第17話 養花 2



 葉珠が帰ると、慧喬は冷めてしまった茶を一息に飲み干し、立ち上がった。


「禁軍の鍛錬場へ行ってくる」

「子翼様のところですか?」


 行成が傍に来て聞く。


「ああ」


 孝俊の事故の調査報告書には、子翼が暴れる赤流を斬ったとあった。最も間近で一部始終を見ていたのは子翼だろう。


「事故当時のことを直接聞いてくる」

「……私がその場におりましたらよかったのですが。……申し訳ありません」

「何度も言うが、もう謝るな」


 行成は文官としては優秀だが、馬術などは苦手である。狩りに同行しないのは常のことだ。

 わかったな、と慧喬が念を押すと、行成は静かに頭を下げた。

 それに頷き、慧喬は孟起を連れて部屋を出た。





 禁軍の鍛錬場へ着くと、子翼は他の兵士と手合わせをしていた。


「あそこで手合わせをしている大男が子翼殿。暴れる馬を斬った王子だ」


 慧喬が少し顎を上げて示すと、孟起は興味深そうにその先を見つめた。その横顔をちらりと慧喬が見る。


「孟起殿も参加してくるか?」

「部外者が混じってはまずいよね」

「太子の侍従なのだからまるで部外者ということもないだろう」

「いや。今日は止めとくよ」


 孟起が首を振ると、そうか、と慧喬は少し残念そうに言った。


「孟起殿の剣捌きは見事だから皆の手本になると思うんだが」

「……それはどうも」


 僅かに照れたように笑いを漏らすと、孟起は子翼の方へと視線を戻した。

 子翼は素晴らしく体格の良い、いかにも武人という雰囲気の若者だ。背は孟起と同じくらいだが、胸の厚みと肩幅、太い腿のせいで孟起よりも一回り大きく見える。

 自在に大きな身体を操る動きからも、優れた身体能力の持ち主なのがわかる。


「子翼様はかなりの手練れだね。流石、暴れる馬を斬っただけはあるよ」

「ああ。昔から剣一筋なんだ。自ら志願して禁軍に入ったくらいだしな」

「……へえ。王子殿下なのに?」


 そうなんだ、と思い出し笑いをするように慧喬の頬が緩む。


「兄上が太子に決まると……と言うより、自分が後継にはならないとわかると、待ってましたとばかりに嬉々として禁軍に志願したんだ」

「そうか。なら、前太子殿下との仲は悪くなさそうだね」

「ああ」


 孟起と慧喬が話していると、鍛錬場にいた子翼の目線が一瞬こちらに投げられた。かと思うと、剣を止めて完全に身体を慧喬たちの方へと向けた。


「慧喬!」


 子翼の大声が鍛錬場に響く。

 それに応えるように慧喬が手を挙げると、子翼は剣を慌てて仕舞い、猛然と駆けてきた。目の前にたどり着いた子翼は、勢いそのまま、がばっと慧喬に抱きついた。

 その様子に面食らった孟起が一歩下がる。

 子翼からは殺気や悪意は一切感じられない。大きな犬が尻尾を振りながら飛びついたようなものだった。


「どこ行ってたんだよっ!」


 慧喬をぎゅうっと抱きしめながら子翼が叫ぶ。

 本当に尾でもあるのではなかろうか。

 孟起が子翼の背後を覗き込んでいると、


「痛いって」


 慧喬が顔をしかめて子翼の背中をばしばしと叩いた。


「あ、ごめん」


 慌てて手を離し、頭一つぶん背の低い慧喬に叱られて、子翼は身を縮めるように謝った。しかし、たちまち不平を顔全体に載せて文句を垂れた。


「だって、慧喬。お前、酷くないか? 病気で療養とか言って本当はここにいなかったんだって? それに帰ってきたら帰ってきたで何で教えてくれないんだよ」


 慧喬を見下ろしながら太い眉を下げる。


「色々と忙しかったんだ」

「それでもさぁ。ちょっと顔くらい見せてくれてもいいだろ」

「だからこうして来たんじゃないか」


 慧喬が言うと、子翼が、遅いよ、とぶつぶつと文句を言う。

 しかしふと気付いたように、ああそうか、と声を上げた。


「太子に指名されたんだったな」


 子翼が姿勢をあらためる。


「謹んでお祝い申し上げます」


 畏まった口調で拱手する姿に慧喬が苦笑する。


「……子翼殿にそう言われると、何だかな」

「どうして」


 大きな身体に似合わないきょとんとした顔が慧喬を見る。


「いや」

「ああ」


 言葉を濁した慧喬に子翼が察して目を細めた。


「全く気にする必要はないだろ。流石は父上だと思ったぞ。よくわかっていらっしゃる。お前ならきっと良い君主になる」


 そして、にか、と白い歯を見せる。


「そもそも私では国を潰してしまいそうだからな」


 そう言う笑顔に他意はなさそうだ。


「相変わらずだな」


 慧喬が苦笑すると、お前も、と子翼が嬉しそうに返す。


「それより、今、いいか? 聞きたいことがあるんだ」

「何だ?」


 人懐こい笑顔を残しながら、子翼が気安く応じた。


「孝俊兄上の亡くなった時のことだ」


 慧喬が言うと、子翼の太い眉が歪んだ。

 

「子翼殿もその場にいたと聞いた」

「……近衛のくせに兄上をお守りできず、すまん……」


 子翼が苦しげに頭を下げる。


「一体何があったのか教えてくれないか」


 慧喬の感情を抑えた声に、子翼がゆっくりと顔を上げた。


「報告書は読んだ。でも、実際にその場にいた子翼殿から聞きたいんだ」


 琥珀色の瞳を真っ直ぐに注がれ、子翼は大きく息を吸った。


「……兄上は私の前を走ってた。でも、突然のことだったんだが、それまで大人しかった赤流が急に後ろ脚で立ち上がったと思うと、激しく暴れ始めたんだ」

「赤流が驚くようなことは本当に何もなかったのか」


 子翼が頷く。


「報告書を読んだなら書いてあっただろうが、ちょうど見通しのいい場所に出たところだったんだ。弓なんかで狙われやすいと言えばそうだけど、何かが飛んできたということもなかった。本当に、突然、としか言いようがない」


 慧喬はそう話す子翼を注意深く見守る。子翼は眉間に深い皺を寄せ、懺悔するように言った。


「兄上は何とか落ち着かせようと赤流に声をかけてたんだが、全く収まる気配がなくてな……。兄上は赤流の首にしがみ付くしかなかった。私や呉将軍も赤流を取り押さえようとしたんだが、手綱を掴むこともできずにいる間に……兄上が振り落とされたんだ」

「……それで馬を斬ったのか」

「ああ。振り落とされた兄上を救助しようにも、赤流が……兄上のすぐ近くで暴れ回っていて近づけなかったんだ。……だから斬った」


 体の横で子翼の拳がぎゅっと握られる。

 慧喬はその拳を見つめながら言った。


「兄上が亡くなった場所に案内してもらえないだろうか」


 少し驚いた顔が上がる。


「それは構わないが」


 何故だ、と口には出さなかったが子翼の目が問う。


「……葬儀に出られなかったから、せめて、兄上の最期となった場所に行きたいんだ」


 問題の現場を確認したいとは言わず、そう答えた慧喬に、そうか、と子翼がしんみりと呟く。


「これからいいか?」


 慧喬が聞くと、子翼が頷いた。




 馬を龍武軍の厩で借りると、慧喬らは宮城北側の禁苑へやってきた。木立の間を子翼が先導する。

 慧喬が禁苑に足を踏み入れるのは久しぶりだ。

 青々とした葉は風が吹く度、さわさわと緩く揺れた。鳥たちのさえずりも只々、聴く者の心を和ませる。この地で痛ましい出来事が起こったとは信じられない長閑さだ。

 事件が起きたのは十日ほど前。孝俊たちもこの景色の中を進んだのだ。

 つい感傷的になるのを戒めながら慧喬が周囲を観察しつつ馬を進めていると、子翼が言った。


「この辺りだ」


 馬の手綱を引き、向きを変えさせて止まる。慧喬が馬から降り立つと、子翼もひらりと馬から飛び降りた。


 そこはひらけた空間になっており、見通しが良い場所だった。

 草も大して茂っておらず、他にもつまずくような物はない。周囲には何者かが身を隠すことができるような大きな木もない。

 誰かを狙うのに都合が良い場所には思われない。


「それまで大人しかった赤流が、突然この辺りで暴れ出したんだ」


 子翼が言うと、慧喬は片膝をつき、地面を凝視した。

 踏み荒らされた草の上に、血と思われるものが黒く固まっていた。

 孝俊と赤流の血だろう。

 触れてみると頭の奥が凍るほどに冷たくなった。慧喬はぎゅっと唇を結び、何かが溢れ出してしまうのを堪えた。

 大きく息を吸って気持ちを沈め、慧喬はその場で瞑目した。


 しばらくそうしていたが、慧喬は立ち上がり、周囲を見回した。木々に近づいて枝を見上げる慧喬に、子翼が横に並んで言った。


「事故の後、周りの木も調べたが、蜂や鳥の巣なんかもなかった」

「ああ。そのようだな」


 見る限り撤去した様子もない。


「宗文殿や他の兵士たちはどうしてた?」

「宗文は倒れている兄上を助けにきた。兄上を移動させて手当てをしようとしたんだが、既に意識がなくて出血も酷かったんだ。だから宗文に医者を呼びに行かせた。兵たちは周りに不審な者がいないか、将軍の指示で探索に行った」


 聞く限り怪しいところはない。適切な対応なのだろう。


「そうか」


 音にならないほどの声で呟いた。

 医官が駆けつけた時、孝俊は既に事切れていた。落馬し、愛馬に踏みつけられたゆえだ。

 どうして孝俊がそんな酷い死に方をせねばならなかったのか。

 慧喬はやはりどうしても納得ができなかった。


 必ず真相を明らかにするから。


 慧喬は心の中で孝俊に言った。




 検分を終えた慧喬が考えに沈みながら来た道を戻っていると、孟起が横に並んで馬を寄せた。


「どうした?」

「……様子を窺っている者がいる」


 ぼそりと孟起が言った。

 慧喬の首筋に緊張が走る。顔を動かさず辺りの気配を窺う。


「どこ」

「右後方だ」

「何人?」

「一人」


 孟起が言う方向には木々が連なっていた。人が隠れていてもわかりにくい。


「何かあったか」


 子翼が慧喬の左側に並んだ。


「誰かにつけられているらしい」

「どこだ?」

「気付かれる。周りを見るな」


 慧喬が前を向いたまま言うと、子翼が頷く。


「右後方らしい」

「捕まえるか」

「そうだな。でも少し様子をみる」


 三人は並んだまま進んだ。


「向こうも移動した。ついてきている」


 孟起が言うと、子翼が馬の手綱を引き、向きを変えた。


「慧喬を頼む!」


 そう孟起に言い置いて、子翼は木々の中へと馬を疾駆させた。


「子翼殿!」


 慧喬が舌打ちする。

 馬を急旋回させ、二人も子翼の後を追った。


「うあっ!!」


 叫び声と共に、嘶きとどさりと何かが落ちる音が耳に届いた。


 声のした方向には、腕を押さえて地面に転がる子翼が見えた。

 腕からは鮮血が流れている。


 そして、馬を疾走させる何者かの後ろ姿を僅かに目が捉えた。



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