第1話 新兵(ベイビィ)⑤
「ありがとう」――からの抱擁。
驚いて思考停止。でも彼女の純白の白衣が、こんな泥に汚染されるのが気になってしまう。
僕は頭から泥だらけだよ? 白衣も制服も汚れるよ!? そう思ったけれど言葉にならない。
頭をぎゅっ! とされる不思議な感覚に従ってしまった。
そう。まるで母親にいだかれる赤子のように。彼女と僕との間に熱が生まれる。
何だろう、この感じ。彼女はとっても女性的で、花の甘い香りがした。泥をかぶって冷え切った心に、じんわり灯がともった気がした。
急に体が動かない、という絶望感の中で、眩しくて暖かい何かに出逢えた気がしたんだ。
「あ‥‥。顎が‥‥
彼女の女性的で華奢な指が、すうっと傷口付近をなぞる。彼女はその大きな黒瞳を僕の顎、ギリギリ傷口に近づけてそう言った。
そのあまりの近さに、思わず仰け反る。これって恋人レベルの近さじゃね? ‥‥いや、恋人いる経験ないんだけどさ。
そして仰け反るって言ったけど、首から下は動かないんだけどさ。
体の方の痛みは消えていた。大したことはないみたいだ。そのまま顎だけアルコールを浸したガーゼみたいので拭いてもらった。目も見えてくる。
「‥‥ちょっと不測の事態だったけど、動こうか? ‥‥逢初さん?」
黒縁メガネの艦長が問いかける。
「はい‥‥‥‥。咲見さんの、清潔な衣服への着替えを。その間に私も着替えます。そして医務室へ」
「うん。了解。それは岸尾さんお願い。補助は‥‥」
「はい! 私といちこが」
「じゃあ桃山さんと浜さん、岸尾さんについてって」
「子恋。この機体外で洗浄してくれ。これじゃまたデッキが汚れる」
「ああ七道さん。じゃあ、初島さんと来宮さんでお願い」
「了~解」「っス」
そこからは早かった。艦長の子がテキパキ指示を出して。
「じゃあいくよ。1、2のハイ!」
何枚もの熱いタオルで泥を落としきった後、割と手際よく女子たちの手でベッドに乗せられる僕。そのままデッキを出て、医務室へ運ばれる。
DMTの整備場所から医務室へは同階だ。僕を乗せたキャスター付きのベッドが、戦艦の廊下を進んでいく。天井に向けた視線に、いくつもの廊下の照明が通りすぎて行くのを見上げながら――ただ、呆然としていた。
医務室の入り口は両戸開きの自動ドアだった。そこに着くと、パイロットスーツを脱いで患者用のガウンに着替えた。
――いや、着替えた、というのは誤り。麻妃が何とか着替えさせてくれた。
「愛依、連れてきたゼ」
「は~い」
麻妃の言葉に明るい返事をした女性。
汚れてないヤツに着替えてたのか? 中学校の制服を直しながら、あのジャケット型の白衣を着こんでいる。
「あ、キレイになりましたね。ふふ。じゃ、ちょっとさわりますよ~」
彼女は、改めて僕の顎に触れた。
「痛い? ‥‥触った感覚はありますか?」
彼女が、その大きな黒瞳で質問してきた。
この時点で僕の身体は、首から下がまったく動かすことができなかった。
軽く息を吸って、口腔内や舌が動くのを確認しながら、取りあえず質問に答える。
「‥‥うん。‥‥うっすら、指が触れたのがわかったよ」
「よかった」
彼女は、15センチほどの距離のまま僕を見つめながら、笑顔になった。
「下顎の打撲傷は大丈夫。言語の発音も異常は認められない、と」
タブレットPCに何か書き込みながら、麻妃たちに目配せする。
「‥‥‥‥ああ、じゃウチらはこれで。
そう言って医務室から出て行った。
そうか、さっきデッキに女子が集まったのは、僕を迎えるため――じゃあなく、動けなくなった僕を運ぶため、か。
――――調子に乗ってイキリムーブをしなくて良かった。本当に。
***
これが、この2時間の間に僕の身に起こったこと。
そして、僕への罰ゲームは、実は「ここからが本番」だったんだ。
ここ医務室は、5 メートル四方くらいの白壁の部屋だ。部屋の中央には柱があって、そこに全方位から見えるモニターがある。よく判らない数字が並んでいるけど、たぶん自分の脈とか血圧なのだろう。
自分のいるベッドは壁に長辺を付ける形で置かれていて、天井から吊るされたカーテンを引けば一応簡易的に個室みたいになる感じだ。
奥の方にも空間があるようだけど、ここからじゃあよく見えない。
ただ1つ、病院と似つかわしくないところがある。部屋の照明だ。白い蛍光色のライトではなく、オレンジ色の、まるで夕暮れのような色味と明るさだった。
まるで、そう、――――今から誰かを寝かしつけるような。
「さて、咲見さん」
夕日のような照明を背にした逢初さんが、キャスター付きの診療用の丸椅子、その
ドクターコートの間から見える水色のリボンが、かすかに揺れた。
「あのう、僕の体は治るの?」
僕は、単刀直入に聞いた。
この、
学校では、ほとんど会話をした記憶がないけれど、ね。
たしかこの春、二年生から同じクラスだったっけ。ほぼ面識がないけど、「初めまして」をするよりは、まずはこの状況を早く確認したい、という気持ちが強かった。
彼女は、笑顔のまま答えた。
「やっぱり心配だよね。うん。じゃあ、細かい説明は省きますよ?」
そう言うと、左手の人差し指を立てて。
「まず、あなたの体が動かないのは、
「よかっっった~!!」
思わず大声が出た。
「いやあ、早く言ってよ。戦闘の衝撃で頸椎ガー、とかを想像したんだからね? なんだ、治るのか~。よかったあ」
緊張が一気に解けたよ。それはそうだ。最悪「一生ベッドの上」を想像していたんだからね。さっきの君の言葉で、その最悪はなさそうだ――とは感じてはいたけれど、さ。
とにかく、Botも撃破できたし、この症状も治るし、やっと気持ちを落ちつかせることができるよ!
ああ、早く熱い風呂に入って、自室でまったりゲームでもやりたい。
コトン。
浮かれる僕に、唐突に「それ」は置かれた。
「‥‥‥‥ん? 何それ‥‥‥‥?」
疑問を投げかける僕の視線のその先には、逢初さんの右手があり、その右手には、白い液体が入っているガラス製の小瓶がにぎられている。
「何それ?」
僕は、もう1度たずねた。
小瓶の上部には、ラテックス製の
彼女は、申し訳なさそうに、小声で話し始めた。
「咲見さん。これがなんだかわかるよね。その体を治すためには、これで栄養を摂ってもらわないといけないんです」
白衣の医師、逢初愛依さんは、真顔だった。
「ええッ!! マジで?」
「うん。申し訳ないのだけれど」
「ウソでしょ!?」
「いいえ。わたしも医学を修める身。嘘は言いませんよ」
思わず動けないベッドの上で首を振る。とにかく必死だった。
「ちょっと待ってよ。いきなりすぎだよ」
「説明は省くと言ったから‥‥‥」
「省きすぎだって!! じ、じゃあ、治らなくっていいよ! それやるくらいなら!!」
逢初さんは困り顔を作り、弟に諭すように、さらに顔を近づけてきた。
「そうもいかないわ。この戦艦で正パイロットは咲見さん1人。早く回復してもらわないと、みんなが困っちゃうし、あなたを治すこと、それがわたしの職責だし。それにまた、Botが出たりするかもよ?」
僕は、目の前に置かれた容器。その中の白い液体をにらみ。
たまらず絶叫した。
「だって『それ』、ほ乳瓶とミルクじゃないかあああぁぁぁ!!!!!」
「‥‥‥‥」
逢初さんは困った表情のまま沈黙していた。絶叫から少しして、まわりが見えてきた僕の頭に、ある疑問が浮かんできた。
それは――――本当に、本当に恐ろしい、身の毛もよだつ質問だった。
「あれ‥‥? 僕は今、その『後遺症』ってヤツで首から下が動かないんだよね? ‥‥‥‥一体、‥‥‥‥一体、どうやって、そのほ乳瓶でミルクを‥‥‥‥飲む‥‥と?」
それまでその、顏からこぼれ落ちそうな黒瞳で僕を正視していた逢初さんが、はじめて目を逸らした。見れば、彼女は不安げに髪をさわり、消え入らんばかりに顔を赤らめている。
そして、うつむいて、
消えそうなほどのかすかな声で、
こう囁いた。
「‥‥‥‥‥それは、‥‥‥‥‥わたしが」
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