第5話

 噛みつかれた傷を隠すために、右手に肌色の絆創膏をずっと付けるようになった。


 右手の小指の下、手の甲と手のひらに、破線の半円。

 噛まれたとすぐ分かる形状だ。

 

 同僚や上司から怪しまれて何か言われる前に、料理してる時にひどい火傷をしました、恥ずかしいので隠してます、と先手を打って笑って誤魔化した。中には、変な刺青でも入れたのかと揶揄う人もいた。施設に入ってくる非行少女たちがタトゥーを入れてるなんて珍しくないことだから、私たちは刺青もタトゥーも、それこそ傷も、冗談にできるくらい見慣れている。が、さすがに歯形は余りない。

 つまり、これは、浜岡に付けられた刺青みたいなものだ。

 


 傷が痛まなくなる頃には、浜岡は私にだけは、作り笑顔を見せることはほとんどなくなった。

 面接室で二人きりの時の浜岡は、大抵は仏頂面だが、私を柔らかい目で見てることもあった。私のくだらない冗談に、声を上げて笑うこともあったし、面接が終わる時にちょっと話す時間が足りないと文句を言うこともあった。

 その表情の変化に、浜岡は、まだ甘えたい年頃だということを思い出す。私に甘えたいのだろうとは思うが、私は親ではない。

 指導者だ。この施設の先生と生徒、それだけの関係だ。


 それ以上にはなれない。

 


 浜岡を甘えさせてくれる親代わりの大人はどこかにいないだろうか。

 そう考えて、初めて、浜岡の父親と連絡を取ってみることにした。


 浜岡の父親からは自宅に戻るように説得してくれないかと頼まれた。それをやんわりと断りながら、他に浜岡が帰れそうな場所を聞き出そうとした。


 それはそれは長い長い押し問答の末、浜岡を産んだ実の母親の実家のことを聞き出すことができた。母方の祖父母のことは記録になく、母親の死後、父親は母方祖父母と縁遠くなり、再婚後は絶縁していたとのことだった。


 その情報をなんとか辿って、私は、母方祖父母に連絡を取ることができた。すると、何も知らされていなかった祖父母は、慌てながらとにもかくにも会わせてくれ、施設に面会に行く方法を教えてくれと言ってくれた。

 施設にいる事情よりも何よりも、会いたい、そう言ってくれる人たちだった。



 それが、私と浜岡のお別れの始まりだった。


 

 ____



 ようやく祖父母が面会で施設を訪れた時、浜岡は両親の面会のように拒否しようとしたが、少し悩んで、拒否を撤回した。

 さすがに祖父母を無視できなかったようだった。



「先生、おじいちゃんとおばあちゃんは、あたしを憎んでるんだよ」


 面会室に向かう廊下で、浜岡は足を止めた。

「そうなの? 憎んでるの?」

「そうだよ、優しかったお母さんの子なのに、こんな凶暴で汚いヤツになっちゃったんだよ。こんな孫でかわいそうだよ」

 浜岡は顔を歪めて、拳を握り締めた。浜岡は、不安になると、ぎゅっと力を入れて拳を握るので、動揺してるのが分かった。


「かわいそうだね」


 私がそういうと、同意してくれたと思ったのか、浜岡は顔を上げた。

 でも、そうじゃない。

 浜岡が父親に会いたくない理由は父親とその再婚相手への明確な怒りだ。君がずっと腹の中で必死に抑え込んでる怒り。

 でも、今、祖父母に会いたくないのは、怒りじゃない、怖いからだ。

 浜岡は、大好きだったおじいちゃんとおばあちゃんに、嫌われるのが、こんな孫はいらないと言われるのが怖いんだ。

 おじいちゃんとおばあちゃんが君を憎んでいたら、こんな遠くにまで会いに来るかどうか、少し考えれば分かるだろうに。


「おじいさまとおばあさまは、浜岡がどんな事件を起こして、なんでこんなところにいることになったのか、よく知らないんだよ」


 浜岡が拳をぴくりと震えさせた。


「憎むも何も、何も知らされないのは、かわいそうだ。まずは、ちゃんと顔を見せなさい」 


 拳が緩んで、手が開かれた。その顔で両手を覆う。

 そうだね、何も見たくない、って思うようね。


「怖い? そうか、怖くて行けないんだ」


 怖がっていると言われたのが悔しかったんだろう。顔を覆った手の指の隙間から、ぎ、っと私を睨む。

 図星だからって、八つ当たりはするなよ、頼むから、噛み付くなよ。

 睨んでる浜岡に、私は、くすっと笑い返してやる。


「大丈夫。何があっても、私が浜岡を見てる。一緒にいるよ」


 そう言うと、浜岡は顔を覆ったまま一回俯いた。


「先生、一緒に、いてくれるんだ」


 下を向いている横側が、一瞬、笑顔になったように見えたが、すぐに浜岡はいつものようなスンっと澄ました横顔になって、手を下ろし、顔を上げて廊下の先を見た。


「さぁ、行くよ、浜岡」

 浜岡は返事をせず、ただ一歩。足を踏み出した。



 ____



なつめ、じいちゃんとばあちゃんと一緒に暮らそう」


 その祖父の第一声に、浜岡は、たまらずわぁっと泣き出した。

 小さな子供のように、声を上げて、うずくまって泣きじゃくった。






 __________






 視界に映る物の表面にオレンジ色が当たる夕暮れ時。

 浜岡を最後に見たのは、そんな時間帯だった。



 

 コンクリの施設の前、薄いオレンジの光の中で、あの子はぺこりと頭を下げた。卒業できなかった中学校の制服を着せられて、やるせない顔をしていた。



「先生」


「何?」


「……」


「浜岡?」


「もう、会えないですよね」





「……そうだよ」




 こんなとこから出れるんだから、もっと明るい顔しなよ。


 大抵の子は、この施設から出ていく時には笑顔なのに、君だけは何か言いたげな顔で、スカートの裾をちょっと握って、私をギッと一回睨み付けると、ぐるんっと背中を向けて、大股に歩いて祖父の自動車に乗り込んだ。

 迎えに来た祖父母が私たちに「お世話になりました」と会釈し、君を追いかけるように車に乗り込むと、排気ガスの匂いを残して、あっさりと去って行き、君はいなくなった。


 一旦は祖父母宅に帰るけれど、その後、父親の家から離れるために、県をいくつか跨いだ遠いところへ引っ越す予定らしい。


 


 元気でいてね


 どうか

 

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