08 強欲の化生


「〈輝き〉よ……大いなる〈輝き〉よ、我が身に力を与えたもう……」


 教皇は祭壇の前に立ち、ジラーニィへ手を伸ばした。ジラーニィは涙の跡が残る顔でぐったりと眠っている。その細い首に教皇の指がかかった。


「やめろ!」


 ベルクトが拝廊の端から叫んだ。教皇がのそりと振り返る。その顔は強迫観念によって醜く歪んでいた。


「もう遅い」


 教皇がジラーニィの首を持って掲げ、ぎゅうっと力強く締め上げた。


「〈輝き〉よ、我に力を!衆生を捨てて逃げた〈王〉など要らぬ!この我が〈王〉に代わって全ての子供たちを救ってみせる……!」


 ジラーニィの体から発される〈輝き〉が、教皇の腕を伝って流れ出す。白い光がみるみる弱まり、ジラーニィが灰色にくすんでゆく。


「教皇!今すぐその手を離せ!!」


 ベルクトは地を蹴り拝廊を駆け抜けた。教皇の手の中で、ジラーニィが薄く目を開きベルクトの姿をとらえる。呼吸に喘ぐ小さな唇が、明確に五つの音を紡いだ。


「⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎」


 それはベルクトの認識をすり抜け、しかし最も奥深いところで弾けた。心臓が跳ねて、ベルクトの内側で力が湧き起こる。地を蹴り出す足に力が満ち、一瞬で教皇の背後に届いた。ベルクトは手を伸ばす。


「ジラーニィ!」


「ふ、はははっ!もはや手遅れだ、醜悪な獣よ!」


 ジラーニィから〈輝き〉を吸い上げた教皇は、役割を果たし終えたゴミを投げ捨てるように、灰色になった子供の体をベルクトに投げつけた。ベルクトは翼腕を広げてジラーニィを受け止めた。


「ジラーニィ!しっかりしろ!」


 〈輝き〉を失いひび割れたジラーニィは、物言わぬ人形になっていた。ベルクトは奥歯が砕けそうなほど顎を食いしばった。


 胸のうちに湧き上がるのは重苦しい罪悪感と冷たい喪失感。何を動揺しているのだ、こうなる事は最初から分かっていたはずだ。まさかたった数日の旅路のうちに、ジラーニィを自分のものだと錯覚していたとでもいうのか。だとしたら自分はとんだ愚か者だ。



——『最後にお前の手に残るものは虚しさだけだ。諦めろ』——



「黙れ!!」


 頭痛に襲われたベルクトは虚空へ吠えた。幻聴はそれ以上聞こえなかった。


 腕の中のジラーニィはまだ完全には死んでいないように見える。教皇に奪われた〈輝き〉を取り戻せば、きっとまた笑ってくれるはずだ。


 教皇の方を見ると、彼は莫大な力に呑み込まれ、人の形を失い始めていた。〈輝き〉も本質的には〈混沌〉と変わらない力だ。過ぎれば毒となる。


 「教皇様!もうやめてください!」


 変貌していく教皇に、イヴラクシアが必死に呼びかける。


『ぉ お お ぉ お ぉお お ……!』


 教皇の体は赤い聖衣を千切りながら歪に膨れ上がっていく。眼球や耳鼻は埋没し、逆に口は大きく裂けて、肥大化した歯列が剥き出しになった。首から胴にかけては丸々と肥え太り、大きさの変わらない手足が触角のようにピンと突き出ている。まるで巨大なナメクジのように変貌した教皇は、自重だけで祭壇をひき潰しながらのたうち、おぞましい産声をあげた。


『は、は、は!泣くのはおよし、イヴラクシア。我こそが神だ!〈混沌〉も、死も、飢えも、汚辱も、お前たちを脅かすものは全て退けてくれるぞ!』


「そんな……誰もこんな事望んでいません!……エルド神父!お願いだから元の優しいお父さんに戻って!」


 怪物になった教皇が身じろぐたびに、燭台は倒れ、〈開かない窓〉が割れ、木の長椅子は砕け散っていく。


 〈輝き〉で暴走する怪物の手によって聖堂が傷ついていく。


 その惨状を眼前に突きつけられたベルクトは、この常夜の世界において己に課された使命を今はっきりと


 〈輝き〉は偏りなく分配されなければならない。均衡が崩れれば世界の存続にも関わる。〈光を運ぶ者フォスフォラス〉、それが己の役目だと。



——『良いだろう。そのための力は与えておく』——



 ベルクトの右手の鉤爪が形を変える。長く伸びて鋭さを増し、あらゆるものを刈り取る形に特化する。その色は〈輝き〉の光に照らされてもなお、一条の光も返さぬ完全な漆黒。〈混沌〉とも一線を画す、この世界を構成する原初の力〈闇夜〉の魔力だ。


『ふ、ふ、それが貴様の魔術か。矮小な爪だ。そんなもので、この我を傷つけられるのか?』


 怪物と化した教皇が嘲笑う。だがベルクトには絶対の確信があった。揺るぎない〈王〉への信頼が。


「侮るな、〈王〉への信仰を忘れた貴様には覿面に効くぞ」


 ベルクトはナメクジの怪物に飛びかかった。下から振り上げた〈闇夜〉の爪は怪物の肉に。怪物の腹が縦にぱっくりと裂け、腐った体液が滝のように溢れた。


『ぬ、ぉ ああ、あ!?』


「〈王〉の純粋な魔力は、この世界の法則において何よりも優先される。お前の体の丈夫さは一切関係ない」


『〈王〉の魔力だと?なぜそんなものが!〈王〉は人間を見限って消えたはずだ!』


 ナメクジがベルクトに体当たりしようと身を振り乱す。そのやぶれかぶれの攻撃をベルクトは冷静に回避し、高く飛び上がって怪物の頭上を取った。漆黒の爪が一条の流星の如く怪物に降り注ぐ。


『ぎ、ぁあああああああっ!!!』


 爪の先が目当ての物にひっかかり、ベルクトはそれを勢いよく引き抜いた。それは〈輝き〉の結晶でできた青白い刀身の短剣だった。力の源を失った怪物は、体液を撒き散らしながらみるみる溶けて縮んでいく。


『ぉおおのれ、〈輝き〉をかえせぇええええ!!』


「これはジラーニィが持つべきものだ」


 ベルクトは怪物に背を向けると、腕の中で眠るジラーニィの胸に〈輝き〉の短剣を突き立てた。刃の先から〈輝き〉が解けてジラーニィの中に還ってゆく。灰色にくすんだ体が光を取り戻し純白に煌めいた。白い睫毛が震え、彗星色の瞳があらわになる。


「……ベルクト」


「平気か?」


「うん」


「よかった」


 ベルクトがジラーニィの胸に顔を埋めると、ジラーニィはおかしそうに笑った。


「変なの。僕、売り物だよ?教皇サマの使い方の方が正しいのに」


「俺は俺がやるべき事をやっただけだ」


「そっかぁ。助けてくれたわけじゃないんだ」


「いやっ、それは……」


「ふふ、冗談だよ!助けてくれたんだよね!……ありがとう。すごく怖かったの」


 ジラーニィがベルクトの頭を抱き、小さな手で飾り羽をくすぐった。それだけでベルクトは満ち足りた気分になった。


 その時、背後の汚泥の中から怨嗟の声が響いた。


「許さぬ、許さぬぞ……」


 教皇は人の形に戻り、全身から黒い体液を垂れ流していた。まだジラーニィの〈輝き〉を諦めていないのか、這いつくばってこちらににじり寄ってくる。


「金が要る。子供たちの服と食べ物を買うために。〈輝き〉が要る。信者から金を集めるために……返せ、その子を、〈輝き〉を!」


「エルド神父!」


 イヴラクシアがパシャパシャと汚泥を踏みながら走ってきた。自らが汚れる事もいとわず、地に倒れ伏す教皇の体を支える。


「私たちのためだって、どうしてもっと早くに教えてくれなかったんです!」


「〈王さま〉への信仰と、苦しい現実の間で板挟みになって、心の中で〈混沌〉が大きく育っていたんだよ」


 ジラーニィが眉尻を落として言った。


「〈混沌〉はヒトを狂わせる。子供のために〈輝き〉を集めていたのに、いつしか〈輝き〉のために大切な子供を使い潰していた。その事に気がつくと、自罰意識でまた〈混沌〉が育ってしまう。良くない繰り返しが続く……ベルクト、」


「分かっている」


 ベルクトは教皇の前に膝をついた。教皇の言葉はずっと支離滅裂で矛盾ばかりだった。〈混沌〉による発狂の苦しみはベルクトもよく知っている。そこから抜け出す一番簡単な方法は、全てを忘れてしまう事だ。


 ジラーニィがベルクトの腕の中から身を乗り出し、教皇の額に手を伸ばした。


「僕もやっと分かったよ。この力はこうやって使うんだね……罪人よ、〈輝き〉の力で、今いっとき〈混沌〉を消し去ろう」


 ジラーニィが強く光り輝き、ベルクトとイヴラクシアは目が眩んだ。光が収まると、憑き物が落ちたように呆けた教皇がそこにいた。


「私は、何を……」


「エルド神父」


 イヴラクシアが呼びかけると、教皇はしっかりとイヴラクシアの目を見返して応えた。


「どうした、イヴ?なぜ泣いているんだい?」


「ううん、何でもないの。でも、話したい事が沢山あるわ」


「そうなのかい?なら他のみんなも集めよう。お前が小さかった頃のように、聖堂中のカンテラを集めて、眠くなるまで話をしよう」


「うん、みんなも喜ぶと思う」


 幼児のように弱々しくなった教皇は辺りを見回して、悲しそうに肩を落とした。


「あぁ、どうした事だ。聖堂がボロボロじゃないか……」


「その話も後でね」


「イヴラクシア、瓦礫の片付けくらいはしておいてやる。今は教皇を休める場所に連れて行ってやれ」


 ベルクトが顎をしゃくると、イヴラクシアは小さく頷いて、教皇が立ち上がるのを助けた。拝廊を去る二人の背中を見送り、ベルクトは祭壇前の惨憺さんたんたる有様を見て溜め息を吐いた。


「さぁて、どこから手をつけるかな……」


 その声があまりに情けなかったのか、腕の中でジラーニィがくすくす笑った。

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