第11話 蕾 1
捕えた男は、後から証人として連れに来させるため、逃げ出せないように厳重に拘束して文承に預けた。
慧喬は県から来ていた調査官に身分を明かし、乗って来ていた馬を借りて孟起と華京へ出発した。
しかし山道が多いため、焦る気持ち程には距離を稼ぐことができない。
平坦な道に出ると速度を上げ、途中で何頭も馬を交換して夜通し走らせた。
*
明玉の村を出て六日目、ようやく華京に着いたのは日の落ちる時刻だった。
もうすぐ門が閉まる直前、慧喬は皇城の宗正寺へと向かった。
宗正寺は王族の諸事を司る役所で、長官の宗正卿には慧喬の大叔父が就いている。宗正卿は慧喬が紫紅峰に行っていたことを知る数少ない人物だ。
「大丈夫なのかい?」
声をかけた孟起へ、慧喬が目だけ向けた。
慧喬が紫紅峰に行ったのを知っているということは、慧喬に刺客を差し向けた人物であるという可能性はありうる。だから孟起の心配もわかる。
しかし、慧喬は、ああ、と頷いて言った。
「……叔父上には私が消えることに利益はない。そもそもそんなことを画策できる方ではない。……もし万が一何かしでかしたことがあるとしたら、私の居場所を期せずして漏らしてしまうことくらいだな」
そして、皇城の門で"草心高"名義の通行札を見せ、特に門番に正体を気付かれることなく中へと進んだ。
慧喬が声をかけて宗正卿の執務室へ入ると、生真面目そうな初老の男性が慧喬の姿を見て執務机から立ち上がった。
「遅かったではないですか。葬儀はもう済んでしまいましたよ」
咎めるように言う宗正卿の様子は、刺客を差し向けた者の反応ではなかった。
「紫紅峰にいなかったんです」
宗正卿が、「何と間の悪い……」と溜息を吐いた。
慧喬は自身の身に起きたことを伏せたまま用件を切り出した。
「とりあえず母上のところに戻ります。まだ誰にも知らせないでください」
表向き、慧喬は富貴宮で療養中である。その状況を保ったまま秘密裏に帰るつもりだ。
慧喬の命を狙った企みが失敗したことは、恐らくまだ依頼主には伝わっていないだろう。もし側妃の誰かが慧喬を狙ったのであれば、どうせならば人伝てでなく、直接無事な姿を見せて反応を見たい。
「しかし陛下がお待ちですよ」
「陛下のところへは今夜、自分で伺います」
宗正卿は、わかりました、頷くと、慧喬の後ろに控える孟起に目をやった。
「警護、ご苦労でした。後は私が引き継ぎます」
孟起を慧喬に付けていた護衛と勘違いをした宗正卿が労う。
「ああ。彼は軍の人間ではないのです。訳あって代わりに護衛を頼んだのです」
慧喬は宗正卿に言うと、孟起を振り返った。
「さすがに後宮に入ってもらうことはできないから、別に宿を用意させる。少し待っていてもらえないか」
しかし孟起は首を振ると言った。
「いや、ありがたいが、実は左衛軍に同郷の友人がいるんだ。久しぶりに会いたいから、そいつの家に世話になるよ。ああ、大丈夫。君……殿下のことは言わないから」
「……そうか。そういうことなら……。では悪いがまた明日、ここに来てもらってもいいか。礼も渡したいし」
慧喬はそう言うと、宗正卿に通行証を作ってもらい、孟起に渡した。
*
「慧喬……!」
宗正卿の手配で侍女に扮した慧喬が後宮へ無事に入ると、富貴宮で青ざめた梁氏が慧喬を迎えた。
駆け寄って来て慧喬を抱きしめる。
「遅くなって申し訳ありません。……兄上のこと……」
慧喬が言うと、びくりと肩を震わせ、梁氏はしばらくそのまま無言で慧喬を抱きしめた。
急かすことをせずに梁氏の言葉を待っていると、ようやくそっと手を離した。
「……孝俊殿下は……狩の最中に落馬……して……亡くな……」
梁氏は声を詰まらせて最後まで言いきることができなかった。口元を覆い、嗚咽が漏れるのを堪える肩を慧喬がさする。
孝俊は四年前に立太子した孝緒王の正式な後継だった。前王妃の劉氏が産んだ男子で、慧喬の腹違いの兄にあたる。
しかし、まだ孝俊が十歳の時、母親の劉氏が亡くなると、王は当時淑妃であった梁氏に孝俊の養育を任せた。
その頃、他の側妃には既にそれぞれ男児がいたが、梁氏には二人の女児がいただけだったので、孝俊の預け先として選ばれたのだ。優しく温厚な梁氏は、母親を亡くしたまだ子どもだった孝俊を快く招き入れた。
そうした故あって、孝俊は数年間を蓮花宮で過ごした。
だから慧喬にとっては他の何人もいる腹違いの兄妹よりも近しい関係だった。
梁氏にとっても、血の繋がりはないが、数年とはいえ母親代わりでもあったのだ。孝俊が亡くなったことは耐え難い衝撃であるのは否めないだろう。
「……兄上は乗馬が得意だったはずですよね……」
慧喬が梁氏の背中をさすりながら低く言う。
梁氏は手巾で口元を抑えたまま嗚咽を堪えて何度も頷くと、ようやく震える声で言った。
「……急に……馬が暴れ出して……殿下を振り落としたのだそうよ……」
「……兄上が可愛がっていた赤毛の馬ではなかったのですか?」
「いつもの馬だったと聞いているわ。……あんなに……懐いていたのに……」
梁氏がまたぼろぼろと涙を溢した。
孝俊は聡明である上に、身体能力にも秀でていた。特に馬術を好み、その腕前に関しては自他ともに認めるほどに優れていた。
時に自身で世話をするほどに、赤毛の馬を可愛がってもいた。
その愛馬に振り落とされて命を落としたという。
慧喬は梁氏の背中をさすりながら、琥珀色の瞳を昏い想いに沈めた。
*
「只今戻りました」
夜も更けた頃、慧喬は父である孝緒王の内廷の執務室へと参じた。王がこの時間まで執務をしていることは承知の上だ。
「慧喬か。遅かったな」
案の定、王は執務机に座って書類を睨んでいた。声でわかったのだろう。顔も上げずに言う。
「……兄上の葬儀に間に合わず……申し訳ありませんでした」
「……ああ」
王が手にしていた書類をばさりと机に置く。
「……兄上が落馬で亡くなるなど、私には信じられません」
まだ書類に視線を置いている王に慧喬が低い声で言う。
「しかし孝俊が死んだことは事実だ」
淡々とした応えに、慧喬の片眉が上がる。
そのままじっと王の次の言葉を待っていると、王がようやく顔を上げた。
一年ぶりに
常に冷静かつ合理性を好み、ややもすると冷酷な処断をすることもある王であるが、その皺からは太子を失ったことに精神的に深傷を負ったことが察せられた。
慧喬の気持ちも僅かに解ける。
「……何者かの手が加わったということは……」
慧喬が思わず聞くと、王は肘をついて眉間を指で押しながら言った。
「無論、調べさせた。しかし衆目の中でのことだ。馬の気を乱すようなことは起こらなかったとその場にいた者は誰もが言うし、孝俊の体調にも不審なことはない」
「……そうですか……」
慧喬は納得はしていなかったが、王が言うことを否定するだけの材料もなく、目を伏せた。
すると、王から長い溜息が漏らされた後に、ぼそりと呟くように出た言葉を慧喬の耳が拾った。
「……余のせいかもしれぬ……」
慧喬が顔を上げる。その真意を問おうと口を開きかけると、王が眉間に当てていた指をどけて慧喬を見た。
「慧喬」
王の発する空気が変わった。
大陸一の大国峯紅国を統べる王の威厳は、文承に散々
「はい」
緊張をはらみ慧喬が返事をする。
「お前には我儘を許していたが、それも終わりだ」
「……どういう意味でしょうか」
王が慧喬を強い視線で捉える。
「お前が余の跡を継ぐのだ」
慧喬の鼓動がどくりと打った。
命を狙われたのはこのせいだったか。
真っ直ぐに見据えてくる王の目には、有無を言わせない力があった。その圧力に負けないよう、慧喬は無意識に足に力を入れていた。
奥歯を噛んで真っ直ぐ王に視線を返す。
そして、すうっと息をゆっくりと吸い込み、意に反して早くなっていた動悸を鎮めると、叶う限り平静を装って言った。
「……本気でおっしゃっているのですか?」
「そうだ」
王が再び眉間を指で押しながら言った。
王には王妃である慧喬の母の他に三人の側妃がいる。
子も其々に何人かおり、慧喬よりも年齢が上の王子もいる。
「宗文殿や子翼殿がおられるではないですか」
「お前でなければならないのだ」
「……しかし、過去、紅国に女王はいません」
「女王が立ってはならないという法はない」
確かにそうではある。
紅国では、王の後継者は、王の血を引く子の中から、王が決めることになっている。いくら臣下から反対があっても、決めるのは王だ。
後継者を決める権利は王の専権事項であると法にも規定されている。
そうして脈々と続いて来た紅国王に暗君はいない。
かつて、うつけ者と周囲から思われていた末の王子が後継者に指名されたことがある。当然、臣下たちから激しい反対にあったが、王はそれを撤回することはなかった。
そして実際に即位した後は善政を敷き、歴代王の中でも屈指の名君となった。
紅国に暗君がいなかったことは、長きにわたり大陸一の大国として君臨する所以でもある。
「私である理由を教えてください」
「お前が最も相応しいからだ。今はそれしか言えぬ。冊立すれば教えよう」
慧喬が思わず眉を顰める。
理論的であることを好む王の物言いとは思えない釈然としないものだ。
それを自覚しているかのように、王が話の方向を微妙に逸らした。
「紅国の
孝俊の助力により、慧喬の紫紅峰行きを王に認めてもらった際に言った言葉を持ち出す。
「それは、王を支えるという意味です。自身が王になるという意味ではありません」
慧喬がぎゅっと唇を噛む。
「まだ公にはしていない。だがこれは決定だ。詔書の作成も完了している」
決定事項であることを王が改めて念押しをすると、慧喬は顔を伏せたまま言った。
「……申し訳ありませんが少し考える時間をください」
「お前がいくら考えてもこの決定を覆すことはない」
慧喬はそれには何も言わず、一礼して王の前を辞した。
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