第13話:仮面の向こう、世界の向こう

「さぁ、いこうか、雪梅シュエメイ


 景明ジンミンさまの柔らかな声に背中を押され、私はお屋敷の門をくぐる。


 初夏の陽光が真上から降り注ぎ、石畳を白く照らしている。そして空を見上げた景明ジンミンさまの瞳に光が揺れる。


「今日も暑くなりそうだ」


 そのとき右手に伝わるのは景明ジンミンさまからの温もり。そして、それをゆっくり引いて、翠月城ツイユエチョンの西へ西へと歩きだす景明ジンミンさま。


 私はそんな右手に少しの恥ずかしさを感じながらも、導かれるまま、その道を進んでゆく。


「さぁ、ここだ。この建物だ」


 景明ジンミンさまの言葉につられて視線を上げると、そこにあるのは立派な建物。


 さっきまでいたお屋敷と比べると数段落ちるものの、藍天ランティエン酒家と比べれば明らかに格が違う。


 そんな宮廷独特の建物に圧倒され、私は思わず息を呑む。冷たい汗が、じんわりと背中ににじむ。


「大丈夫だ。安心しなさい」


 景明ジンミンさまはそうささやいて、その手に少しの力を込める。するとそれは、私に少しの勇気を与えてくれる。


 そんななけなしの勇気をいただいた私が、景明ジンミンさまに連れられて建物の中に入ってゆくと、不思議と気になるのが人の視線……。


 すれ違う人々が皆、驚きの表情を浮かべている。そして私をじっと見つめてくるのだ。


 だから私は、そんな視線に耐えきれない。心の中は申し訳ない気持ちですぐにいっぱいになり、みすぼらしい自分がどんどん情けなくなってゆく。


「さぁ、ついた。ここが雪梅シュエメイが属する星霜シンシュアン三級楽士たちの教坊練習場だ。心の準備はいいかい?」


星霜シンシュアン? 教坊?」


 聞きなれないその言葉に、私は思わず言葉を返す。


「あぁ、説明していなかったか……。すまない、すまない」


 景明ジンミンさまはそう言って、軽く頭をかく。


「三級楽士は、星霜シンシュアン月華ユエホワ風清フォンチン雲遊ユンヨウ海潮ハイチャオの五つの楽士団がある。雪梅シュエメイは、今日からその中で一番下の星霜シンシュアン三級楽士団に所属することになったんだよ。ま、詳しいことは、星霜シンシュアンの楽士団長が教えてくれるから、安心しなさい」


 景明ジンミンさまは、そんな言葉とともに小さくうなずいて引き戸を開ける。


 すると目の前に広がるのは、ところどころ塗料がげているものの、長い年月を経て、なお古びた美しさをたたえる朱色の大きな柱。そして天井にある簡素な格子状の欄間らんまからは初夏の光が降り注ぎ、り減った板張りの床を柔らかく照らしている。


 その格式のある光景に、思わず私は圧倒される。しかしそれ以上に圧倒されたのは、戸が開いた瞬間に巻き起こる驚きの声。


「じ、景明ジンミンさまがなぜこのような場所に……」


 そんな声を代表して、初老の白髪の男性が景明ジンミンさまにそう話しかける。すると景明ジンミンさまは「たまたまさ、楽士団長」と笑顔を返す。


「この子が迷子になっていたから、ここに連れてきただけさ」


 そう言葉を続ける景明ジンミンさまに、楽士団長さまは唖然あぜんとした表情を浮かべている。


 するとその刹那、楽士団長さまは私の存在に気がついて、少しの冷静さを取り戻したかのように私のことを話題に上げる。


「あぁ、この娘が雪梅シュエメイですね。探してたんですよ。朝からずっと朱雀すじゃく門の前で待っていたのですがね、それらしい人が全然あらわれなくて……」


 そんな楽士団長さまの言葉に、景明ジンミンさまはクスッと笑う。私は普段着で来てしまった自分を恥じる。


「では楽士団長、あとはまかせたから……。それと、雪梅シュエメイ。君も頑張るんだよ」


 景明ジンミンさまはそんな言葉と笑顔を残し、静かに教坊を去っていった。



 景明ジンミンさまの足音が遠ざかってゆくにつれ、その雰囲気は一変する。まるで時が止まったかのような静寂せいじゃくが教坊を支配する。


 そしてその静寂せいじゃくは、嵐の前のなぎのような不吉な予感をはらみ、その嵐は、とある楽士の小さなささやきから始まった。


「なに、あの田舎者。よりによって景明ジンミンさまに連れてきてもらうなんて……」


「あんな田舎臭い女が宮廷楽士だなんて、ジン朝の音楽も地に落ちたものね」


 そんな容赦のない言葉が徐々に教坊を包みこむ。そしてその声はどんどん大きくなってゆき、私は、自分の心が押し潰されそうになってゆくのを実感する。


 市井の私が宮廷に入るのだ。だから、ある程度の軋轢あつれきは覚悟はしていた。


 しかし、これは私の予想をはるかに超えている。いままで経験したことのない憎悪が、私ひとりに向けられている。


「はいはい、静かにしてください」


 そのとき楽士団長さまが、やや困惑した表情で場を収めようと試みてくれる。


「今日から、私たち星霜シンシュアン三級楽士団に配属された雪梅シュエメイさんです。拍手でお迎えしましょう」


 その言葉と共に起こるのは、まばらな形だけの拍手。その薄い拍手が、かえって私の居場所のなさを際立たせる。


 教坊にいる楽士さまたちは、男女問わず、あからさまな侮蔑ぶべつの色を浮かべ私を見つめている。


 しかし楽士団長さまは、そんな重苦しい空気を打ち破ろうと急いで言葉を継いでくれる。


「そうだ、雪梅シュエメイさん。せっかくだから皆様に一曲弾いてもらえないでしょうか? 例えば、迎暑節の音楽宴で弾いた曲とか……」


 この雰囲気に耐えきれなかった私は、その言葉に小さくうなずいた。そして背中に背負った二胡にこに手を伸ばす。しかしその指先は微かに震えている。


 でも私は深く息を吸い、丁寧に二胡にこを構えてみせる。おもむろに弓を弦に当ててみせる。その瞬間、周りの視線が私に集中する。その重圧に耐えながら、私は静かに弓を引く。


 そして二胡にこは、清らかな音を紡ぎ始める。糸を引くような繊細な音色が、静寂を震わせながら空間に広がってゆく。


 私は杏音シンインさまから学んだ指使いで、精一杯の想いを込めて音を奏でてみせる。迎暑節の音楽宴での想いを胸に、一音一音を大切に紡いでみせる。だから二胡にこは、私だけの音色を奏でてくれる。


 でも、そこに仙術はない。ただ二胡にこが奏でる旋律だけが、この広い教坊に響くのみ。


 だから演奏中なのに聞こえてくるのは、嘲笑をこらえるかのような微かな声。私の心を握りつぶしてしまうような小さな声。


 そして演奏が終わり、私が弓を引く手を止めた瞬間、せきを切ったように非難の声があふれ出す。


「なに、この基礎も何もできていない演奏は? これでも音楽なの?」


「仙術なしの音楽とか、初めて聴いた。街の大道芸人でもこんな演奏はしないよね?」


 そんな非難の嵐の中、私は必死に拳を握る。そこに冷たい汗がじっとりとにじむ。


 そしてその時、私の心を満たしていたのは、杏音シンインさまに教えていただいた二胡にこを汚してしまったという悔しい気持ち、私を支えてくれたみんなの想いを台無しにしてしまったという悲しい気持ち。


 だから私は、その悔しさと悲しさに、全身を震わせることしかできなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る