第6話
君は忘れられない子だった。
浜岡がいなくなれば、忘れられないにしろ、少しずつ記憶は薄まるだろう、と思っていた
のに、
あまりにも浜岡がいなくなった喪失感が凄くて、自分でも驚くくらいだった。
表面上は何も変わらず、忙しくて騒がしい日々が続く。浜岡以外に、もっと手のかかる生徒たちはいる。どの子も可愛くて、困ったことに、時には憎たらしい。そして、浜岡と同じようになんとか送り出し、その翌日には、新しい生徒がやって来る。足を止めている暇はなかった。
あれから何日が過ぎても、あの日と同じような色の空を見ると、施設を出て行った時の、あのやるせない浜岡の顔を思い出す。
無意識に右手の小指の下を左手の親指と人差し指で挟むように撫でた。薄く残る傷。掌と手の甲に残る破線の半円。
君は私に消えない痕跡を残していった。
深い噛み跡と一緒に思い出す。
宝石に見えた涙
ぶるぶる震える拳
私を睨みつける目
この傷が消えない限り、私は君を忘れないだろう。
そして、この傷はどうやら消えそうにない。そういうことだ。
だから、私は夕陽を浴びる度に君のことを思い出すんだ。
_______________
大学を出て就職してから5年。
浜岡と会って、天職だと信じて就いた仕事が天職ではなかったことを知っていた私は、浜岡を見送ってから2年後、遂にその仕事を辞めた。
もっと早く辞めるつもりだったけれど、浜岡以外にも担当している子はいたし、やっぱり、どの子もあれやこれやと気になって、簡単には仕事を辞められなかった。
毎日、あれこれ、ばたばた世話を焼いて、生きてくための道筋を一緒に考える、若輩者なりに教えられることは教える。
その繰り返しがいつの間にか慢性化していた。
気が付くと、みんなから若手のエースみたいに言われていて、昇級試験を受ける話まで浮上してきた。
これは、まずいぞ、と思った。
このままだと、本当に、辞められなくなる。
浜岡に対する私の真意は上司に発覚することはなく、逆に、熱意を持って浜岡を指導して無事送り出したと評価されることになったのが良くなかった。しかし、行き過ぎた行為を重ねていたことを私自身がよく分かっていて、私は私情と欲望で動く、不適格な指導者であることを嫌というほど自覚していた。
勿論、その後に担当した生徒に邪な気持ちを持つことなど全くなかったが、いくら働いても、この仕事は自分の天職なんかではないという、後ろ向きな気持ちはもはや消えなかった。
何しろ、私ときたら、施設のあちこちで、もういない筈の君の存在を感じてしまうくらい、私は、君のことばかり考えていたのだから。
元気か
暴れてないか
泣いてないか
作り笑いしてないか
……もう私のことなんか忘れたか
多分、私は、君をずっとずっと求めていた。
____
辞めようと思い立ってから、2年以上も悩んだことになる。
直情型の私にしては、結構真剣に長い時間考えて辞めるって決めたのに、周りの人たちはからはいきなり仕事を放り投げたように見えたようで、もっと考えた方がいい、短慮すぎる、などとみんなして私の決意を翻そうとしてくれた。
ありがた迷惑だけど、家族も同僚も上司も友人もみんなみんな私を心配してくれたのは分かる。
ただ、父さんと母さんには縁を切られた。まあ、良い仕事に就いた自慢の娘だったのに、いきなり転職して、その理由を頑!として言わなかったんだから仕方ない。父さんたら「勘当だ!」って私を家から追い出した。勘当なんて死語だと思ってた。
仕事を辞めたついでに新しい街に引っ越すことにした。
生まれ故郷からも、働いていた施設からも遠い、私のことを知ってる人がだーれもいないとこに行こう!なんて、強がってはみたが、学生時代の悪友の誘いに乗って、その悪友の住む街に行くことにした。悪友が新しい仕事や住処を探すのを手伝ってくれたこともあって、案外、すぐに仕事も家も見付かった。
今朝、私はこの街に着いて、今は、アパートの荷物の片付けをひと段落させて、夕ご飯を食べられそうな店を探しながら街を探検しているところだ。
そんなに都会じゃないせいで少し野暮ったい繁華街。キレイなショップ、チェーン店のカフェ、昔からの暖簾が掛かった古いラーメン屋さん、初めて住む街なのに、野暮ったいところは懐かしいから不思議だ。キョロキョロしてると、お上りさんみたいに思われるだろうか。この街のことを、私は、そのうち、自分のホームタウンだなんて思えるようになるんだろうか。
日が傾いて、少しだけ周りがオレンジ色っぽくなる。
浜岡を最後に見た時も、こんな時間帯だった。
無意識に左手の小指の下を右手の親指と人差し指で挟むようにで撫でた。もう、とっくに痛みはない。
浜岡のことを思い出して、ちょっとセンチメンタルに浸っていたら、目の前の信号が赤になっていることに気付いて足を止めた。
風が吹いて、コートの裾がひらめくと同時に、伸びた髪が鬱陶しく頬に絡み付いたので、耳に掛け直した。
そして、顔を横断歩道の向こう側に向けると、ちょっと派手に制服を着こなしてる女子高生がいて、ふと、その子と目が合った。
「浜岡……?」
「……先生」
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