第8話 枝葉 5



 翌日、心高と孟起は再び水源の泉へと出向いた。


「お」


 泉を覗いた孟起が声を上げた。そして、


「戻ってるね」


 そう言って孟起が泉から心高の厳しい横顔へと視線を移した。

 腕を組む心高の琥珀色の瞳が思索の中に沈む。


 昨日、泉に繁っていた雪花藻は随分取り除いたはずだ。しかし今見ると、取り除いたところには再び雪が積もったようにびっしりと雪花藻が生い茂っている。

 泉の脇に積んでおいたはずの雪花藻は跡形もなく消えていた。

 ぐるりと周囲を見回した孟起が何かを見つけてその場を離れた。


「ここにも付いてるね」


 孟起が指を刺した水際の砂地には爪が目立つ足跡が増えていた。


 ここへ来る前に、沢の水汲み場に寄った。

 直しておいたはずの柵は、昨日と同じくバラバラに壊されていた。そしてそこには今見ているものと同じ足跡があった。

 

「これはやはりあれだな」


 心高が孟起の横まで来て、砂地についている足跡を見下ろしながら言った。


「だね」


 孟起が頷いた。





 心高と孟起は雪花藻の除草を取り止め、再び村へ戻ると村正の家へ向かった。


 村正の家の井戸の周りには村人が幾人かいた。


「あ、お前!」


 昨日水汲み場で出会った男が心高を見つけてやってきた。昨日よりも男の歩き姿はかしいでいない。


「陳婆さんのとこには行ったのか?」

「ああ。あの後そのまま行ってみた。貰った薬を飲んだら少し良くなった気がする」


 心高が聞くと腹をさすりながら答えた。同じように具合の悪い隣人にも教えてやったと言う。

 

「それは良かった」


 そう言うと、心高は男の手にある空の桶に目をやった。


「水を貰いに来たのか」

「ああ。昨日も来たら貰えたから驚いた」


 嬉しそうに男が言って、そう言えば、と胸を張った。


「皆にも急いで広めておいたぞ」


 心高は、助かる、と自慢げな男に頷いて見せると、井戸の横で仁王立ちしている村正のところへと向かった。


「……何だ? ちゃんと皆に水は分けてやっているぞ」


 近付いてくる心高を見て村正が鼻に皺を寄せる。


「そのようですね」


 心高が井戸を見ながら言うと村正も水を汲む村人を見た。その目には苛々とした色が浮かんでいる。

 手伝うでもなく、ただじっとりと何かを言いたげに睨む。


「もしかして、そうやって見張ってるんですか?」


 孟起が聞くと、村正が、当たり前だ、とじろりと視線を返した。


「あまり汲んでしまって井戸が枯れると困るからな。柄杓三杯までだ」


 村正が悪びれもせずに言う。


「せこい……」


 思わず孟起が呟くと、村正は鼻を鳴らすことで反論した。

 そんな村正の不満を全く気にした様子もなく、心高が言った。


「井戸の水を少しもらいます」

「柄杓三杯までだぞ」


 村正の言葉を聞きながし、水汲み場で会った男に桶を借りて、井戸から汲んだ水を注ぎ入れる。そして腰の荷包から乾燥した草を出すと、桶にはらりと落とした。

 仙舌草だ。


「何だそれは」


 しゃがんで桶を覗き込む心高と孟起に村正が加わる。

 水に浮かんだ仙舌草は、じわりと水を含み鮮やかな緑色に戻った。緑の葉はそのままゆらゆらと浮いている。


「大丈夫そうだね」


 孟起が言う。

 心高は頷くと立ち上がってさっきの村正の問いに答える。


「ちゃんとまだ飲める水かどうか確かめたんです」


 村正は怪訝な顔をして心高と桶の水を見比べる。


「まだ……ってどういう意味だ」

「ちょっと相談があります」


 心高は村正の困惑した視線を捉えて話し始めた。







 ぼんやりとした輪郭の月が闇の中に所在無げに浮いている。ほうほうと鳴いていた梟が突然ぴたりと鳴くのを止め、ばさばさと飛び立った。


 梟がいなくなるとひっそりとした静寂が訪れ、ぬるりとした風が吹いた。

 すると、柵に囲まれた村正の庭の井戸へと、ぴょんぴょんと跳ねるように何かが近付いてきた。

 それは月の明かりで露わになった。

 子どもより少し大きいくらいの背丈。しかしガリガリに痩せて背骨の曲がった体には、まばらに毛が生えた大きな頭が乗っている。薄汚れた緑色の顔の中に、ぎょろりとした赤い目が闇の中で光っていた。

 それは時々立ち止まり、きょろきょろと周りを見ながら井戸へと進む。骨ばった足の先には黄色く濁った大きな鉤爪が付いていた。

 歩く度に付く足跡は、ちょうど沢の水源の泉のほとりにあったものと同じだった。



「来たね」


 孟起が小声で心高に言う。

 二人は庭の端に建つ物置小屋の影に隠れて井戸を見張っていた。


「やはり疫鬼えききだったな」


 心高が疫鬼から目を離さず眉を顰めた。


 雪花病の発生は、それだけで十分に珍しいことだ。加えて、あれほどの量の雪花藻が、しかも普通では見られない流れのある水の中に繁茂していた。

 その雪花藻は、取り除いても一夜のうちに元に戻ってしまった。

 どう考えても明らかに異常だ。

 おまけにその近くには異形の足跡が残っていた。

 この状況を説明しようとするには、不自然な力が働いていると考えざるを得ない。

 となると答えは一つだった。

 病を広める鬼。疫鬼の仕業だ。


 疫鬼が村人に雪花病を広めていた経路は沢の水だ。

 村人が沢の水を飲まなくなれば、雪花病は広がらない。だから心高たちが作った柵を壊した。そして除去した雪花藻を元に戻したのだろう。

 しかし井戸の水を使うことができるようになり、村人は沢に近付かなくなった。

 となれば、今度は村人が飲む井戸の水に雪花藻を繁殖させようとするのではないか、と推測したのだ。


 そして今、予想どおり、疫鬼が現れた。井戸に雪花藻を仕込みに来たのだろう。


「じゃあ、もうあれを始末していいんだね?」


 心高の後ろから孟起が小さく聞いた。


「ああ。頼む」

「よし、わかった」


 気軽に請け負う声が聞こえたと思うと、孟起の気配が心高の背後から消えた。

 そしてあっという間に疫鬼の前にがっしりとした背の高い影が躍り出た。

 それに気付いた疫鬼は甲高い声を上げて逃げようと向きを変えた。

 しかし孟起はすらりと剣を抜くと、流れるような太刀で逃げる疫鬼の首を造作もなく一気に斬り落とした。


「もう一匹!」


 そこへ心高が叫んだ。

 もう一体、別の疫鬼が走り出て必死の形相で井戸へと向かっていたのだ。

 短剣を手に、心高が物置の影から飛び出す。

 孟起はまるで見えていたように落ち着いた様子でもう一体の疫鬼の方へと走った。


「大丈夫だから来るな!」


 心高に叫ぶと、疫鬼に追いついた孟起は井戸の柵に足をかけた疫鬼を井戸から引き離すように剣で薙ぎ払った。

 そして打ち飛ばされた疫鬼が立ち上がる前にその首元に剣を突き立てた。


 疫鬼の甲高い最期の声が気味悪く夜の闇に響く。

 

「大丈夫か」


 心高が孟起の元へ駆け寄る。


「ああ。間に合った。井戸に被害はないよ」


 剣を鞘に収めながら、孟起は目尻に皺を寄せて場違いな穏やかさで笑った。

 それにつられたように険しかった心高の瞳の色も少し和らぐ。


「二匹いたんだな」


 地面に転がる疫鬼を心高が見ていると、二人を呼ぶ声がした。振り向くと文承が走ってやってくるところだった。


「二人とも、無事か?」

「来なくてもいいと言ったじゃないか」

「そうもいくか。兄弟子としての責任がある。……と言ってもこの状況に私は役に立たなかったけどな」


 苦笑いの文承が孟起に、すまん、と手を上げて合図をする。孟起はにこやかに手を振って返す。


「しかし……雪花病はこいつのせいだったんだな」


 文承が顔をしかめて唸ると、しゃがみこんで絶命した疫鬼をまじまじと見る。


「ああ。不自然に雪花藻が繁殖したのはこいつの仕業だと思う」


 そこへ村正が家から出て恐る恐る近付いてきた。

 村正にはあらかじめ今夜から井戸の見張りをすることを伝えていた。

 昼間は期せずして村正が井戸を見張っているお陰で疫鬼は近寄ることはない。現れるのならば夜だと見張りをすることにしたが、疫鬼がせっかちだったのだろう、初日に始末することができた。


「……それが疫鬼か」


 転がる疫鬼の死骸を見て村正が、ぶるる、と気味悪そうに身体を震わせた。


「……じゃあ、これで井戸の水は分けてやらなくていいんだな」


 村正から出た言葉に心高の片眉が上がった。


「村正個人のものだと思っていたが、聞いたところによると、この井戸は元々は共同で使うために、村の人たちが協力して掘ったものだそうだな」


 心高の声がこの上なく冷たいものになり、村正が思わずびくりと肩をすくめる。


「それを勝手に私物化していたというわけだ。この後、雪花病に関して県からの調査が入るはずだ。その際に井戸の件は問題になるだろうから、咎めを受けることは覚悟しておくように」

「そんな……」


 村正が呆然と呟く。


「まあ、仕方がないですよね……」


 孟起が言い、文承が村正の肩をぽんと叩いて立ち去る。

 村正が縋るように心高を見たが、視線を返すことなく背を向けると、すたすたと行ってしまった。


 村正はぺたりと座り込み、三人の消えた先を未練がましく見つめた。



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