第27話 養花 12



 賢妃の持つ瓢箪が、慧喬の口に触れるほど近付いた時。


「孟起殿!」


 慧喬が叫んだ。

 風が吹いた。そう感じた途端、上から何かが慧喬と賢妃のすぐ前に降り立った。と同時にそれは賢妃の手を払い、予想外の襲来に思わず怯んだ希直の横面を振り向きざまに蹴った。希直は声も上げられず、身体ごと飛ばされた。

 悲鳴とともに賢妃の手から弾け飛んだ瓢箪は、中身を撒き散らしながらカラカラと音を立てて転がった。


「何なの!?」


 後ろに倒れ込んだ賢妃が手を押さえて喚く。

 賢妃の前に慧喬を庇うようにして立ったのは、孟起だった。


「合図が遅いよ」


 背後を見るように首を傾けて孟起が苦情を言うと、慧喬が立ち上がりながらしれっと答えた。


「大丈夫だって」

「いや、危なかっただろうが」

「でも間に合っただろう?」


 孟起は顔をしかめて諦めたように溜息をついた。

 呼び出しの刻限より前に、孟起は予め蘭華殿の天井の梁に身を潜めていた。慧喬の合図で加勢に入る手筈となっていたのだ。


 立ち上がれないまま後退りした賢妃が、怒りを露わに喚いた。


「一人じゃないじゃない! 騙したのね!」

「騙したのはそちらも同じでしょう」


 慧喬が孟起の前に歩み出て呆れたように賢妃を見おろす。それを睨みつけると、賢妃が入り口に向かって叫んだ。


「何してるの! 早く何とかしなさい!」


 すると、入口から十人ほどの兵士がわらわらと走り込んできて慧喬たちを囲んだ。

 そして兵士たちの最後に、渋い顔をした御史台侍御史の惇卓が現れた。


「賢妃様、何を手間取っているのですか」


 座り込んだままの賢妃の元へとゆっくりと歩み寄る。

 慧喬は冷ややかな目で惇卓を迎えた。


「お前が一枚噛んでいたんだな。出てきてくれて手間が省けた」


 惇卓に手を借りて立ち上がると、賢妃が落ち着きを取り戻して言った。


「強がりはよしなさい。わかったでしょう? 貴女を邪魔だと思っている者は存外多いの」

「そのようですね」


 慧喬があっさりと言うと、惇卓は殊更丁寧に頭を下げた。


「このようなことになり、大変申し訳なく思っております。殿下」

「全くだ。で、お前はどうしてこんなことを」

「私は賢妃様のように殿下ご自身に恨みがあるわけではありませんが、殿下が王位に就くと困るのです」

「何故困る」

「……殿下が公主だからです……」


 深く溜息をついて惇卓が続けた。


「私にはとても美しい娘がおります。幼い頃から、妃として後宮に入れるために教育を受けさせてきました。それなのに、殿下が立つと後宮は不要になります。それでは困るのですよ。我が家の繁栄のためには」

「そんな理由か」


 惇卓から苦い笑いがこぼれる。


「殿下にとっては”そんな理由”かもしれませんが、私にとっては切実な理由です。残念なことに、私には子が女しかおりませんので」


 無表情に聞く慧喬に短く視線を送ると、惇卓は自らの正当性を示すように兵士たちを見回した。


「それに、私だけではなく、後宮が無くなって困る者は多いはずです。娘の最も有効な使い道が無くなるわけですから。私はその代弁をしたまでです。ここにいる者たちも私の意見を理解してくれています」


 しかし慧喬は冷ややかに切り捨てた。


「要するに、自分の才覚だけでは出世する自信がないということだな」

「どう思われてもよろしいですよ。これが現実ですから」


 そう自嘲気味に言った惇卓を見つめると、慧喬が、ふむ、と頷く。


「……お前の意見はわかった。今後の参考としよう」


 惇卓が失笑を漏らす。


「……それは……ありがとうございます。殿下はきっと良い君主になられたでしょうに、大変残念です」

「残念とは」

「殿下にはここで死んでいただくので」

「徳妃様の仕業としてか」

「はい」


 惇卓が慇懃に頭を下げる。

 その姿に目をすがめて慧喬が言った。


「……兄上の落馬の件だが、御史台での調査……あれはお前が意図的に手を緩めたんだな」

「……左様にございます。申し訳ありません」

「いつから賢妃に加担していたんだ? ……お前の言う理由であれば、昨年の兄上の毒殺未遂の時は違うはずだな」

「ああ、はい。あの時はまだ」


 淡々と聞く慧喬に、まるで報告を上げるように惇卓が応える。


「実は……例の死んだ尚食の下女ですが……後によくよく調べてみると、文字がほとんど書けなかったということが判ったのです。つまり、遺書など書けるはずがなかった。しかし、周りの者も、ほぼ交流のない下女の筆跡など知る由もなかった。だから逆に、あれが下女の手によるものである、という証言のみを鵜呑みにしてしまったのです」


 惇卓が残念そうに首を振る。


「当時それを見逃してしまったのは私の失態です。そのことは公にはせず握り潰しました。しかし偽証をした段明汐には念の為、監視をつけておりました。それで賢妃様に行き当たったのです。しばらくは賢妃様の動向にも気をつけていたつもりでしたが、賢妃様はまんまと孝俊様を亡き者としてしまった」


 賢妃を見て苦く笑った。


「だから、子翼様が太子となった暁には、私の妹を妃として取り立ててもらうという条件で協力することにしたのです」


 そう言うと、惇卓は視線を慧喬に戻した。


「ですので、どうあっても殿下には死んでいただかないと」


 申し訳ありません、と再び口だけで詫びると、惇卓は静かに手を上げた。

 すると十人ほどの男たちが一斉に剣を抜いた。孟起も腰の剣に手をかける。


「かかれ!」


 惇卓の号令で兵たちが慧喬と孟起へと向かってきた。

 孟起は腰の剣を抜くと、切り掛かってくる兵たちを迎え討った。慧喬も足元に隠していた短剣を取り出し、応戦する。

 多勢に囲まれて情勢は不利かと思われたが、孟起は最小限の動きで思った以上に効率よく兵士たちを倒していった。


「おのれ……」


 人数の差で余裕を見せていた惇卓だったが、次々と倒されていく兵士たちに顔色を無くしていく。

 最後の兵を始末すると、孟起が惇卓に剣先を向けた。

 惇卓は孟起を凝視しながら腰の剣を抜き、ゆっくりと構えた。そして相手の動きを探るようにじりじりと移動した。その惇卓を孟起が静かに目で追う。


「死ね!」


 そしてついに、惇卓が斬りかかった。しかしその剣は、孟起ではなく、その横にいた慧喬へと向かった。

 剣のぶつかる金属音が響く。

 慧喬を襲った惇卓の剣は、慧喬の前に割り込んだ孟起の剣が受けていた。惇卓が歯を食いしばり、力任せに押しきろうとするが、孟起は惇卓の剣を勢いよく跳ね飛ばした。そして、その拍子に体制を崩して無防備になった惇卓の胸元を、孟起が剣の柄で強打した。

 惇卓は何かが潰れたような声を上げると、そのまま仰向けに倒れた。


「惇卓!」


 賢妃が悲鳴をあげ、そのまま青い顔で立ちすくんだ。

 そこへ。


「母上!」


 戸口から聞こえてきたよく通る声に振り向き、賢妃が歓声を上げた。


「子翼!」


 賢妃が室内に足を踏み入れた子翼に駆け寄る。


「よく来てくれたわ。惇卓ときたら、本当にだらしないのよ。早くあれを片付けてちょうだい」


 賢妃の指差す先——慧喬と孟起を見て子翼の眉間に溝が刻まれる。


「貴方ならあの護衛も倒せるでしょう?」


 嬉しそうに子翼の腕に縋り付く。


「子翼殿」


 慧喬の落ち着いた声が、問いかけるように子翼へ届く。

 賢妃は眉を顰めて慧喬を一瞥すると、励ますように子翼の腕を摩った。


「貴方ならできるわ。あの邪魔な護衛さえ始末すれば、あの小娘なんか敵にはならないもの。そうしたら、後は私が上手くやるから」


 内容にそぐわない優しげな声で、子どもに言い聞かせるように囁く。


「大丈夫。心配しなくてもいいのよ。私が必ず貴方を王にするから」

「……母上……」

「だって、貴方は王になるべき人だもの」


 賢妃が子翼の腕を揺する。

 子翼が賢妃の手に大きな手を置いた。


「……行成が私のところに来て……母上が、慧喬を亡き者にしようとしていると知らせてくれたんです」

「それで駆けつけてくれたのね」


 子どもを褒めるように微笑みかける。

 幼い頃から見慣れているその笑顔を苦しげに見つめ、子翼が言った。


「……この意味が解りませんか?」


 賢妃の微笑みが訝しげになる。

 子翼が腕にかけられた賢妃の手をそっとどかした。


「……母上……慧喬を出し抜いたつもりかもしれませんが……初めから、慧喬には解っていたんですよ」

「……何が……? どういうこと?」

「本当は……自分を殺そうとしたのが母上だと解っていて……徳妃様を疑っている……と、伶遥に言ったんです。母上に伝わることを見越して……。そしてそのことを聞いた母上が……行動を起こすのを待っていたんですよ……」


 子翼を見上げる賢妃の顔が、段々と強張っていく。


「行成は……どうするべきか、自分で決めろと私に言いました。……私は……母上から慧喬を守るために来たんです」


 子翼の顔が苦しげに歪む。


「……呉将軍ももうすぐここに来るはずです。……将軍には……私が知らせました」


 賢妃は俯き、震える声でぽつりと言った。


「……子翼……お前、私を……裏切ったの……?」

「……すみません……でも……本当にもう……もう……観念してください……母上……」


 賢妃の肩に手を置き、項垂れて懇願するように子翼が声を絞り出した。

 しかし、賢妃は子翼の手を乱暴に振り払った。


「何を言っているの……?」


 再び子翼を見上げた賢妃の目は、怒りで真っ赤になっていた。

 賢妃の澱んだ色の唇から、呪詛のように低い声が漏れる。


「冗談じゃないわ。……嫌よ。絶対に嫌。あんなのが王になるのなんて、絶対に嫌。見たくないわ」

「母上……」


 泣き出しそうな子翼を無視し、賢妃は慧喬へ掴み掛かろうと身を翻した。

 しかし子翼が賢妃の腕を掴んで止める。

 

「離して! 離しなさい!」


 半狂乱になった賢妃が叫ぶ。


「嫌よ! 誰か! 慧喬を始末して!」

「母上!」


 子翼がまるで自分が捕えられたかのような苦しげな顔で、後ろから賢妃を抱きかかえる。


「あの小娘を殺さないなら私を殺して!」


 そう叫んだ賢妃の前へ、ふらふらと伶遥が近付いてきた。伶遥に付いていた侍女が、孟起に蹴り飛ばされた息子の希直の元へと行ってしまったため、束縛が解かれていたのだ。


「母上……」

「邪魔よ! 伶遥! 退きなさい!」


 癇癪を起こした賢妃の怒鳴りつける声も聞こえていないように、伶遥はよろよろと近付く。

 そして、伶遥は子翼に抱えられて尚も暴れる賢妃に甘えるように、身体を寄せた。

 ふと、それまで激しく抵抗していた賢妃の動きが止まった。

 伶遥が全身を押し付けるように、更に体重を預ける。


 賢妃から呻き声が漏れた。


「母上……?」


 子翼が眉を顰める。


「伶遥!」


 異変に気付いた慧喬が駆け寄り、賢妃に抱きつくようにぴたりと身体を寄せていた伶遥を引き剥がした。

 賢妃から引き離した伶遥の身体の前には、両手で握られた短剣があった。その剣先はぬらぬらと赤く濡れている。賢妃の腹のあたりにできた同じ色の染みは、じわじわと広がっていった。

 呻き声を上げた賢妃は、子翼の腕に崩れるように倒れ込んだ。


「……伶遥……」


 慧喬が伶遥の手を掴むと、震える手から短剣が落ちて床で音を立てた。


「……お願い……慧喬……」


 掠れた声が伶遥の血の気のない唇から零れる。


「……お願い……母上を……死なせてあげて……」


 痙攣を起こしたように激しく震えだした伶遥を、慧喬が抱きしめた。



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