第18話 養花 3




 地面で左腕を押さえて呻く子翼の元へ向かうと、慧喬は馬から飛び降りた。子翼の指の隙間からは血が流れ出ている。しかし斬られたのが腕だけなのを確認し、厳しい顔が僅かに解ける。


「すまん……油断した……」


 子翼が顔を歪めて呻く。


「大丈夫か。手に痺れは?」

「いや。痺れはない」


 出血が多く見えたが、傷自体は深くないようだ。

 慧喬は手巾を取り出して腕を縛り止血する。


「子翼殿がやられるとはな……。顔は見たか?」

「それが……追いついたんだが、兜帽ずきんを被っていたから顔はわからなかった」

「……そうか」

「そのまま生け捕りしようとしたのがいけなかった。失敗した」

「焦って追うからだ」

「……すまん……」


 叱られて項垂れる子翼の顔のちらりと見て、傷の手当てを続ける。


「……その者は……馬上で剣を振うことができるほどだから武術の心得はあるだろうな……」

「……ああ」

「しかも、油断したとはいえ、子翼殿に一太刀あびせられるんだから相当なものだ。……ここ、押さえておいて」


 言われたとおりに子翼が手巾を巻かれた腕の傷を押さえる。


「立てるか?」


 慧喬が立ち上がり、身体を支えようと手を伸ばすと、子翼は自力で立ち上がった。


「大丈夫だ。こんな不甲斐ない姿、お前に見られたくなかったな」


 無理に笑いを作ろうとして子翼の顔が歪む。


「そういう時もあるだろう」


 淡々と言う慧喬を子翼があらためて見る。しかし先ほどまでいた護衛がいないのに気付いて子翼が聞いた。


「慧喬の護衛は?」

「後を追って行った」

「そうか」


 慧喬は馬の去って行った方へと視線をやったが、すぐに子翼へ振り返った。


「……傷はちゃんと手当てしてもらった方がいい。馬は……」


 辺りを見回すと、子翼の馬は少し離れたところにいた。自分の主が背から落ちた後、足を止めて大人しく待っていたようだ。

 慧喬は子翼の馬に近寄り鼻面を撫でた。馬の優しげな目は慧喬を和ませると同時に、やりきれない想いも生んだ。

 赤流はこの馬と何が違ったんだ?

 慧喬は胸にわだかまる想いを追い出すように溜息をつくと、馬を引いて子翼の元へと戻った。


「乗れるか?」

「ああ」


 慧喬が手を貸す前に、子翼は馬に跨がった。




 子翼を太医署に送り届け、慧喬は禁軍の鍛錬場に戻った。孟起の姿を探すと、鍛錬場にいる兵士たちと話をしているのが見えた。

 慧喬に気付き、孟起が走ってやって来た。


「どうだった?」


 慧喬の問いに、孟起が申し訳なさそうに頭を掻いた。


「面目ない。鍛錬場の手前の馬だらけの馬場に入られて見失った」

「馬場には誰か、そいつを目撃した者はいなかったのか?」

「人は誰もいなかったんだよ」

「そうか……。じゃあ、鍛錬場の兵士で抜けた者はいないか」


 慧喬たちが子翼を訪ねてきたのを見て後をつけたのだと考えれば、あの時、鍛錬場にいた禁軍の兵士である可能性がある。馬場に潜り込んで追手を撒くことができるというのも関係者ならではだろう。


「聞いてみたんだけど、子翼様以外は誰も鍛錬を抜けていないって」


 慧喬が眉を顰める。

 その眉間を見ながら孟起が申し訳なさそうに眉を下げ、得た情報をせめてと伝える。


「後ろ姿だけしか見てないから絶対ではないけど、背はあまり大きくないが男だと思う。馬の扱いには慣れてるように感じた」

「……そうか……」


 慧喬は何かを見つけようとするように鍛錬場の方へと視線を移した。


「もう少し調べてみるかい?」


 孟起が聞くと、しかし慧喬は首を振った。


「いや。これから赤流のいた厩へ行こう」


 そして振り返って付け加えた。


「でもその前に、寄りたいところがある」




 慧喬が向かったのは宮城の西側にある庭園だった。蓮の葉の浮かぶ大きな池があり、池の上には水廊が巡らされている。水廊にはぽつりぽつりと方亭あずまやが置かれていた。

 慧喬は水廊を見渡し、方亭の一つに目を留めた。


「居た」


 そう呟き、水廊を渡って目的の人物がいる方亭へと向かった。


「宗文殿、ご無沙汰をしています」


 声をかけると、方亭に設られた椅子に腰掛けて足を組み、本に目を落としていた人物が紙から視線を上げた。


「おや、慧喬じゃないか」


 細面の顔の中で涼やかな目が少し驚いたように開く。

 宗文というのは貴妃の産んだ子翼と同じ年の王子だ。この水廊の方亭で本を読む姿がよく見かけられる。


「久しぶりだね。……一年振り? ……いや、それ以上かな」


 方亭へと入ってきた慧喬を、座ったまま見上げて眩しそうに目を細める。


「そういえば太子殿下になるんだったね。そうなると呼び捨てはまずいかな」

「別に構いませんよ。それに冊立式はまだです」

「そうか。では、お言葉に甘えて」


 宗文は笑うと、慧喬の背後に立つ孟起をちらりと見遣った。


「珍しいね。慧喬が護衛を連れて歩くの」

「ああ。そうですね。詹事府の者がうるさくて」


 適当に言って、話を変える。


「何を読んでいるんですか?」


 慧喬が、座っても? と断って宗文の横に座って聞くと、宗文が手にしていた本を見せた。


「詩ですか」

「うん。最近は詩ばかりだよ。良かったら貸そうか?」

「いえ、今日は結構です。また今度貸してください」


 宗文は、了解、と微笑んであらためて慧喬を見た。


「見る限り、身体の方は大丈夫そうだね」

「ええ。お陰さまで」

「それはよかった」


 宗文が目を細めて聞いた。


「で、どうしたの? 私に会いにきたの?」

「そうです。療養から復帰したので、挨拶をと思って」

「それは丁寧に」


 少しだけ笑って宗文が思い出したように言った。


「この間の朝議……蘭華殿の方のだけど、母がすまなかったね」


 後宮での朝議で、慧喬の療養について貴妃が王妃にくってかかったことを言っているのだろう。


「いえ。本当のことを言っていなかったのは事実ですから。貴妃様には不快な思いをさせてしまったようで、こちらこそ申し訳なかったと思っています」


 少し頭を下げた慧喬に、宗文の方は困ったように眉を下げた。


「いやいや。こちらこそ、王妃様にはいつも母が失礼な態度をとってるみたいだから、息子としては心苦しく思っているんだよ」

「大丈夫ですよ。ああ見えて母上はお強いですから」


 慧喬が冗談めかして言うと、ならいいけど、と宗文が苦笑する。


「……貴妃様は、その後どうされていますか?」


 正式に慧喬が後継になることが公にされた。慧喬が復帰を宣言した蘭華殿の朝議の後、貴妃もそれを知ったはずだ。貴妃の反応はどうなのか。

 宗文は質問の意図を推し量るような視線を返しつつ言った。


「……さっき見に行ってみたら、部屋に閉じこもってるようだった」

「具合がお悪いのですか?」


 慧喬が聞くと、宗文が微妙な笑顔を作る。


「どうだろうね。……全く不謹慎なことに、今度こそ私を太子に、と意気込んでいたみたいだからね……。落胆のあまり寝込んでいるのかもしれない」


 そう言ってから、宗文は首を振った。


「ごめん。こんなこと慧喬に言うべきことではないね」

「いえ」


 淡々と応える慧喬に、宗文が少し躊躇いながら言った。


「……だけどね……。母は感情の起伏の激しい人だからね。これまで以上に王妃様や慧喬に……辛く当たるんじゃないかと心配してるんだ」


 言葉どおり”辛く当たる”程度であれば、さして問題はない。王妃にしろ慧喬にしろ、大した傷をうけないだろうということはわかるはずだ。

 もしかしたら宗文は、自分の母親がそれ以上のことをする可能性を危惧しているのかもしれない。


「まあ、大丈夫だとは思うけど」


 取り繕うように笑って宗文が付け足すのを受け流し、慧喬はもうひとつ確認したかったことをあえて断定的に尋ねた。


「貴妃様は、私が太子に指名されるということは、前もってご存知だったのですよね」

「え? そんなはずないんじゃない? 知らなかったと思うけど。正直、私も慧喬が指名されるとは思っていなかったから驚いたよ。慧喬は知ってたの?」

「いえ。突然のことで一番驚いているのは私だと思います。太子になるつもりは全くなかったので」

「そうなんだ」


 さらに、自分が口にするのは失礼だと承知の上で、話の流れに乗り無神経を装って聞いた。


「……宗文殿はどうだったんですか?」


 宗文が静かに慧喬を見返し、何度か瞬きをすると視線を水に浮かぶ蓮に移した。葉の上を滑るように風が渡っていくのをじっと見つめながら、ゆっくりと口を開いた。


「……母は私を太子にするつもりで育てたからね。私にはどうしても太子になりたいとういう強い気持ちはなかったけど、陛下に選ばれることを目指してはいたよ。私が太子になれば、母は喜ぶだろう……喜ばせてやりたい、ということくらいは思ってた」


 僅かに宗文が笑う。その笑いに自嘲が混じる。


「だから、兄上が太子に選ばれた時、私はその器ではないのか、と落胆もしたし、母にも申し訳ないと思った。でも、重荷を下ろすことができたという安堵を感じたのも事実なんだ。だから今更また、太子に選ばれるかも、と母に言われても、困惑が先に立った」


 慧喬がちゃんとそこにいるかを確認するように視線を戻し、宗文が沈んだ声で言った。


「兄上は本当に残念なことになってしまったと……私も思ってるんだよ。きっと良い王になられただろうに」


 慧喬は宗文に頷いてみせると、今思いついたというように、ああ、と声を漏らした。


「そういえば、宗文殿も孝俊兄上の……事故が起こった時、一緒だったんですね」

「そう。いつものことだけど狩りはするつもりはなくて、馬でのんびり最後尾をついて行ってたんだ」


 宗文は狩りにはあまり興味はないのだが、馬に乗ることは好きで、いつもそうして皆の後について乗馬を楽しんでいたらしい。


「あの時、急に赤流が暴れ出したと聞いたのですが」

「らしいね。私は皆から後れたところにいたから、その瞬間のことはわからないんだ。騒がしいから何かあったのかと思って追いついてみたら、子翼が赤流を斬り捨てるところだったんだ」


 その時の光景を思い出したのか、宗文が涼やかな顔を歪める。


「慌てて馬から降りて兄上のところにいったんだよ。でも、酷い有様で……恥ずかしい話、私は血が恐ろしくて……何もできなかったんだ。だから子翼が私に医官を呼びに行くようにって」

「それで宗文殿が医官を呼びに行ったんですね」

「だけど、呼んできた時にはもう兄上は……」


 深い溜息をつく。


「何か気付いたことはありませんでしたか? 例えば誰か逃げていくような姿を見たとか」

「御史台にも聞かれたけど、そういったものは見なかったな」

「そうですか」

「うん」


 頷くと、更に物憂げに視線を沈める。


「……それにしても、まさか赤流がそんなふうに暴れるなんて、今でも信じられないよ」


 そう言って首を振った。



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