じりに呟くと、小吉は「いや」と気を取り直したように顔をあげた。

「ない、ない、と文句ばっかり言ってても始まらない。もっとちゃんとさがしてみよう」

「さがすって、何を」

「何かを!」

 無駄に力強く言うなり、小吉はあたりを歩き回り始めた。

 他人さまの家をまじまじと眺める。生け垣を覗きこむ。家と家の境に頭を突っこむ。ゴミ捨て場の周囲をうろつく。電柱の裏っ側も覗く。

 一見するとなんだかすごく不審者だ。

 上島は「おいおい」と思いつつも、ここまで付き合っている以上、ぼんやり突っ立っているわけにもいかず、しかし小吉ほど本腰入れてさがす気にもなれず、ただあたりを所在無く見回していた。

 ……なんだかものすごく徒労の予感がする。

 帰っちゃおうかなあ。

 と思ったまさにそのとき、小吉が息を呑む気配がした。

 道の端に停められていた軽自動車の下を覗きこんだところで。

 かがんでいる小吉の隣に同じようにかがみ、視線を追う。

「〈メートル〉で、正解だ」

 小吉の指差す先。

 そこには、看板があった。

 あった、というよりは、落ちていた。

 どこかにぶらさげられていたものが、風に煽られたかなんだかで落ちてしまったのだろう。落ちた際に車の下に滑りこんだのか、落ちたあと車がやってきて隠されるような形になったのか、どちらなのかまではわからないが。

 小吉が腕を伸ばし、ずるずると引っ張り出してみる。

 ウキタ屋の裏にあったものと、ほとんど同じだった。A4サイズ、薄いベニヤ板の上部に二ヵ所穴を開けてビニール紐を通しただけの、手作り感溢れる代物。カクカクした字で書かれているのは、しかし、先ほどとは違った数字だ。


   ↑200


 上島と小吉は顔を見合わせた。

 無言のまま、目で相談する。

 どうする? と。

 口火を切ったのは、やはり小吉だった。

「〈右に200〉メートル、行ってみよう」

 小吉の顔は、少し強張っていた。戸惑いと好奇心、そしてほんの少しの怖気、それらをぐっと抑えこんでいる表情。彼のこんな表情は初めて見る。でも、きっと、自分もいま同じような表情をしている。そう考えながら、上島は頷き返した。


 電柱を数えつつ、念のため併せて時間も計りつつ、二百メートル(と思われる距離)を歩き、あたりを少しさがしてみると、やはり看板があった。

 今度は、T字路の突き当たり。

 あのカクカクした字で、〈↓103〉と書かれていた。

 これで、どうやら、間違いない。

 看板に書かれた数字の単位は〈メートル〉であり、この看板には、明確な意図がある。


〈左に103〉メートル行った先には、〈↓297〉と書かれた看板があった。

 月極駐車場を囲むフェンスに、引っかけられていた。

「誰が、誰を、どこに、なんのために導こうとしてるんだと思う?」

 四枚目の看板を撮りながら、小吉が呟いた。

 上島は溜め息をひとつついた。

「全然、見当つかない。というか、わかんなくなった」

「わかんなく?」

「最初はさ、子供のいたずらか、なんかの嫌がらせだろう、って思ってた。看板ったってチャチいもんだし、どう見ても真面目なもんには見えないし、大方そんなところだろうって。けど、何枚も見るうちに、どうも、違うような気がしてきた」

 小吉が無言で頷く。

 目で話の先を促している。

「……なんつーか、これってさ、いたずらにしてはふざけてる感じじゃないし、嫌がらせにしては悪意が見えないだろ。それでいて、並々ならぬ意志を感じるというか……そうでもなきゃ、こんなのまどろっこしいもん、いくつも作って町のあちこちに設置したりしないだろうし」

「距離まできっちり測ってな」

「そう。でも、真剣にこんなことして、なんのメリットがあるんだろうって、そこが、考えてもわからない……つーか、作ったやつも大概だけど、こんな得体の知れない看板を真に受けて、そこに書いてある通りに延々歩いちゃうのって、どんなやつだよ? いや、僕らが言えた立場じゃないけどさ。小吉が物好きだからって理由以外に、この看板を追う理由、何かあるか? そこからして、わからない。だから、見当つかない」

「俺は別に物好きなわけじゃないぞ。記事のネタさがしてるんだ」

「はいはい。おまえは? 看板についてなんか見当つけてんの?」

 小吉は「うーん」と口を尖らせながら、首からさげた一眼を撫でた。

 これは、新聞部の備品ではなく、小吉の私物らしい。

 カメラのことなんてよく知らないが、これだけ立派な一眼は、結構な値段がするのではないかと思う。

 自分のカネで買ったのだろうか。

 それとも、親とかに買ってもらったのだろうか。

「……俺も、最初は、いたずらか、いたずらでなきゃ、看板の通りに行ったらなんか怪しい非合法っぽい店とかに辿り着くんじゃないかなって思ったりしたんだけど」

「非合法っておまえ、こんな住宅街で」

「住宅街だからこそ、わざわざしょぼい看板作って、なんでもないようなものに見せかけて、ひっそり呼びこんでるのかなーって。もしそうだったら、記事的にもオチがついて面白いし、いいなーって」

「はあ」

「でも、そのセンもないみたいだよな。この看板の通りに進んでも、どこかに辿り着く感じ、全然しないし。仮に、店があったとして、その店に行きたい客がいたとしても、こうもあっちこっち振り回されたら、アホらしくなって途中で帰っちゃう」

「だな。ただ歩かされてるだけって感じするもんな」

 見当らしい見当をつけることができないまま、上島と小吉はまた歩きだした。

 次は〈左に297〉メートル。

 今までで一番長い。

「町の人は、この看板のこと、どう思ってんだろ」

「わっかんない」と小吉は肩を軽くすくめる。

「誰も気づいてない、ってことは、ない、よな」

「ないだろ、とは思うけど。わっかんない。聞き込みしてみたいけど」

「気づいてるけど、見て見ぬふりしてんのかな。まあ、メンドくさそうだもんな……」

 ここに来て急に上島は不安を覚えた。

 自分たちは、こんな得体の知れない看板に従って進んでも、大丈夫なのだろうか?

 危険は、ないだろうか?

 もしかしたら、自分たちは、罠にはまりかけているのではないだろうか?

 罠?

 自分の考えに自分で驚いた。罠だなんて。突拍子もない話だ。

 でも、もし危険な目に遭ったとしても、きっと、誰も助けてはくれない……

 小吉はどう思っているのだろう。

 不安ではないのだろうか……

「なあ、上島」

「あ?」

「この道ってさ、このまままっすぐ行ったら、海だろ」

「ああ、そうだな、たしか、そうだ」

「沈んでたりして。次の看板」

「……いや、ここから三百メートル弱なら、まだ大丈夫だろ……と思う、けど」

 などと言っているうちに、もう、民家と民家のあいだから海が見えてきた。

 雲の多い空を映して、海面は重々しい鈍色だ。

 そういえば潮のにおいが濃い。


〈左に297〉メートル進み、次の看板を見つけた。

 上島も小吉も、そろそろ驚かなくなっている。

 この町で一番大きい道路のわきにぽつんと立つ、行方不明者の掲示板の支柱に、引っかけられていた。今度は〈↑65〉と記されていた。

 小吉がメモを取っているあいだ、上島は、この掲示板を見るでもなく見ていた。

 横長の板に、大小さまざまなビラが、無数に、無秩序に、貼りまくられている。さして大きくはない掲示板なので、もう、ビラの上にビラを重ねて貼り付けるしかない。ビラで層が形成されており、ビラの重みで傾きそうだった。

 大抵のビラには顔写真が印刷されているから、掲示板は隙間なく顔だらけだ。

 笑顔。真顔。横顔。ヒゲ面。厚化粧。

 老若男女いろんな顔が並んでいる。

 ミナ高の制服を着ている写真もあった。見知った顔ではなかったが。

 加えて、各々、ものすごく主張の強いフォントで「さがしてます」「情報求む」と訴えているから、掲示板上は必死さが氾濫していて、もはや、どこに目をやっていいのかわからない。

 ここに掲示された人のうち何割が発見されているのだろう。

 何割が今も生きているのだろう。

「知ってる顔ある?」

 メモを上着のポケットにしまいながら小吉が上島の横に立った。

 上島は「ない」とかぶりを振った。

 実のところ、そこまで真剣に見ているわけでもなかったのだが。

「行方不明、と言いつつ、自殺けっこー多いらしいな」と小吉。

「前から多かったろ」

「最近またじわじわ増えてんだって。退去勧告区域の面積と比例してんのかも」

「ふうん」

 どちらともなく掲示板の前を離れ、歩き始めた。

 次は〈右に65〉メートルだ。



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