第4話

 手が痛くて仕方がない。

 痛みで気が遠くなりそうだ。 



 知ってはいたけど、浜岡は怒ると凶暴だ。

 痛みで変に頭の中は冴えてくる。血が引いて脂汗が出て冷えてきただけかもしれないにしても。

 私の右手に歯を立てている、その必死の形相に目を向けた。

 殴るでもなく、蹴るでもなく、なんで噛んじゃうのかな、君は。

 もしかして君の前世は犬なのか?


 そう思ったら、私は、つい笑ってしまった。こんなに痛いのに笑えるなんて、痛みで混乱してるらしい。


 そんな私の顔を見た君は、目をギョロっとさせた。多分、笑った私を見て、少し驚いたんだろう。



 いい加減に、口を開けて欲しい。痛くてしょうがない。

 でも、私は、浜岡の顔を無理に引き離そうとはしなかった。犬に噛まれたら手を抜かずに喉に突っ込むって聞いたことがあるけど、浜岡にも、力付くで押すよりも、効き目があるのは、多分、距離だ。なぜか分からないけど、浜岡は、人が必要以上に近付くことを恐れてる。


 だから、私は、噛み付かれてる自分の右手に顔を寄せて、私の右手を挟んで、見詰め合った。

 浜岡は少し上目遣いで私を睨む。睨んだ目が瞬く度に涙が落ちる。ふーふーっと息をして、全身を震わせている。握りしめた拳からは骨の軋む音がするんじゃないかってくらいに力が入っていた。

 私の言ったことの何が、君をこんなにしたんだろう。



「……私が許せないなら、このまま噛み千切ってもいいよ」



 そう言うと、ふるっと浜岡は震えて、怯えたかのように、歯の力を少しだけ緩めた。噛めって言ったら緩めるなんて、この天邪鬼め。

 でも、緩んで歯が少しだけ浮いた分、新しい痛みが来た。


 きつい。


「私を許せるなら……」

 私は、はあっと息を吐く。


 部屋の外から人が近付いている気配がした。そろそろ面接時間も終わるだろう。


「良い子に戻って、浜岡……っ、っつ」


 痛みに耐え切れず、つい顔を歪めて、目をぎゅっとつぶった。こんな顔を君に見せたくないのに。こめかみから汗がつーっと垂れるのを感じた。




 ふいに


 手に固く刺さっていたような異物の感触が消えて、一瞬、痛みよりもかーっと熱を感じた。



「………せ、んせ、……ごめ、な、さ………」





 ____



 持っていたハンカチで手を縛ると、すぐにハンカチには血が滲んだが、血がぼたぼた垂れるほどではない。

 呆然とした顔の浜岡をさっさと寮の部屋に連れ帰り、自分は何事もなかったようにトイレに手を洗いに行く。


 水がしみて手がとんでもなく痛かったけれど、それよりも、自分が職員倫理に反したことが怖くて、ゾッとするくらい体が冷えた。

 浜岡が逆上して担当の手に噛み付いた。明らかに規律違反だし、この傷は、傷害事件として被害届を出せるレベルだ。そして、浜岡がそこまで逆上した原因である義母との関係を把握して、上司に報告しなくてはならない。

 もちろん、噛ませてしまった私の非も大きい。

 報告、しなくては…… 



 

 嫌だ…っ


 あの、あの浜岡なつめは私のものだ。

 ぎらぎらした目で涙を落として私の手に噛み付いていたあの顔。

 震える拳と肩。

 あれは、私のものだ。誰にも渡すもんか。

 

 ぶるりと体が震える。

 自分の中に突然巻き起こった、この独占欲は、今でも私の胸の中でたぎっている。それを冷ますかのように、蛇口から出た水が手の傷を穿って、喉からぐううっと言う声が出た。

 絶対に傷痕が残る。浜岡の痕が残る。


 残る。



 _____



「とにかく両親の下には戻せそうにない」とだけ上司に報告し、私は浜岡に噛まれたことを自分の中で握り潰した。明らかな職業倫理違反だった。職務より我欲を優先した。

「最近の浜岡を見てたら、島田先生は浜岡から何かを聞き出せてるいんだって思ったのに」

 そう呟いたベテラン上司の目を誤魔化せたのか、バレていたのか、今となっては分からない。



 そして、この仕事を辞めようと決意したのは、その時だった。



 私はこの上司ひとみたいな指導者になりたかった。

 けれど、浜岡のために多くの違反を犯した私は、もう指導者でいてはいけない。

 失格だ。

 こんな私にこの仕事は向いていない。悔しいけれど。


 浜岡のせいで?

 違う。悪いのは、浜岡を独占したい自分だ。


 

 ____




 どうやら浜岡は、父親の再婚相手のことが好きで、二人が幸せに暮らす自宅に戻りたくないらしい。

 その原因である父親の再婚相手の話をしようとすると、やっぱり浜岡は押し黙った。ただ、黙り込む前に、「ごめんなさい」と小さな声を出して、私の手の傷を見て居た堪れない表情をするようになった。その表情を見ていられなくて、再婚相手の話をどう持っていくべきかしばらく悩んだ。


 それに何より、浜岡には生きていってほしかった。

 こんな綺麗な生き物が、親を憎みながら死ぬなんてあり得ない。

 


 私は、とりあえず担当者として真っ当にすべきこと、すなわち浜岡が生きていけると思える場所を探そうと決意した。


 

 その場所のヒントは、ある日の浜岡自身の言葉だった。

 亡くなった母親の思い出を語っていた時だった。


 浜岡は、早くに母親を亡くし、その後、しばらく父親も離れていたらしい。。

「……先生、だから、あたしは自分の存在がなんか薄くて、自分もいつか消えるんだと思ってた……」

 浜岡は遠い目で呟く。


「改めて教えて。もし、これから生きていくとしたら、浜岡が行きたい所は?」


 浜岡は、深呼吸をして、目を閉じた。何かを思い描いているのだろうか。瞼の下の眼球が動く。

 目を閉じたまま、浜岡は、言葉を宙に浮かべた。



「……あたしがいていいところ」




 私は、君のために、そこを探してあげよう。

 今の私のできることとして。


 そう思いながら、私は左手で右手の傷に貼った絆創膏を擦って、痛みを感じた。

 噛まれたあの日を忘れたくなかった。


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