第34話

「ああぁ、いたぁ、桜ぁ」


 相談室の扉の外にいたのは稲葉だった。

「稲葉さん!?」

 桜が焦ったように稲葉に駆け寄った。

「桜、桜、連絡取れないよう、クスリなくなっちゃった、どうしよう?」

 崩れ落ちるように稲葉が桜の肩に縋り付いた。いつもはきちんと着ている制服が崩れているし、髪もボサボサだ。顔色もひどい。

 只事ではない。

 というか、これはまずい状況だ。

「青島さん、ちょっと他の先生を呼んで来て!」

 元施設指導者の血が騒ぐ。緊急事態だ。躊躇はしていられない。

「いえ、だ、大丈夫です。私が連れて帰り」


「大丈夫じゃない!!」


 腹からの大声が出て、その声と私の表情に、桜の腰が引けた。その瞬間に、稲葉の腕を引っ張って、稲葉を相談室に引っ張り込んで、ソファーに座らせた。

「桜ああぁぁ」

 稲葉が情けない声を出した。

「稲葉さん!」

 駆け寄ろうとした桜の目の前で相談室のドアを閉める。

「青島さんはいいから!」


 私は桜を突き放し、内線電話を使って、事務室に連絡を取る。

「相談室の島田です。生徒が体調不良を起こしてます。外線で救急車を呼びます。保護者と連絡を取ってください!!」

 ばんばんとドアを叩く音がした。

「待って下さい!!稲葉さんを返して下さい!」

 桜の大きな声がする。


 桜が懇願する声は、やっぱり弥生の声と似ている。不意に私の頭に浮かんだことはそれだった。




 __________




「……ヤヨ、たまに桜のフリしてた」


 ポツリとナツが言った。


「予備校の自習室でさ、稲葉さんがナッちゃんにケンカ売ったじゃん。ナッちゃんが席にいると座れないとか何とか言って。あの時、実は、桜のフリしたヤヨもいてさ、ナッちゃんにヤヨがいるのバレるんじゃないかってドキドキしてた。あと、ナッちゃんキレると怖いの知ってたから、稲葉さんヤバくって、ナッちゃんに蹴られたらどうしようとか思ってた」


 いつものおしゃべりなヤヨが戻ってきたようで、ナツは少し安心した。「何か飲む?」と聞くとヤヨは「冷たいお茶」と答えたので、ナツは立ち上がって冷蔵庫を開けて、私の酔い覚まし用のお茶を取り出した。


「あいつ、なんであたしに絡んできたの?」


「……人より上に立ちたがるバカは扱いやすいって、桜が言ってた」


 どういう意味なのか分からず、ナツは首を傾げながら、ヤヨにお茶の入ったコップを渡した。


「ヤヨ、怖かったら、無理に話さなくてもいいよ」

 ナツの優しい言葉にヤヨは薄く笑って、コップに口を付けたけれど、そこで手が止まってしまい、お茶はヤヨの口に入っていかない。


「ヤヨは、たまにしか稲葉さんに会わなかったから、よく分かんなかったけど。稲葉さんて、いつも人の悪口ばかり言ってた。誰かの悪口を言えば、自分の株が上がるみたいに勘違いしてる人でさ、単位制ウチの高校のこともバカばっかりって言ってた。だから、ナッちゃんが予備校で勉強してんの見て鼻で笑って、急に自分が追い払ってやるって、一人でいきなり突っかかってったの。ヤヨたちの前でカッコつけたかった感じ」

 そこまで言って、ヤヨは一口お茶を飲んだ。

「それに、なんで、あんなにナッちゃんのこと嫌ってたんだろ」


「この金髪と高校の制服だけで、あたしをバカだと決めつけて、バカのクセに勉強してんのが気に食わないとか、自分の方が上だから言うこときくとか思ったんじゃない? そんな単純な上下感覚しかないヤツだから、桜に扱いやすいなんて言われちゃうんだよ」


「でもねー、ナッちゃん。稲葉さんてさ、根っから悪い子じゃないんだよ」


 ヤヨは、コップを両手に持って、思い出すように顔を上げて宙を見た。


「性格悪くて友達できなかったから、桜が友達になってくれて、一緒に英語部入ってくれて嬉しかった、ありがとーって言ってた。そん時、ヤヨが桜だったから、それ聞いちゃってなんかさ、ヤヨ申し訳なくってさ」


 それからヤヨは、コップの縁を額に押し当てた。


「……桜はね、稲葉さんが変に目立つから、うまく利用できるって言ってた」

「どーゆーこと?」

「稲葉さんて悪目立ちするから、くっついてればうまい隠れ蓑になって、ヤヨが下手くそな演技で桜のフリしててもバレないって」

 ヤヨは自嘲するように言った。

「でも、それってさすがに稲葉が、桜がおかしいって気が付くんじゃないの?」


「稲葉さんてさ、人に勝ったり負けたりばかりに過敏な上に、桜のことを優しいだなんて思ってるし、ナッちゃんがバカだって勘違いしてるし、あの人、自分の思い込みばっかで本当のことには鈍感だよ」


「……でも……みんなみんな鈍感だよ、ナッちゃんも、……お母さんも……みんな」


 ヤヨが吐き出すように呟いた。

 ヤヨと桜の入れ替わりに気付かない鈍感な人たちにヤヨは囲まれていたということだ。ナツはそんなヤヨの肩に自分の肩をぶつけて、ヤヨにニヤッと歯を見せて笑った。



「今なら、あたしは、ヤヨを桜と絶対に間違えない自信あるよ」

 


 それはヤヨにとってどれほど救いの言葉だったのか、ナツは知らない。

 

 

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