第9話 枝葉 6



 翌日、夜が明けると、朝から文承は、陳婆さんのところに来ていない村の人たちの病状を確認するために出かけていった。

 心高と孟起は、到着した県の調査官たちと雪花藻のある水源の泉へと出かけた。

 調査官たちは雪花藻の状況を確認すると、早速その駆除を始め、お陰で雪花藻は取り去ることができた。しばらくは様子を見る必要があるが、疫鬼がいなくなった今、時間が経てば雪花藻の影響も無くなり、じきに元の安全な水に戻るだろう。



 心高が陳婆さんの家に戻ると、陳婆さんが曲がった背中を更に丸めてごりごりと薬研で薬草を引いていた。


「文承殿は?」


 声をかけると、陳婆さんは目をしょぼしょぼとさせながら、「そういえばまだじゃな」と答えた。




 まだ帰らない文承を探して心高は外へ出た。

 小さな村だ。家が点在していると言っても、朝から出掛けてこんなに時間がかかるはずがない。


 万が一ということもある。何かあったのだろうか。


 そう思いながら歩くと、畑の土手にポツンと座る後ろ姿が見えた。


「文承殿」


 心高が近付きながら声をかけると、眉間に皺を寄せた顔が振り返った。

 その顔を見て一瞬、足が止まる。


「何を怒っているんだ」


 心高が聞くと、ふい、と目を逸らした。


「別に怒ってない」


 そう言った文承の隣に心高が腰を下ろす。


「何かまた問題でも起きたのか」

「いや」

「村の者の具合が捗々しくないとか?」

「いや」


 前を向いたまま文承が短く返事をする。


「……じゃあ、どうして浮かない顔なんだ」


 心高も文承を見ないまま聞いた。

 文承が、ふ、と苦そうに笑う。


「何だ。気にしてくれるのか」

「いつもの勢いがないからな」


 文承が心高に怒って説教をするのはいつものことだが、そういった種類の腹立ちではなさそうだ。

 むしろ、落ち込んでいるように見える。


「……お前に気を遣われるとはな」


 文承が大きく溜息を吐いた。

 しかしその後に理由を語ることはなく、沈んでいこうとする夕日に目を移した。

 心高もあえてそれ以上を聞くことなく、目を細めて夕日を眺める。

 山際で赤くゆらめく夕日は、いつもと同じように、何事もなかった顔でねぐらに帰ろうとしていた。


「雪花藻が生えていた泉はどうなった」


 文承がボソリと聞いた。


「ああ。県の調査官たちのお陰で雪花藻は駆除できた」

「そうか。水の湧き出ていた岩の割れ目に根を張ってたのも?」

「ああ。それも取り除いた。だからしばらくすればまた沢の水も飲めるようになると思う」

「そうか」


 呟くように言った文承の横顔に目線を移して心高が付け加えた。


「……岩の割れ目の雪花藻を取り除く時に、岩を削ったんだ。削ってみたら、その奥が空洞になっていたんだ」

「空洞?」


 文承が驚いて心高の方へ顔を向けた。


「ああ。奥は深くはないがちょっとした洞穴だった」

「そこにも雪花藻が生えてたのか?」

「いや、それは大丈夫だった。そこにあった水も仙舌草は反応しなかった」

「そうか。それはよかった」


 文承がほっと息を吐く。


「それとあの村正だが、県に連れて行かれて詳しく取り調べられることになるそうだ。井戸の件以外にも、かなり好き勝手にやっていたようだからな」

「……そうか」

「ああ」


 会話が途切れると再び二人して黙り込み、夕陽が沈んだ後の赤く染まった空を見つめた。たなびく雲は川に流れる紅の帯のように見えた。


 どれくらいの間、そうして座っていただろうか。


「……私の故郷は紅国の西端の郷なんだ」


 文承が突然ぽつりと言った。

 心高がちらりと文承を見る。夕陽を受けた横顔からはその意図を読み取ることはできない。


 心高が泰慈先生のところに来て一年ほどになるが、文承から個人的な話を聞いたことはなかった。心高も自分の話をしない代わりに、あえて尋ねることもしなかった。

 ただ、文承が十年ほど前から紫紅峰にいるということは泰慈先生から聞いていた。非常に優秀で、今では泰慈先生から大抵のことは任せられている。


 心高が知っているのはそれくらいだった。


「石安という郷だ」

「……石安……」


 心高が思わず文承を見た。


「……甲皮病が流行った里のある郷だな」


 文承は、そうだ、と頷いた。


「ちょうどその甲皮病の流行った里が私の故郷だ。その頃、私はお前くらいだった」

「……その最中にいたのか」


 ああ、と文承の普段よりも低い声が答えた。いつもの自信満々の瞳が昏く沈む。


「次々と里の住人が病に罹っていった。でも、原因も治療方法も見つからず……助けを求めても……国は里を切り捨てたんだ」


 心高は瞬きもせずじっと文承の声を聞いた。



 それは十年ほど前のことだった。ちょうど現孝緒王が即位した直後のことだった。

 石安郷のある里で原因不明の病が発生した。人から人に感染る病で、初めは感冒のような症状から始まるのだが、次第に皮膚が硬くなった。皮膚が甲羅のように硬くなるにつれて、じわじわと身体の機能が働かなくなっていく。そして最後には心臓が止まった。

 治療方法が見つからないまま、里のほとんどの者がその病に罹った。

 国は初めのうちこそ治療方法を探すことに力を入れたが、解決の方策が見つからず、とうとう、その病を隔離することを決めた。


 ただその病の病毒が死に絶えるのを待つことにしたのだ。


 病の流行っていた文承の里を囲う塀は外界から隔絶する用途となり、甲皮病と共に里の人たちを見殺しにした。


「もう里の者が死に絶えるという時、泰慈先生がやってきたんだ。閉鎖されている門をこっそりとくぐって、先生が薬を持ってきてくれた。私もその時、死にかけていたんだが、泰慈先生の薬が間に合ったんだ」


 淡々と文承が言った。


「でも、もう私の両親も妹も亡くなったあとだった。里の生き残りはほんの数人だった」


 無意識に土手の草を引き抜きながら文承が続ける。


「生き残ったはいいが、その後も酷い扱いだった。治ったからと里の外へ出ても、甲皮病の出た里の出身だとわかると、感染ると言って石を投げられ、追い払われた」


 文承は草を抜いていた手を止めて、左腕の袖を捲った。


「甲皮病に罹った時の痕だ。体のところどころにあるが、こうして痣になった部分は今でも感覚がない」


 露わになった二の腕には黒い痣があった。

 

「行き場がなかった私は、泰慈先生を訪ねて弟子にしてもらったんだ」


 袖を戻しながら文承が静かに言った。


「私の里のようなことが二度と起こらないようにしたかった。どんな病も治すことができるようになりたかったんだ」


 そして、大きく溜息を吐いた。


「……だけど、それだけじゃ駄目なんだよな」


 自問して出した答えのようにボソリと呟く。


「いくら薬を作っても、医学を学んでも、それだけじゃ不十分なんだ。個人でできることなどたかが知れている。多くの人が安心して暮らすためには、制度や設備が必要だ。癪に障るが国の力がなければ、医療は、必要な人に、必要なときに届かない」


 再び地面に生えた草を抜きながら言った。


「あの沢の下流の里にも被害が出ていただろう。そこまで私一人では手が回らない。今回はまあ、原因が疫鬼によるものだったという異常なものだったのは予想外だったが……病気になった人を治すことはできても、安心して暮らすためには、どうしたって国の力が必要なんだ。……結局、泰慈先生が言った通り、お前を連れてきたことは正解だったんだ」 


 その言葉に心高が思わず文承を見ると、文承も心高を見返した。


「お前……どうして泰慈先生のところで修行なんかしてるんだ」


 真っ直ぐな文承の強い視線が心高を射る。


「心高……いや、違うんだろ? 紅国公主の慧喬殿下なんだろ?」


 芳慧喬。

 現紅国王と正妃の間に生まれた公主だ。


「……気付いてたのか」

「ああ」

「泰慈先生に聞いたのか」

「いや。先生からは何も聞いていない」


 文承が苦笑する。


「名前が……分かり易すぎる」


 眉を顰めた心高——慧喬の眉間を見ながら文承が続けた。


「芳の字の草、慧の字の心、喬の字の高、合わせて草心高。それぞれの文字を構成するものを並べただけじゃないか」


 慧喬は、いいと思ったんだが、とボソリと不満げに言う。


「それにお前みたいな不遜なガキは普通、いない」

「そうなのか?」


 心外そうな顔で首を傾げる。


 初めて会った時から、新しく来た泰慈先生の弟子が高貴な身分であるとは感じていたが、泰慈先生からの指示もなかったので特別に気を使うことはしなかった。

 しかしその生まれつきであろう備わる風格は無視できなかった。

 そしてある日——慧喬には分かり易すぎるとは言ったが——ふと、名前の由来に気付いた。

 まさか大国の公主がこんなことをするはずがない、と思ってみたが、そう仮定してみるとしっくりときた。心高が来てからというもの、泰慈先生の元に国からと思われる使いが増えたのも納得ができた。


「……それで? わざわざ泰慈先生のところで修行をしているのは何故なんだ」


 文承が話を戻すと、慧喬は観念したように大きく息を吐いた。


 その時。


「伏せろっ!!」


 突然聞こえた孟起の声で、反射的に慧喬が文承を抱え込んで地面に突っ伏した。

 と同時に、ひゅん、という風を切る音が慧喬の頭上を通り抜けた。

 頭上を掠めて行ったそれは、木の幹に刺さった。


 飛んできたのは、矢だった。



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