第三章:小さな光、かすかな希望

第11話:一夜明けたその後で

雪梅シュエメイねぇちゃん、迎夏節の音楽宴、優勝おめでとう!」


 宮廷楽士への登用をけた迎夏節の音楽宴。


 その栄冠を手にした翌日の朝、藍天ランティエン酒家の扉を開けると、劉新リウシンくんの弾けるような声が飛び込んでくる。まるで待ち構えていたかのように、毎月の食事会に招待している子供たちが次々と抱きついてくる。


 そんな温かい想いに包まれたその瞬間、私は夢がかなったことを実感する。


「ありがとう、みんな」


 笑顔で私がそう言葉を紡ぐと、その視線の先に見えるのは「よかった、本当によかった」と満面の笑みでつぶやく李叔叔おじさま。しかし杏音シンインさまの表情は、いつもと少しも変わらない。


「だから言ってたでしょ? 雪梅シュエメイなら勝って当然だって……」


 いつもと変わらない笑顔で、そう手を差し出す杏音シンインさま。私はそれを笑顔で受け入れたものの、すぐに杏音シンインさまの手が震えていることに気がついた。そして、熱いしずくがその手に落ちる。


「信じていたよ。本当に信じてたんだからね、雪梅シュエメイ……」


 そんな杏音シンインさまのか細い一言は、かろうじてりんとした気品を感じさせるものであったものの、そこにはかすかな涙声が混じっている。


 すると杏音シンインさまは私を強く抱きしめてくれる。「よかったよ、本当によかったよ」とただ繰り返してくれる。


 私があわてて視線を向けると、そこにあるのは涙でぐしょぐしょの杏音シンインさま。それを見た瞬間、私の中で杏音シンインさまへの感謝の気持ちが泉のように湧き上がり、一気にあふれ出し、その温もりに全身が包まれてゆく。


 だから私は、込み上げる想いを抑えるように宙を向く。


 そして息を詰まらせながらも、「ありがとうございます。杏音シンインさま」と必死に言葉を紡ぐ。


 店ののき先から聞こえる油蝉のなき声が、私たちの喜びに寄り添うかのように響き渡っている。涙で潤んだまぶたの向こうに、窓から洩れる初夏の陽光が、宮廷楽士への新たな一歩を祝福しているかのように輝いている。


 そんな穏やかな時の流れに身をゆだねていた私の意識は、ふと大切なことを思い出し、現実へと引き戻される。だから杏音シンインさまの胸元から慌てて顔を上げ、急いで口を開く。


「すいません、杏音シンインさま。お借りしていた旗袍チーパオ、もう少し待っていただけませんか? 汗で随分汚れてしまって、その、洗濯がまだ間に合ってなくて……」


 私は、そう申し訳なさそうに言いながら、杏音シンインさまの胸の中からゆっくりと顔を離す。すると目の前にあるのは、涙でぐしょぐしょになりながらも、意外な表情を浮かべている杏音シンインさま。


「いいよ、いいよ。あの旗袍チーパオ雪梅シュエメイにあげる。私が着るのは当分先になりそうだし、これも餞別せんべつよ、餞別せんべつ


「で、でも……」


 そう困った気持ちを杏音シンインさまに伝えると、その横で「ごほん……」と急に咳払いをする李叔叔おじさま


「これは俺からの餞別せんべつだ。この二胡にこを受け取ってくれないか?」


「李叔叔おじさま、これって昨日の音楽宴で貸してもらった皇帝陛下からいただいた最高級の二胡にこじゃ……」


「もちろんそうだ。でも雪梅シュエメイはこれから宮廷楽士になるんだろ? これくらいの楽器を持っていなくちゃカッコがつかないだろう?」


 そんな李叔叔おじさまの言葉に、思わず言葉がつまる。


「そうだなぁ……。じゃあ雪梅シュエメイ杏音シンイン旗袍チーパオと私の二胡にこの代金として、ここで迎夏節の音楽宴で優勝した曲を弾いてくれないか? 宮廷楽士さまの貴重な音楽だ。それくらいの価値はあるだろう?」


 そう優しくささやく李叔叔おじさまに「でも……」と断ろうとしたその瞬間、店中に響き渡るのは大きな拍手。そして優しく二胡にこを手渡してくれる李叔叔おじさま


 そんな雰囲気に流されて、私は思わず二胡を受け取ってしまったものの、すぐにある大切なことに気づく。


「李叔叔おじさま! もうこんな時間じゃないですか? お店の準備をしないとお昼の仕込みに間に合わないですよ?」


 私のその言葉に、急に噴き出す李叔叔おじさま杏音シンインさま。


雪梅シュエメイ、あなたお店の入り口見てこなかったでしょ?」


 そう意地悪そうに杏音シンインさまは笑う。


「今日は臨時休業なんだよ、雪梅シュエメイおねぇちゃん。こんなめでたい日なんだから、今日は祝勝会に決まっているじゃないか!」


 劉新リウシンくんのその言葉に、李叔叔おじさまは何度も静かに頷いている。それを見て私はやっと状況を理解する。みんなが私のために今日という日を特別な日にしてくれたのだ。その実感が私を覆う。


 そうだ。だからこそ、藍天ランティエン酒家は特別な場所なんだ。私を支え、祝福してくれる、最も大切な場所なんだ……。


 それを心から理解した私は、店にいるみんなににっこりと微笑んで、静かに二胡にこを奏で始めた。

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