第3話

「どうしたんだ!自分!? 」

 



 私は頭を抱えた。自分のやっている浜岡への指導は明らかに道を逸れ始めている。


 とりあえず、上司に提出する報告には『家に帰りたくない理由を尋ねたら、無言で泣き始めた。』と提出した。一応、嘘ではない。すると、上司は、浜岡が泣いたことに驚いていた。浜岡は警察に捕まってからほとんど泣いていなかったそうだ。

 どうやら浜岡の方も私にペースを崩されている、ということだろうか。

 でも、あんな風に泣かせてしまった今、もうこれ以上は話してくれないかもしれない。


 それでも、私は、あの子がちゃんと普通に生きていけるようにしてあげたいのだ。

 浜岡は、施設を出た後、死んでしまっても構わないと思ってる。それくらい何かに怒ってて、追い詰められているのに、あの子はその理由を誰にも話そうとしない。


 

 私は、あの子に何をしてやれるのか。


  

 それから、施設では文化祭みたいな行事があって、生徒たちは、合唱の練習者やら絵画の合作やらに時間を奪われて、私は私で飾り付けチームを担当することになり、その指導に忙しく、どの担任もどの生徒も面接どころではなかった。

 時々見かけるけど浜岡は相変わらず良い子を装っていて、一生懸命何かに取り組んでいるようだった。

 合唱曲を真剣な顔で歌ってる顔は年齢相応でホッとする。

 あの子も一人の生徒として上手く擬態しているようだ。それとも本当に行事を楽しんでいるのかもしれない。中学校には、余り通えていなかったと記録に書いてあったし。


 気が付くと、いつだって私の目は浜岡を追っていた。


 勤め始めてから、これまで何人か生徒を担当したし、今でも、浜岡以外の生徒も担任している。

 なのに、こんなに自分が執着してしまうのは浜岡だけなことに私は気付いていた。

 そのことを上司にも先輩にも誰にも相談できなかった。これまでは、少しでも困ると何でも周りを頼ってきたというのに。

 単純に恥ずかしかったのだ。

 自分が、一人の生徒にこだわっていること。



 それも、恋に似たような

 


 だから、私は、浜岡をきちんと普通の生活に送り出してやりたい。そうすれば、私の気持ちも昇華されるだろう。ただ、その時は


 お別れだ。


 

____

 


「家に帰りたくない理由は?」


 私はいきなり浜岡に尋ねた。

 浜岡は一瞬ギョッとしたようだったが、なんでもない風に、これまで答えていたように淡々と答えた。

「父があたしの家庭教師と再婚したからです」

 経歴を見れば誰でもそう思う。

「再婚、それとも再婚相手が嫌なの?」

 何かが引っ掛かる質問だったのか、浜岡は何も答えないで長い沈黙を使ってきた。警察でも、警察が連れてきた心理学の先生とやらも、浜岡から答を引き出すのを諦めた。父親の再婚を拒否して強情を張っていると、そんな風に記録されている。


「再婚相手の人のことなんだけど」

 私が続けて尋ねると、浜岡はチラリと私の表情をうかがった。面接の部屋の窓ガラスに映る浜岡の横顔は無表情だ。ガラスが少し反射して、様子をうかがってる自分も見えた。

 浜岡の表情の意味は読めない。


「大好きなお父さんを家庭教師に奪われた、とか」

 浜岡は何も答えない。


 浜岡の記録を何度も何度も繰り返し読んだ。

 そこから、色々と想像を働かせた。


 浜岡は、家庭教師だった父親の再婚相手を最初はとても気に入っていたようだ。実母の死後、仕事で忙しかった実父と距離ができ、寂しがっていた浜岡は、父からあてがわれた家庭教師をいたく気に入り、勉強時間外でも親しくして、長く一緒に過ごしていたという。浜岡が家庭教師を慕っていたので、実父は再婚しても上手くいく筈だったと考えていたらしい。


 つまり、浜岡は、大好きなお父さんを家庭教師に奪われた、のではなく、



 大好きな家庭教師を父親に奪われた、のではないか?




「浜岡は、家庭教師だったその人が」



「とても好きだったんだね」



 私は、地雷を踏んだ。

 もしくは逆鱗に触れた。






 浜岡が突然立ち上がった。椅子が倒れていたら大きな音がして、他の先生たちが駆け付けてしまっただろうが、椅子は滑っただけで倒れることはなく、たまたま面接室は静かなままだった。


 しかし、面接室の中では激しい嵐が静かに巻き起こっていた。

 浜岡は手が震えるほど、その拳を握り締めている。嵐を握り締めているかのように。


 浜岡が拳を私に向けて振りかぶる。

 他人から殴られそうになるのは初めてだった。研修で習った護身術通りにパンチを避けられる筈はなく、必死で避けたけど、浜岡の拳は鼻先を掠った。つーんとする痛みがして、鼻の穴を熱いものが流れる感じがした。


 はあ、はあ、と浜岡が荒い息を立てる。

 私は、鼻を抑えると、手に濡れた感触がして、見ると手には血が付いていた。鼻血なんて、何年ぶりだろう。手の甲でそれを拭う。ツンっという鼻の痛みは、いつもよりずっと強かった。

 一方、目の前で、顔を真っ赤にして肩をいからせている浜岡は、今にも私に飛びかかってくるか、机を蹴飛ばすか、そんな様子だった。


 今度こそ、非常ベルを押すべきだった。


 でも、浜岡の目尻から涙が零れ落ちて、私はまた、それに視線を縛りつけられた。こんな時でも私はあれを綺麗だと感じてしまう。一回瞬きをして、思考する。


 施設の中で暴れて職員を負傷させた、そんなことになったら、浜岡はどうなる? 


 私を睨みつける浜岡の目が爛々としていた。


 きつく握り締められた拳は震え、床を踏み締める足には力が入っている。

 ひどく殴られる

 もしくは、ひどく蹴られる

 そんな自分が想像できた。


 浜岡の怒りが充満した面接室の中はひどく静かで、微かな音でもすれば、この空気が壊れて浜岡が暴れ出すに違いなかった。

 どうしていいのか、分からず、私は


 待て、


 と言うように浜岡の顔の前に右手を翳した。


 

 



 感じたことのない激しい痛みに声も出ない。


 小指の下、掌と甲と両側に、ぎりぎりと浜岡の歯が食い込んでいる。思い切り強く噛みつかれた。浜岡の歯が私の手を食い千切るんじゃないか、と思うくらいだった。


 声を出されたらまずいと思って、顔に手を近付けたのが間違いだったのだけど、その手を振り払われる可能性が頭をよぎった瞬間に噛まれていた。悲鳴を上げそうになったのは私の方だ。


 ふー、ふーっと鼻と口から荒い息が漏れている。浜岡の両手の拳はワナワナと震えながら腹の前で握りこまれていた。

 殴れない、声も出したくない、そんなところだろうか。畜生、すごく痛い……。



 痛みが痺れを含み始め、ぬるりと血と涎が手首を辿った。

 

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