第12話:異世界の洗礼

 初夏の陽気が洛鳳ルオフォンを包みこみ、湿り気を帯びた微かな香りが鼻腔びこうを満たす。朝の新鮮な空気を胸いっぱい吸い込みながら、私は目の前にある巨大な朱塗りの門を見上げていた。


「こ、これが、翠月城ツイユエチョン


 その荘厳な美しさに思わずこぼれる独り言。


 でも、今日からここが私の職場。


 私も宮人となり、ここで寝泊まりすることになるんだ……。ここから、宮廷音楽宴に出場するという次の夢へとつながってゆくんだ……。


 そんな実感が、今更ながら心を覆う。


「よし」


 そう小声でつぶやいて、私は心を奮い立たせて朱雀すじゃく門の前に立つ。そして門衛さまに丁寧に話しかける。しかし門衛さまは、そんな私の言葉に怒声を上げて返してくる。


れ者が! ここは貴様のような下賤げせんの者が来る場所ではない! とっとと失せろ!」


「そんなこと言われましても……、私は今日から宮廷楽士として働く雪梅シュエメイというものです」


雪梅シュエメイ? 宮廷楽士? お前聞いているか?」


 一人の門衛さまが、もう一人にそう話しかける。しかしその門衛さまも首をひねるばかり。


「そういうことだ。悪いな、今すぐ消えろ」


 門衛さまは追い払うような仕草で私に手を振ってくる。しかし私は必死に食い下がる。


「待ってください。この宮廷印章を見てください。迎夏節の音楽宴でいただいたものです。信じてください……」


「あぁ、よくできた偽物だな。お前がちゃんとした格好をしてきたら俺もだまされたかもしれんがな……。今度からはもう少しちゃんとした格好をしてくるんだな」


 するとその時「大丈夫かい、雪梅シュエメイ」と聞き覚えのある温かい声。


「じ、景明ジンミンさま……」


 そうだ、私はあの時、景明ジンミンさまから宮廷印章をいただいたんだ。景明ジンミンさまに説得してもらえば……。そう思ったその瞬間、門衛さまの顔色が変わる。


「こ、これは、景明ジンミンさま。おはようございます」


「あぁ、おはよう。ところで、私の大切な友人が、お前に何かまずいことでもしたのかい?」


 景明ジンミンさまは門衛さまに優しくそう言葉を返す。


「いえいえ、なんでもございません。どうぞ景明ジンミンさま、雪梅シュエメイさま、お通りください」


 門衛さまはそう言って、深々と頭を下げながら道を開ける。


 すると景明ジンミンさまは、「いこう、雪梅シュエメイ」と私の右手を握り、優しく導いてくれる。私はそんな景明ジンミンさまの横顔をみて、「ほっ」と小さく丸い息を吐いた。



「あの……、助かりました、景明ジンミンさま」


 朱雀門をくぐり、宮廷内に入った私は、景明ジンミンさまにそう話しかける。すると「しっ、黙っていて」と告げる景明ジンミンさま。その言葉を聞いて私はすぐに押し黙る。


 いや、その表現は少し正しくないかもしれない。なぜなら、目の前にあるものが、あまりにも圧倒的で、私は言葉を失っていたのだから……。


 そう、いま私の目の前にあるのは、金箔で飾られた朱塗りの柱、玉石で精巧な彫刻が施された石畳、そして琉璃瓦の鮮やかな色彩の屋根。すべてがすべて初めて見るものばかり……。


「こ、これが宮廷……」


 その豪華さに圧倒され、私は思わず心の中でそうつぶやいてしまう。


 しかし景明ジンミンさまは、そんな周りを見回す私などお構いなしで、どんどん前に進んでゆく。そしてひときわ豪華なお屋敷に入ってゆく。すると聞こえてくる「景明ジンミンさま!」という悲鳴にも似た宮女さまの声。


「ど、どうしたのですか、景明ジンミンさま。そんなみすぼらしい女性なんか連れてきて……」


 その瞬間、景明ジンミンさまの顔色が変わり、私がいままで見たことのないような怖い顔となる。でも、そこから発せられる声は優しくて……。


鈴雲リンユン。この女性は、今日から栄えある宮廷楽士として皇宮に勤めるものだ。今すぐ宮廷の作法をよく教え、身なりを整えさせろ。あと、雪梅シュエメイは私の大切な友人だ。そして私の大切な人の親友でもある。決して無礼のないように」


 景明ジンミンさまは鈴雲リンユンさまにそう告げると、私の方に視線を移し、その顔に微笑みをたたえてくれる。そして優しく話かけてくれる。


雪梅シュエメイ、この建物の中にいる間は安心して話してくれていい。でも宮廷は蛇蝎だかつの巣だ。外では鈴雲リンユンから言われたことをよく守り、決して余計なことをしないように……。あ、あと、どうしてもつらくなったらここに来なさい。私は君の味方だからね、雪梅シュエメイ


 その言葉に「はい」と素直に答えた私は、景明ジンミンさまに安堵の表情を向けた。



 鈴雲リンユンさまに導かれ別室へと移動した私は、これからの宮廷生活に必要な様々なことを教えられた。


 まず服装について、宮廷内では必ず指定された朝服を身に着けなければいけないとのことであった。


 また、私は三級楽士として、特級、一級、二級の楽士さまよりも派手な格好をすることは許されず、劉新リウシンくんがくれたかんざしを含め、装飾品はつけてはいけないとのことであった。


 そして高位の人物の前では、背筋を伸ばして礼儀正しく振る舞わないと命にかかわるとのことであった。


 つまり、たとえ私が景明ジンミンさまと個人的に仲が良かったとしても、外では最上位の敬意を払わないといけないとのことであった。


 そのとき私は、景明ジンミンさまの「どうしてもつらくなったらここに来なさい」という言葉の意味がなんとなく分かった気がした。


 そして着替えが終わるか終わらないか、ちょうどそんな時、部屋の外から「雪梅シュエメイ、準備はいいか?」という景明ジンミンさまの声が聞こえてくる。


 その声に「はい、景明ジンミンさま」と答える鈴雲リンユンさま。


 そして「これで準備は終わりです。雪梅シュエメイさま」と言葉を継ぐ鈴雲リンユンさま。


 その言葉を聞いて部屋に入ってくる景明ジンミンさまは、なぜか少しの驚きをその顔に宿している。


「ごほん……。じゃあ三級楽士がいる教坊練習場にいこうか、雪梅シュエメイ。あ、あとその前に、なにか私に聞きたいことはあるかい?」


 そう優しく微笑みかけてくれる景明ジンミンさまに、私は静かに首を横に振る。


「そうか、それならばよかった……。あと、この建物から出たら、質問されるまで決して自分から話さないこと。これは絶対に守ってくれ、雪梅シュエメイ。困ったことがあったら相手に礼をすれば、あちらから話しかけてくれるから、それを必ず待つこと。わかったかい?」


 そんな優しい景明ジンミンさまの一言に、私は再び「はい」と返事をしてみせる。そして思わず下を向く。すると自分の着ている楽士服が目に入る。


 その瞬間、私は自分が夢の入り口に立ったことを実感する。


 そう、これから楽士としての実力をつけていければ、年始に行われる宮廷音楽宴に出場するという夢もきっと叶う。だからこれから必死に頑張ろう。そんな決意と希望が、今の私の胸の中には満たされていた。

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