第16話 養花 1



 行成に手続きを申し付けた翌日、朱全が華京に戻ってきた。

 東宮付きになったと言われてやってきた朱全は、自分が去ってから慧喬に起きたことを知って愕然とした。更に、交代するはずだった同僚が殺されていたことに酷く衝撃を受けた。

 この件の責任は自分にあるから罰せられるべきだ、と朱全は言い張った。しかし、慧喬がそんな生真面目な護衛を引き留めた。


「其方は私の指示に従っただけだ。落ち度はない。それに其方の仲間の仇を討ちたくはないか?」


 朱全は慧喬の言葉を俯いて聞いていたが、「仰せの通りに」と掠れた声で承諾した。

 慧喬は朱全に、文承に預けてきた男を連れてくる役目を申し付けた。それに朱全と交代するはずだったもう一人の護衛の遺体を連れ帰ってくることも。



**



 行成が協力してくれることになったおかげで、かなり調査がやり易くなった。

 取り寄せた孝俊の落馬事件の報告書に目を通すと、慧喬はそれをぱさりと机に置き、腕を組んで目を瞑った。



 問題の狩りは宮城北側の禁苑で行われた。

 それは時々催される小規模なもので、孝俊の他に子翼と宗文、それに左羽林軍の将軍に十名ほどの兵士が従った。

 当日、孝俊は自らうまやへ赴き、赤毛の馬——名前を赤流せきりゅうといった——を連れて行った。

 孝俊の体調に変わったところはなく、赤流もいつもどおり従順だった。

 しかし。それは狩りが始まり半刻もしないうちに起こった。

 突然、赤流がいななきを上げて竿立ちになると、孝俊を振り落とそうとするように暴れ始めた。孝俊は必死にしがみついたが、耐えきれず振り落とされてしまった。それでも赤流の興奮は収まらず暴れ続けたため、子翼は已む無く赤流を斬って止めた。


 赤流が暴れ始めるきっかけとなるような大きな音が起こったわけでも、獣などの獲物が現れたわけでも、何かが飛んできたわけでもなかったということだ。鞍などの赤流に着けられていた馬具にも異常は見つからなかった、と報告書には記されていた。

 振り落とされた孝俊は、落ちた際の衝撃と、赤流に踏みつけられたことにより亡くなったと思われるとあった。



 慧喬は閉じていた目を開けて机に置いた報告書を睨みながら、その前に立つ行成に聞いた。


「兄上がそれまでに命を狙われたことはあったのか」


 行成は穏やかな顔を険しくして記憶を浚うように視線を落として言った。


「……直接孝俊様の御身に被害を受けはしませんでしたが、毒を盛られかけたことがありました」

「いつ頃のことだ」

「……一年ほど前、慧喬様が紫紅峰へ行かれてすぐの頃です」


 顔を上げた慧喬と目が合うと行成が続けた。


「宴に出されるはずだった飲み物に毒が入れられていました。御前に出す前の段階で発覚したので孝俊様はご無事でしたが」

「毒か……。その時の犯人は捕まったのか」

「毒を入れた下女はわかりました」

「下女?」


 慧喬が眉を顰める。


「……その下女が単独でやったわけではないだろう? 命じた者は?」


 しかし行成は首を振った。


「その下女は尚食の下働きだったのですが……遺書を残して自死し、調査はそこで打ち切られました」

「……遺書には何と書いてあったんだ」


 腑に落ちない顔で慧喬が聞くと、行成は一瞬躊躇った。

 首を傾げることで慧喬がその先を促すと、行成は穏やかな顔を不快げに歪めて言った。


「……孝俊様に乱暴された、と……」

「はあ?」


 珍しく慧喬の声が跳ね上がる。


「もちろん事実無根の妄言です。御史台の調査でもそういった気配すら全く出て来ませんでした」

「まあ、そうだろう」


 慧喬が眉間に深い溝を刻んで椅子の背にもたれる。


「その下女は普段から精神的に不安定なところがあり、妄想癖もあったようでした。ですので、妄想と現実を混同して孝俊様を恨んでいたのだろうという結論となりました」


 こつこつと指で机を叩いて、慧喬が、ふむ、と唸る。


「その者からは事情を聞いたのか?」

「いえ。見つかった時、既に毒を飲んで死んでいたそうです。孝俊様の飲み物に入れたものと同じ毒だったと聞いています」

「何の毒だったんだ」

「附子です。遺体となって見つかった下女がその花を手に持っていたそうです」


 附子は全草に猛毒を有する毒草だが紫色の優雅な花をつける。ちょうどその頃が開花時期でもあった。


「入手経路は?」

「……宮城内の薬草園から盗んだのではないかと推測されていましたが、盗まれるような管理はしていないと太医署が主張しており、実際は不明のようです」


 毒草であるが附子の根は薬として利用できるので太医署が栽培をしている。


「そうか……」


 慧喬が眉を顰める。


「……自死なのかも怪しいな」


 卓に肘をついて呟くと続けて聞いた。


「遺書はその尚食の下女が書いたもので間違いないのか」

「……同僚の証言があり、その遺書の筆跡はその下女のもので間違いないとされたそうです」

「証言した者はわかるか」

「調べておきます」


 行成が申し訳なさそうに頭を下げた。

 慧喬はそれに頷くと、念を押すように聞いた。


「それ以後はそういった騒動はないんだな」

「はい。その事件があって食事の管理や毒味が強化されましたので」


 そうか、と慧喬が顎に手を当てて考え込んだ。


 孝俊は命を狙われた。

 昨年の未遂の件に黒幕がいたとしたら。

 もし今回の件が事故死でないのなら、昨年の事件の黒幕が関わっていると考えるのは不自然なことではない。

 ただ、一年もの間があいた理由はよくわからない。


 慧喬がこめかみを指で押しながら考えを巡らせていると、部屋の外からよく通る高い声がかかった。


「慧喬殿下、入っていい?」


 返事を待たずに入ってきたのは葉珠だった。


「ちょっと避難させて」


 珍しく疲れた顔で言うと、椅子に腰掛けた。

 そして、あら、と行成に気づいて声をかけた。


「行成も引き続き詹事府の所属なのね」

「はい」


 行成が頭を下げる。


「それはよかったわ。殿下もご安心でしょう」


 慧喬が、そうですね、と応えながら執務机を立ってその向かいに座った。


「で、何から避難しているんですか?」

「叔父上につかまってしまって逃げて来たの」

「どの叔父上ですか?」

「宗正卿よ」

「なるほど」


 慧喬が察して笑う。

 宗正卿は、現王の兄弟姉妹のうちで唯一まだ結婚をしていない葉珠の嫁ぎ先を決めたがっている。しかし葉珠としては、まだ若いので急いで結婚する気はなく、相手はこれから自分で決めると言ってそれをかわし続けていた。


「良き時に、ふさわしい方をきちんと選ぶと何度も言っているのに」


 葉珠が不満そうにこぼす。


「長公主たる者としてですか」

「ええ、そうよ」


 「公主たる者」と葉珠によく説教された台詞を持ち出して揶揄すると、葉珠がすまして答えた。

 その口調に笑いながら慧喬が言った。


「……それはそうと、ちょうどよいところに来てくださいました」

「何か用事でもあった?」


 慧喬が茶を淹れようとして手にした卓の上の茶道具を、葉珠が、やるわ、と言って取り上げる。


「……葉珠様は宮城のことをいろいろとご存じなので、教えていただきたいのですが」


 茶を淹れる葉珠の顔を見ながら慧喬が言った。


 葉珠はその持ち前の社交性であちこちに顔が利く情報通だ。

 先ほど行成と話していた尚食の下女についても葉珠ならば知っていそうだ。


「何が知りたいの?」

「昨年、夏の宴の際に兄上の飲み物に毒が入れられたと聞いたんですが」

「……あったわね」

「犯人とされた尚食の下女の遺書を、本人の筆跡だと証言したのは誰だったんでしょうか」

 

 葉珠が手を止めて湯呑みから慧喬に視線を移す。


「どうしてそんなことを知りたいの?」

「単なる好奇心です」


 それだけで続く言葉はない。

 葉珠は瞬きせず慧喬をじっと見つめていたが、それでもそれ以上慧喬が口を開かないのに折れた。

 慧喬の前に茶の入った湯呑みを置くと、葉珠は自分の分の茶を一口飲んだ。 


「……まあいいわ。段明汐という子よ」


 葉珠は直ぐにその名前を答えた。

 返答の速さに若干の疑問を感じながら慧喬が更に聞く。


「……その下女は今もいますか?」

「尚食にはいないわよ」

「辞めたんですか?」


 葉珠が首を振った。


「あの後、梅花宮に移ったの」

「梅花宮ですか…」


 慧喬が呟くのを上目遣いに窺い見て、先回りするように葉珠が言った。


「でも、梅花宮に行ってもいないみたいよ」

「……どういうことですか?」


 怪訝な顔で聞いた慧喬に、葉珠が頷いて声を落とす。


「十日くらい前からいないんですって」


 葉珠が段明汐の名前をすぐに答えられたのは、つい最近耳にした名前だったからだ。

 そのことに納得はしたが、情報自体は不穏だ。


 慧喬が眉根を寄せると葉珠が声を落としたまま続ける。


「荷物もすっかりないらしいの」

「夜逃げでもしたのですか?」

「どうかしらね。どうも殿方と抜け出したのじゃないか、と梅花宮の子が言っていたわ」

「根拠はあるのですか?」

「好きな殿方がいるって言っていたんですって。でも一緒になるにはまだ難しいって」


 宮女たちの噂話すらも付け加えてくれるのは葉珠ならではの情報収集能力ゆえだ。


「その男が誰なのかわかりませんか」

「わからないわね。同僚の子も名前までは聞いていないのよ。今は言えないのって嬉しそうに言っていたらしいわ」

「……そうですか」


 慧喬は考え込むと、顔を上げた。


「わかりました。ありがとうございます。流石、色々とご存知ですね」


 そう言うと、ふふん、と葉珠は少し得意げに笑った。


「ところでそこにいるのは護衛よね? こんな人、詹事府にいたかしら」


 慧喬の後方に控えていた孟起へと視線を移して葉珠が言った。


「目ざといですね」

「だって、いたら絶対に目立つもの」


 慧喬も孟起を振り返って見る。


「昨日から侍従武官に採用しました」

「直々に?」


 そうです、と慧喬が頷くと、葉珠が興味津々の瞳を輝かせて椅子を立った。そして孟起に近寄り見上げる。


「お名前は?」

「……李孟起と申します」


 その勢いに、引き気味に孟起が答える。

 かまわず葉珠が畳みかけるように聞く。


「年は?」

「十七ですが……」

「あら。私と同じだわ。ご実家は?」


 嬉しそうな笑顔になる。


「南岐郷の地方官です」


 それを聞いて若干葉珠に失望の色が現れ、あらそう、と引き下がった。

 しかし改めて孟起の周りを巡りながら検分するようにじっくりと見る。


「でもまあ……まだ若いし……」


 正面に戻り、困惑気味の孟起の顔を改めて見上げて呟くと、にっこりと笑顔になって言った。


「頑張ってお勤めして出世なさいね」


 孟起に謎の激励を残し、葉珠は軽やかに去っていった。



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