第25話

 ガーン と金属に金属が当たるような重い音がした。


 ナツが稲葉の後ろに立っていた街灯を蹴ったのだ。その音に驚いて稲葉が黙る。

「あたしは、こんな見た目だから仕方ないけど」

 音は結構凄かったが、蹴ったというより、街頭に思い切り体重を掛けたという感じだ。ナツのあの重い靴だと、それなりに音や衝撃はあったようだが、街灯が壊れた様子はなくてホッとする。すると、ナツは街灯の柱から足を地面に下ろし、稲葉に顔を近付けて低い声で告げた。

「関係ない予備校の先生まで巻き込むんじゃねえよ」


 おやおや

 ナツが怒ったのは、私のことまで稲葉が疑ったからなのか。


「悔しかったら、もっと勉強しろよ。あたしをけなしても、あんたの成績が上がるわけねえじゃん」

「うるさい…」

「さっさとおうちに帰ってお勉強しな、お嬢ちゃん」


 ナツが稲葉を煽ろうとしたところで、私はようやく二人の間に割って入った。

「稲葉さん、模擬試験では不正は一切行われていません」

 稲葉は悔しそうな顔と、ナツの蹴りに驚いた顔が混ざった複雑な表情だ。

「新居さんは街灯を蹴らない!」

 叱りながら改めて近くで街灯を見ると、やはり音の割には街灯は特に傷は付いていないようで安心した。ナツは肩をすくめて、チッと小さく舌打ちした。

「先にケンカ売ってきたの、そっちのお嬢さんだから」

 稲葉が唇をワナワナとさせていたが、言い返せないのか黙っている。

「新居さんは、いいから帰りなさい」

 私は、ナツの家の方ではなく、私の家の方を指差した。これで、ナツは私の家に帰るだろう。ふて腐れた顔のまま、ナツはぐしゃぐしゃにしてしまった検査結果を、稲葉に見せ付けるように、もう一度広げ直してから折り畳んで、ジージャンのポケットに突っ込むと、そのまま無言で翻って帰って行った。大股でガツガツという足音を立てて去っていく。

 褒められた態度でもないが、狂犬ナツにしては、抑えた方だ。施設にいた頃だったら、絶対に稲葉を殴っていただろう。帰ったら、よく我慢したと、褒めてなだめてやらないと。


「稲葉さん」

「……」

 稲葉は答えない。そんな稲葉を取り巻きたちが囲む。

「帰ろう」

 いつも怯えた顔でナツを見ている子が声を掛けてくれた。このグループで、一番成績の良い子だ。青島っていったっけ。

 青島、青島桜だ。

「また一緒に試験勉強しようね」

 青島がそう言うと、他の取り巻きも稲葉に声を慰めの声を掛け、徐々に駅の方向に向かって歩き始めた。青島がぺこりと私に会釈したので、「気を付けて帰りなさい」と私は手を振った。しばらく、彼らを見送って、それから予備校の中に戻った。教師は片付けをしなければならず、まだまだ帰れない。

 

 だから、青島が稲葉に話し掛けた言葉は、私には聴こえなかった。


「……ねえ、ストレス発散にいいもの、あるらしいよ」




 ___________





 アパートの扉を開けると、上がりかまちにナツがあぐらをかいて座り込んでいた。飼い主を待っているワンコみたいだなと思いながら、金髪をぐりぐりと撫でてやる。


「ただいま、ナツ」


 上目遣いでナツは私を見上げる。何か言いたげだ。とりあえず、今日、稲葉を殴らなかったことを褒めてやらないと。


「よく我慢したね」


「……何を?」


「街灯しか蹴らなかったこと」


「蹴ってないし」


 私は靴を脱いで、ナツを避けるようにして玄関からダイニングに移動した。ナツは立ち上がって付いてきて、私が手を洗い、部屋着に着替えるのを待つように見ていた。

 そして、私がソファーに座って、ちょっと横を向いた瞬間に背中にくっついてきた。


「ユカちゃん、ご褒美は?」


「何が欲しいか決めた?」


「結婚して」


 同じ会話を繰り返すのは不毛だ。

「他にないの? 」


「んんー」

 ナツは唸りながら、私の背中に顔を擦り付けてきた。

「ユカちゃん、考える時間をください」


「じゃ、ご褒美は、『考える時間』ね」



ナツが背中をぽかぽか叩いてくれたので、いい感じに肩凝りがほぐれた。







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