第10話 枝葉 7




「木の後ろへ!」


 孟起の声に慧喬と文承が這って木の影に回る。それを追うように二の矢が飛んだ。慧喬の結んだ髪を矢が掠めていく。

 叫んだ孟起は慧喬たちの方へは来ず、矢の飛んできた方へと走っていた。


 離れたところの木の脇で三本目の矢を番えていた男は、猛然とやってくる孟起を見ると、その場を離れて走り始めた。

 しかし、追う孟起が投げた短剣が足に刺さり、男は転倒した。


 追いついた孟起が男に馬乗りになる。男は腰につけていた短剣を抜いて振り回したが、孟起は男の手から剣を叩き落とすと、そのまま手を後ろにねじり上げてうつ伏せに地面へと押し付けた。


「放せっ!」


 男は叫び声を上げながら抵抗したが、孟起に完全に動きを封じられた。


「孟起殿!」


 矢を放った男が孟起に取り押さえられたのを確認すると、慧喬が駆けてきた。その後に文承も続く。


「怪我は?」


 孟起が慧喬に焦った顔で聞いた。


「大丈夫だ」


 ざっと頭からつま先までに目を走らせ、慧喬が言ったことに相違がないとわかると、孟起がほっと息を吐く。


「すまない。油断してた」

「いや。助かった」


 そう答えると、慧喬は孟起に押さえつけられて呻き声を上げる男を見た。


「この男に見覚えは?」


 孟起に言われて慧喬が膝をついて男の顔を覗き込む。


「記憶にはないな……。文承殿は?」


 慧喬の後から男を覗き込んでいた文承も首を振る。


「……村正の仕業というわけではなかろうしな……」


 告発された形になった村正は、慧喬を恨んではいるだろうが、だからといって人を雇って命を狙うほどの度胸はないだろう。


「文承殿じゃなくて、君だから狙われたと考えるのが自然だと思うけど」


 孟起がそう言ったのを聞いて、何かを問いたげな視線を寄越した文承に、慧喬が、ああ、と呟く。


「私についていた監視を使いに出してしまったから、その代わりに護衛を頼んだんだ。その時に身分は明かした」


 短く説明を終えると、慧喬は改めて男を見た。


「私の命を狙ったのか?」


 男は硬い表情のまま答えない。しかし答えないことで、それが正解であることがわかる。

 慧喬は男の側に落ちていた弓を手に取った。


「これは……禁軍の支給品だな……」


 慧喬は現王妃の第一子だ。

 禁軍の兵ならば慧喬の顔は知っているだろう。やはり慧喬であることを承知の上で狙ったのだ。


 慧喬が片膝をつき、男の顎に手をかけて顔を自分の方に向けさせた。


「誰に頼まれた? 理由は?」


 男に弓を見せて冷ややかな声で問いただす。


「正直に言った方がいいぞ。どのみち、この弓で身元は割れる」

「……」

「忠誠心のつもりかもしれないが、失敗した時点で依頼主に切り捨てられることくらいわかるだろう。正直に話せば命だけは助けてやろう」


 黙り込む男が折れるのを待つ。

 男は逡巡するように視線を彷徨わせたが、やがて諦めたように身体から力を抜くと、ぽつりと言った。


「……理由は……はっきりとは聞かされていません……。声をかけられて……」

「誰に」

「誰なのかは知りません。……宮女のようでした」

「そんな不確かな依頼を受けたのか」

「……母が……人質に取られたんです……」


 男の声が震え、顔が歪む。

 慧喬が不快げに目をすがめる。


「どんな女だった? 宮女のようだと言うのなら、そう思った何かがあるだろう」

兜帽ずきんの付いた長い外衣を着ていたので、顔も身なりもよくわかりませんでした。……ただ、見間違いかもしれませんが……玉佩が……見えました……」

「形は? 紐の色はどうだ」

「……紐は白っぽかったような気がします。玉佩は……丸い形でした……」

「……花の形か」

「暗かったので細かい形まではよくわかりませんが……花のように見えました」


 紅国の後宮では、王妃、貴妃、賢妃、徳妃、淑妃が、それぞれ富貴(牡丹)宮、梅花宮、桃花宮、菊花宮、蓮花宮と花の名前が付けられた宮を賜る。そしてそこで働く宮女たちは、宮名の花の形の玉佩を身につける。玉佩を結ぶ紐の色も宮によって決まっており、玉佩を見ればその宮女がどの宮の所属なのかわかるようになっている。

 ちなみに今の後宮には、慧喬の母親である王妃と、貴妃、賢妃、徳妃がいる。淑妃は現在空席だ。

 男の見た玉佩が、牡丹、梅、桃、菊のいずれかの形であれば、その宮女が後宮で妃に仕えていることになる。


 慧喬は立ち上がり腕を組んだ。


 その宮女が本当に側妃の配下ならば……。


 側妃の誰かに命を狙われるとしたら、後継者争いのため、という理由がわかり易いだろう。実際に、立太子されるまでは、妃たちの間には殺伐とした空気が満ちていた。

 当時、まだ幼かったにも関わらず慧喬を推す貴族もあったが、これまで紅国には女王が立ったことがないため、側妃たちに目の敵にされたことはない。

 それに、結局は一番上の王子である孝俊が太子となって争いも落ち着いたはずだ。


 ならば、別の理由なのか?


 慧喬が泰慈先生のところに身を寄せていることは伏せられていた。表向きは病気療養中で、母である王妃のいる富貴宮に引きこもっていることになっており、本当は紫紅峰にいるということを知っているのはごく限られた者のみだ。

 そう考えると、慧喬を狙った人物は絞られてもくる。


 しかし、紫紅峰やその麓の郷で襲われるのならばともかく、慧喬がここにいるのは言わば不測の事態だ。


 慧喬が男を見下ろして聞いた。


「どうして私がここにいるとわかった?」

「公主様の護衛を尾けました……」


 慧喬には影のように付き従う護衛がつけられていた。それは何日かごとに、宮城への連絡を兼ねて交代していた。

 交代が来た際に、慧喬が護衛ともども紫紅峰を不在にしていることもある。その際は、行き先を書きつけた紙片を所定の場所に隠し、交代の護衛へ知らせていたようだ。

 今回も、朱全が慧喬の行き先の情報を、交代の護衛に向けて置いて来たはずだ。

 その紙片を見て護衛はこちらへ向かったところを尾けられたということだろう。

 しかし交代の護衛はまだ来ていない。


「その護衛はどうした」

「途中で気付かれて戦闘になり……死にました」

「……殺したのか」


 慧喬の凍るような声が問う。


「……私ともう一人……二人で尾けていたんですが、そいつと相討ちになりました……。護衛が持っていた紙片に行き先が書いてあったので……」

「それを見て一人でやって来たというわけか」


 慧喬が目を瞑り、眉間に深い溝を作る。


 そうまでして急いで自分を亡き者にしようとする理由は何なのか。

 紫紅峰に来てもう一年が経とうとしている。命を狙うのであれば、十分に機会はあったはずだ。


 状況に何か急変があったのか……。


 嫌な予感が慧喬の首筋を撫でる。

 

「……華京で何があった?」


 思わず慧喬の声が低くなる。


「……孝俊殿下が……お亡くなりになりました……」


 一瞬の間が空く。


「……でたらめを言うな」


 慧喬の声が更に低くなる。


「ほ……本当です……」

「私のところへ知らせが来ないはずはない」

「……護衛が持っていた知らせが……懐にあります……」


 慧喬が男の懐を探ると、血に塗れ、ぐしゃぐしゃになった紙が二枚出て来た。

 そのうちの一枚は朱全から交代の護衛への連絡用の紙片だった。もう一枚はふみだった。

 慧喬は血で固まった紙を広げた。


 書かれた文字を追う慧喬の瞳が揺れる。


 そこには、母親である王妃の筆跡で、孝俊が落馬により亡くなった事、そして至急宮城へ戻るようにということが書かれていた。

 普段はきっちりとしている文字が乱れているのが、王妃の動揺を伝えていた。


 文を持つ慧喬の手が僅かに震える。


「心高……」


 手元を凝視する慧喬に文承が声をかける。


「……孝俊殿下……って……」

「……そうだ。……太子殿下だ……」


 予想できた答えではあったが、文承も事の重大さに言葉を失う。

 黙って聞いていた孟起にも、いつもの朗らかな雰囲気は一切ない。


「……私も……石安郷のことがきっかけなんだ」


 唐突に、慧喬が掠れた声でぽつりと言った。

 文承は一瞬、何のことを言っているのかわからず慧喬を見た。


「泰慈先生に弟子入りした理由だ……」


 視線を返してきた琥珀色の瞳には、今まで文承が見たことのない色が浮かんでいた。


「……石安郷の話を聞いた時、私も二度とそのようなことがあってはならないと思った。……だから医薬を学ぶことにしたんだ」


 この状況でそれを語る慧喬の意図を探るように文承が見る。慧喬はそれに応えるように言った。


「……父……陛下は……私が泰慈先生のところへ弟子入りすることに、いい顔はしなかった。でも、兄上が……孝俊兄上が、私の考えに賛同して後押しをしてくれたんだ。そのとき私は……泰慈先生の元で学んだ知識で……王となる兄上を支えて報いようと誓ったんだ」


 力無く下ろした手をぎゅっと握りしめる。

 手の中の文がぐしゃりと音を立てた。


 慧喬は大きく息を吸い込むと顔を上げた。


「……華京へ帰る」


 顔を上げた慧喬から出る声は、感情を切り離したように淡々としたものになった。


「孟起殿。悪いが華京までつきあってもらえるか」


 孟起は心配そうに慧喬を見上げていたが、


「勿論」


 と穏やかな声で言った。



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