第28話 頂花 1




 東宮の園庭の水辺に立って辺りを見渡すと、真新しい空気が朝を塗り替えていた。まるで昨夜の出来事などなかったように清々しい。

 池の水面を渡ってきた風が、孟起の袍の裾と水際の木々をさわさわと揺らした。


 ちょっと外の空気を吸ってくるだけだから護衛は必要ない、と言って出ていったきりの慧喬を探しにきたのだが、その姿は見当たらない。孟起は池の周りを慧喬の名前を呼びながら歩いた。


「ここだ」


 どこからか声がした。


「んん? どこって?」


 孟起がきょろきょろと見回す。しかし姿は見えない。


「この辺から聞こえたと思うんだけどな……」


 孟起が立ち止まって呟く。すると、


「ここだ」

「おお?」


 すぐ近くの植え込みから聞こえた声に、つい驚きの声を上げる。


「え? ここ?」


 がさがさと少し丈のある植え込みに分け入ると、水際のぽっかりと空いた空間に慧喬が膝を抱えて蹲っていた。


「こんなところにいたのか。少詹事殿が探してたよ」

「ああ」


 返事はしたが膝を抱えたまま慧喬は動こうとしない。

 孟起は、ふむ、と鼻から息を吐くと、よいしょ、と慧喬の隣に座った。


「いい隠れ場所だね。こんなところ、誰も探せないな」


 座ると植え込みに隠されて他所からは見えない。池に浮かぶ目の前の浮島が向こう岸からも隠してくれる。

 孟起が笑うと、慧喬も少し笑った。


「だろう」

「でも少し狭いな」

「それは孟起殿のせいだ」


 慧喬が言うと、孟起が、そうか、と笑った。

 緩い風が吹くたびに水面が震えるように細波をつくる。何となくそれを見ているうちにずいぶん時間が経っていたようだ。

 慧喬は隣に座る孟起を見た。

 探しにきたわりには座り込み、ここいいね、と言って水面を見ている。

 いつもどおりの飄々とした横顔を見て、慧喬の心に溜まっていたおりが少しだけ薄らいだ気がした。





 伶遥が賢妃を刺した直後、呉将軍が兵を引き連れて蘭華殿に踏み込んできた。惇卓とその配下たち、希直と賢妃の侍女は連行され、賢妃は侍御医の元へ運ばれた。酷く取り乱していた伶遥は、慧喬が富貴宮へ連れて行って王妃に預けた。


 慧喬が蘭華殿へ戻ると、兵達は引き上げた後で、堂内はがらんとしていた。

 しかし月の光が差し込む暗闇の中で子翼がひとり、ぼんやりと立ちすくんでいた。


「子翼殿」


 慧喬が呼ぶと、子翼は緩慢な動きでこちらを向いた。その瞳は迷子のように頼りなく揺れていた。


「慧喬……本当に……すまない……」


 声を絞り出すようにして詫びた子翼に、慧喬が聞いた。


「……子翼殿は、賢妃様が兄上にしたことを知っていたのか」


 子翼が太い眉を寄せた。


「……以前から母上は私を王にすることに固執していた。何故かわからないが、私が太子になると信じていたんだ。……私は王になるような器ではないのに」


 苦しげな声で自嘲する。


「……でも……兄上が太子に決まって母上も諦めたと思っていた。……だから私もかねての希望どおり禁軍に入った。……母上が本当は諦めてなかったと知ったのは……去年の兄上の毒殺未遂が起こった時だ……」


 そこまで言うと、子翼はぎゅっと口を引き結び、彫像のように動かなくなった。慧喬が言葉を挟まず待つと、子翼は覚悟したように再び口を開いた。


「……あの時、母上の部屋に怪しげな薬が沢山あるのを見つけた。兄上に毒を盛ろうとしたのは母上だ、と直感した」


 身体の横で子翼が拳を握る。


「母上には何度も諦めるように言った。だけど……母上は……心配するな、と言うだけだった。私は……母上を告発する勇気がなかった……。だから……兄上の周りと、母上の動向に気を配った。母上のところに不審なものがあれば別のものとすり替えたりした」


 慧喬は、孝俊を殺そうとしても何故か上手くいかなかった、と賢妃が言っていたのを思い出す。賢妃に気付かれないよう、子翼が孝俊を守っていたのだ。


「でも、結局……兄上は……」


 子翼は片手で顔を覆い、声を詰まらせた。


「……まさか……赤流に毒を……。そこまで気が回らなかった……」


 言葉が途切れる。しかし大きく息を吸い、自分を叱咤するように再び話し始めた。


「……狩りの最中……赤流の様子が急におかしくなった。咄嗟に……母上が赤流に何かしたのだろうと思った。気がついたら赤流を斬ってた……。私は……赤流から母上に通じる証拠が出るのを怖れたんだ」


 差し込むわずかな月の光だけでも、子翼の顔が青ざめているのがわかる。


「赤流に何かしたのならば、希直が手を貸していたに違いないと思った。……希直を問い詰めると、白状したよ。龍武軍の馬を使って毒の効き方を調べた後、兄上の狩りの予定に合わせて、私の馬を返しに行った時に赤流の水に毒を仕込んだと」

「やはりか……」


 慧喬の眉間には深く溝が寄った。

 行成が調べた各厩の馬の死亡数は、龍武軍の厩で一時期、不自然に増えていた。それはちょうど孝俊の事故が起こる少し前のことだった。


「なら、兄上が落馬した現場を見に禁苑に行った時、我々の様子を窺っていたのは希直か」


 逃げる不審者の後を追った孟起が見失ったのも、龍武軍の厩のあたりだ。厩の担当の希直であればこそ、逃げおおせたのも納得がいく。


「……ああ、そうだ。あの時、希直が後をつけてきていたのは私も直ぐに気付いていた。だけど……お前の護衛にも気付かれて……希直を逃がすために焦って追いかけるふりをした」

「それで我々の気を逸らすためにわざと怪我をしたのか」

「ああ」

「……馬鹿だな」


 ぼそりと慧喬が言うと、子翼は、ああ、と顔を俯けた。

 泣きそうな顔で俯く佇まいは、体格が全く違うにも関わらず、何故か伶遥によく似て見えた。


「……伶遥は…………賢妃様とうまくいっていなかったのか」


 慧喬が聞くと、子翼が思わず顔を上げて慧喬を見た。しかしすぐに悲しげに目を逸らした。


「……母上は……いつも伶遥に無関心だった」


 子翼はまるで自分の罪を告白するかのように言った。


「でも……お前が太子に指名されてから……母上と色々と話をするようになったと……伶遥が喜んでたんだ。私は馬鹿だから……同じ公主のお前が太子に選ばれて、母上が伶遥にもちゃんと目を向けるようになったんだと思った。……母上があんなことをしたのに……良い方向に向かってると思ってた……」


 息苦しさから逃れるように何度も大きく息を吸う。


「だから……伶遥を使ってまでお前まで殺そうとしたなんて……本当に……伶遥にもどう詫びたらいいのか……全て私のせいだ……」


 子翼は崩れ落ちるように膝をつくと、大きな身体を丸めて嗚咽を漏らした。







「そういえば、賢妃様は命に別状はないそうだよ」


 孟起が慧喬へと振り向き、少詹事殿が言ってた、と付け足す。


「そうか……よかった」


 慧喬が呟く。


「……伶遥に……情報を流したら、賢妃に伝えると思った。私が伶遥を利用したから、あんなことになったんだ……。伶遥が自分の母親を刺したのは、私のせいだ」

「……それは違うと思うよ」


 孟起が慧喬を見ながら否定した。慧喬はそれにふるふると首を振ると、ぎゅっと膝を抱えている腕に力を入れた。


「伶遥は、優しくて、穏やかで、思いやりのある子なんだ……」

「うん」

「茶を淹れるのが上手くて、私や葉珠様の話をいつもにこにこ聞いて、人の悪口なんて言ったことがないんだ」

「うん」

「でも……駄目だな私は。一緒に茶を飲んで、いろいろと話をしてたはずなのに……。私は……伶遥のことを何も知らなかった」


 自分を責めるような苦い笑いが慧喬から漏れる。


「私は……もしかしたら伶遥は毒のことを知ってたんじゃないか……その考えを捨てきれなかった。知っていて茶を持ってきたんじゃないかと疑った。いくら何でも、自分の子に毒を飲ませるような危険な目に合わせるわけがないと思ってたから」

「うん」

「でも……そうじゃなかった……」


 慧喬は抱えている膝に顔を埋めた。


「賢妃との……母親との関係があんな状況だったことに気付けなかった……」

「……伶遥様自身が隠したかったんじゃないかな。君には知られたくなかったんだと思う。きっと、君が知らないでいてくれたからこそ、伶遥様は安心して君といられたんだよ」

「……でも、話して欲しかった……」

「それを話すことは、母親を捨てることだから。伶遥様にはそれができなかったんだよ」


 孟起の穏やかな声は慧喬にゆっくりと染み込んでいった。そうして脆くなった心のひだから、零れるように言葉が落ちる。


「子翼殿も、いい奴なんだ」

「うん」

「厳つい見た目に似合わず優しくて、陽気で、誠実で、誰にでも好かれる。……賢妃の言うとおり、私より王に向いていると思う……」

「……それはどうかはわからないけど」

「赤流の世話をしていた馬番が処罰されないように手を回したのは子翼だったそうだ。そこまで気を配って……」

「そうか」

「子翼殿は……優しすぎるんだ。……だから……母親を切り捨てることができなかったんだ……」

「うん」

「でも、結局……私が子翼殿に……それをさせてしまったんだ……」

「……君のやり方は正しかったと思うよ」


 孟起が労るように言った。







 徳妃からと偽った賢妃からの呼び出しの文が届いたのは想定内だった。

 行成は初めから蘭華殿に兵を連れて行くべきだと主張した。しかし、慧喬はそうするつもりはなかった。


「子翼殿に、私が賢妃に呼び出されたと知らせてくれ。その時に、これを見せて、私が刺客に襲われたことと毒入りの茶を伶遥が持ってきたことを話すんだ。その上でどうするか自分で決めろと、私が言っていたと伝えて欲しい」


 そう言って行成に手渡したのは、慧喬を襲った刺客が持っていた馬を形どった玉佩の欠片だった。

 慧喬は以前、欠ける前のこの玉佩を見たことがあった。子翼の乳母子の希直が禁軍の厩の担当になった時、希直への祝いに渡す、と子翼が見せてくれたものだ。


 慧喬の指示に行成は顔を青くした。


「子翼様が賢妃様に加担している可能性はないのですか」

「可能性はないとは言えないな」

「でしたら……!」

「でも、私には子翼殿がこの件に積極的に関わっているとは思えないんだ。もしかしたら、賢妃が兄上にしたことは知っているのかもしれない。だが子翼殿は、賢妃が私まで殺そうとしていたことは知らないと思う」

「何故そう言えるのです」


 すると慧喬は場違いに、ふ、と笑った。


「私が子翼殿のことを信じているからだ」

「そんな根拠のない……」


 慧喬は行成の言葉を途中で遮った。


「このままでは子翼殿も賢妃と同罪と見做される。私は子翼殿を助けたい。そのためには、子翼殿が自分で賢妃を告発しなければならない」

「でも、それでは万が一慧喬様が……」

「大丈夫だ。私を信じろ」


 そう言って最後まで渋った行成を子翼の元へ行かせたのだ。

 結果、子翼は自ら母親を断罪することになり、伶遥は母親を刺した。







「……こんなことをしてまで、私は王にならないといけないのか」


 膝を抱えた慧喬がぽつりと言った


「ちょっときつい」


 初めて聞いた慧喬の弱音に、孟起がこの上なく優しい声を返した。


「……じゃあ、やめるかい?」

「……」

「ん?」


 覗き込む孟起に眉を顰めて、慧喬が溜息をつく。


「……それは、できない」

「そう言うと思ったよ」


 孟起が笑う。


「王が君を後継に選んだ。ということは、紅国は王として、君を必要としているってことなんだろう?」

「……」


 黙り込む慧喬へ孟起が穏やかに言う。


「私が言っても何の足しにもならないかもしれないけど、紅国の民として、私も君に王になってほしいと思ってる」


 慧喬は孟起の声を聞きながら、何故かどうしようもなく泣きたくなった。しかしそれを堪えて出来る限りそっけなく言った。


「悪いが、むこうを向いてくれないか」

「え? こう?」


 孟起が言われるままに慧喬に背を向けて座り直す。


「少し、背中を貸してもらっていいか」

「ん? いいよ」


 笑いながら、どうぞ、と差し出すように傾けた孟起の背中に、慧喬が寄りかかる。そして長い溜息を漏らした。


「珍しいね。そんな溜息」


 孟起がまた笑うと、笑った振動が慧喬を優しく揺すった。慧喬の溜息が知らず笑みに変わる。


「孟起殿は不思議だな。どうしてだろう。気が緩む」

「そう?」


 孟起が楽しそう聞く。


「きっと、その顔のせいだな」

「なんかすごく失礼なこと言ってない?」


 孟起がさらに笑うと、慧喬も、ふふ、とかすかに笑った。

 そして、間が空いた後、ぼそりと言った。


「……どうしても墨国に行くのか」

「……そうだね」

「……ここに残ってもらうことはできないか」


 その頼みに対して孟起は返事を返さなかった。それが答えなのだ。


「本音が言える相手がいなくなるのは困る」

「行成殿がいるじゃないか」

「行成は臣下だ」

「文承殿もいる」

「文承殿は修行で忙しい」


 そうかぁ、と孟起は上を向くと、すっかり陽が高くなった空を見上げたまま言った。


「私は、いつでも君を応援してるよ」

「墨国に行くくせに」


 珍しく拗ねたような言い方に孟起が笑う。


「そう言われると辛いな。また戻ってくるよ。多分」

「多分、なのか」

「行ってみないとわからないからなぁ」

「……何のために墨国の軍に入りに行くのか教えてくれないのか」

「戻って来たら教えるよ」


 孟起はそう言ってやっぱり笑うだけで、結局その目的は教えてはくれない。


「そうか」


 慧喬は残念そうに呟くと、孟起の背中にもたれたまま、水面にできる細波をぼんやり眺めた。緩やかに吹く風は頬を撫で、木の葉の揺れる音が耳に優しく届く。

 何もかもが心地良くて、慧喬は久しぶりに肩の力を抜いた。

 孟起は何も言わず、ただ背中を貸してくれた。


 どれくらいそうしていただろうか。ふと思い出したように慧喬が言った。


「……行成が探してるんだったな」

「そうだった」


 孟起がおどけ気味に言ったのに慧喬が笑う。


「仕方ない。帰る」


 わずかに笑いを残しながら、慧喬は立ち上がった。



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